01:ボーイ・ミーツ・ガール(4)

 その夜。
 家の時計が零時の鐘を叩いても、セイルは寝付くことができなかった。
 青い空を背景に、白い少女が落ちてきた時の光景が脳裏に焼き付いて離れないのだ。光景だけじゃない、あの時感じた温かさ、少女の息づかい、その全てがまさに今そこにあるかのごとくはっきりと思い起こされる。
 そして。
 セイルはゆっくりと、右手を閉じて開く。あの不思議なナイフは母に預けたままだったけれど……果たして、あれは現実だったのだろうか。
 自分の手がナイフと同化して鋼を切り裂いた、その感覚はどう考えても夢ではないはずなのに、こうやって自分の手を見てみてもいつも通りの自分の手で、どうしても記憶の方を疑いたくなる。
 眠って目を覚ましたら、実は少女もあのナイフも全部夢で、自分にはいつも通りの明日が待っている。そんな気がするのだ。
 だから、眠れない。眠りたくないのかもしれない。
 小さく、ため息一つ……すると。
 歌が、聞こえた。
 囁くような優しい響き、耳慣れない、しかし不思議と心が安らぐ旋律。耳を澄ませるかぎり歌詞が乗せられているようだったが、言葉を聞き取ることはできなかった。
「この歌……」
 歌は、すぐ隣の母の寝室から聞こえているようだった。セイルはベッドから降り、音を立てないように気をつけて部屋を出てそちらに向かう。ほんの少しだけ開いていた母の部屋の扉から微かな光が漏れだし、そこから歌声も流れ出している。
 セイルは恐る恐る、扉の隙間から部屋の中を伺う。
 ランプのほの青い光が部屋の中を柔らかく包み込み、ベッドの上に腰掛けた少女をぼんやり浮かび上がらせている。少女は胸に手を当て、目を閉じて歌い続ける。セイルには意味のとれない言葉による歌を。
 何故か……懐かしいと感じてしまう、歌を。
 知らない。こんな歌は聞いたことがない、はずなのに。胸がぎゅっと締め付けられて、何故かとても切なく、涙が出そうな気分になる。理由のわからない感情にセイルが戸惑っていると、少女がふとこちらを見て、歌をやめる。
「……誰ですか?」
「あ、ご、ごめん。邪魔しちゃったかな」
 セイルは空色の頭をかきながら、部屋に入る。少女は「いいえ」と首を横に振って微笑む。
「その……ありがとう、ございました。わたしを、休ませてくれたのですね」
「ううん、気にしないで。具合はどう? 突然倒れちゃったから大丈夫かなって思ってたんだけど」
「もう、だいじょぶです。とても、疲れていただけですから。ごめんなさい、心配かけて」
 少女は申し訳なさそうに俯くが、そんな顔をしないでほしいと思う。ここに連れてきたのは自分だし、自分がそうしたかっただけだし……セイルはぐるぐる渦巻く思いを上手く言葉にできずに、口をぱくぱくされるばかり。
 本当は、ただ笑ってほしいだけなのだ。俯いている少女を見ているのが、辛いのだ。だから、何とか少女に思いついた内容を語りかける。
「そうだ。君のナイフは俺の母さんが預かってるから心配しなくていいよ」
「『鍵』、無事なのですね。よかった、です」
 少女は胸に手を当て、心から安堵の息をつく。
「あの変なナイフ、一体何なんだ? それに、俺の兄貴を探してるって言ってたけど……」
「『鍵』は大切なものです。楽園にたった一つしかなくて、使い手を選ぶとても大きな力を持った剣です。だから、色々な人が欲しがります。ただ、わたしは詳しく知らないです」
「知らないの?」
 はい、と頷き少女は窓の外に目をやる。藍色の空に浮かぶのは、無数の星。女神が流した涙の粒が、きらきらと宝石のようにきらめいている。
「けれど、ノーグ・カーティスは知っているです」
 少女の小さな唇から放たれる、兄の名前。
「ノーグは『鍵』を使えます。何でも知っていて、楽園の未来も知っていると聞きました」
「未来、も?」
 まさか。セイルは思わずにはいられなかった。
 セイルの記憶の中にいる兄は、確かに博識ではあったが未来を知るような、特別な人ではなかったはずだ。けれど、少女はそれを信じきっているのか真面目な表情で言葉を続ける。
「わたしは、ノーグに『鍵』を託して、知恵と力を貸してもらわなくてはならないです。だから、ノーグが住んでいたここに来ました」
「でも……兄貴は、六年前人を殺してからからずっと行方不明なんだ。俺も、行方は知らないんだよ」
「人を殺した、ですか?」
「うん。仲間を殺してね、逃げちゃったんだってさ」
 俺は、信じていないけれど。
 セイルは小さな声で付け加える。自分がどれだけ兄のことを知っているかというと怪しいけれど……信じるか否かは自分の心が決めることだ。セイルはこれまで自分にそう言い聞かせて、兄が消えてからの六年を生きてきた。
 もう、兄の顔も写真を見なければ思い出せないというのに。
 少女はちょっと表情を曇らせて、セイルを見やる。
「ノーグは、悪い人、ですか?」
「違う、と信じたいけど。正直……わからないよ」
 セイルも俯いて、拳を握りしめる。セイルの記憶の中には、無愛想だけれどいつも優しかった兄の声が刻まれている。そんな兄が罪を犯すわけがない、そう信じたいのに、完全には信じられない自分に腹が立つ。
 ただ、これがセイルの本心であることも、事実だった。
 セイルは恐る恐る少女を見る。余計に不安がらせることを言ってしまったかもしれない、そう思っていたのだが……セイルの予想に反して、少女は明るい笑顔を浮かべてセイルを見上げていた。
「それなら、確かめないとわからないですね。ノーグに会うのが楽しみです」
「た、楽しみ?」
「わからないものを知るのは、ちょっと恐ろしくてちょっとわくわくです。違いますか?」
 ちょっと恐ろしくて、ちょっとわくわく。
 変わった言い回しだったが、その言葉はすとんとセイルの胸の中に落ちた。きっと「好奇心」をわかりやすく表すとそういう気持ちなのかもしれない。
 そして、自分は。
 色々なものを闇雲に恐れるあまりに、そういう「わくわくする」気持ちを、いつの間にやらどこかに置き忘れてきてしまっていたのではないかと、思う。
「教えてくれてありがとうございます、セイル。わたしはこれからもノーグを探します。もしも見つけたら、セイルにも教えますね」
 少女はにっこりと笑うけれど、セイルは胸の中に生まれた不可解な感覚をどうしていいのかわからず戸惑う。何かが胸の奥から飛び出そうと、セイルをつき動かそうとしている。
 違う、この感情の正体なんて、わかりきっているじゃないか。
 それは――
「あのさ、俺も……」
 言いかけたその時、突如窓の外がかっと輝き、轟音が屋敷を襲う。「な、何だ?」とセイルが窓の外を見やると……外の林の中から、巨大な何かが迫ってきていた。人より少しだけ変わった視力を持つセイルは、普通ならばただ闇にしか見えない空間に銀色の目を凝らし、そこに存在するものをおぼろげに捉える。
 それは、丸い体から四本の足が生えた、鋼の固まり。魔道大砲を担ぎ、関節から薄緑に輝く煙を吐きつつ、赤く輝く硝子の単眼でセイルの家を見つめている。
「ご、ゴーレム? しかも、魔道機関の……」
「そんな、こんなところまでっ」
 少女が悲鳴を上げると、部屋の扉がばんと開いた。セイルと少女が同時にそちらを見ると、母がそこに立っていた。息こそ切らせていたが、その表情はあくまで余裕のある笑み。
「セイル、その子をつれて裏手から逃げろ」
「で、でも、母さんは……」
「なあに、母さんは絶対に大丈夫さ。ほらよ」
 セイルの不安を笑顔ではねつけ、母はセイルに手に持っていたものを投げる。とっさに手を伸ばして受け取ると、それは荷物でいっぱいになった旅鞄だった。そして、続けて投げられたものは白い包み。
 『鍵』だ。
 包みがセイルの手に収まったのを確認し、母は凛とした声で言う。
「『ディスコード』! セイルとその子を頼んだぞ。もうあんな思いはごめんだっ!」
『――言われなくともわかってら!』
 頭の中に響く少年の声。一体、何のことを言っているのだろうかと呆然とするセイルを、母が鋭く叱咤する。
「何してる! 逃げるんだよ、そしてノーグを探すんだ!」
「兄貴を?」
「奴をとっ捕まえろ、事情を吐かせろ! その子が現れた今なら捕まえられるはずだ!」
「それって、どういう」
 セイルの言葉は、しかし再び響いた轟音によって遮られた。今度は音だけでなく、激しい揺れが屋敷を襲う。あの馬鹿でかい大砲で撃たれたのだ、とセイルの意識は凍りかける。だが、横を見れば少女は背筋をぴんと伸ばし、意志の強そうな瞳で真っ直ぐに窓の外を見つめていた。もちろん、そこに不安の色はないわけではない。だが、それ以上の強い意志が彼女をそこに立たせているように見えた。
 自分も、ただ呆然と立ち尽くしているわけにはいかない。何もわかっちゃいないけれど、今は走るしかないのだ……鞄を背負い、強く包みを握りしめ。
「わかったよ。行ってくる!」
「ああ。無事に逃れたら、連絡くらいはよこせよ」
「母さんこそ、無事で!」
 行こう、とセイルは少女に手を差し伸べる。少女は迷わずその手を取る。セイルは少女と目を合わせ、同時に頷いて駆け出した。
 本当は不安しかない。
 あんな巨大な魔道機関のゴーレム相手に、ただの人間である母が太刀打ちできるとは到底思えない。けれど、母は「絶対に大丈夫」と言った。いつも適当なことしか言わない母だが、「大丈夫」と言った時はどんな手段であれ「どうにかする自信」がある時だ。だから、今だけはその言葉を信じて走る。
 家の裏手から出て、草木をかき分けて行く。月の光と、闇を見通す銀の瞳があれば、道なき道でも少女の手を引きながら何とか走り抜けられる。
 時折、段々と遠ざかり行く屋敷の屋根をちらりと振り返るけれど……ここで足を止めるわけにはいかない。
 ――走れ、セイル。
 繋いだ手と、片手に握りしめた包みの感覚だけを確かめながら、セイルは自分自身に言い聞かせる。走れ。走れ。今この子を守れるのは自分だけなんだ、と。
 ほとんど交わす言葉もなく、手を繋いだままどのくらい進んだだろうか。時に立ち止まり、時に少女に合わせて歩みを緩めながら、林を抜けた時には空の向こうは白み始めていた。
「……助かった、ですか?」
 肩で息をしながら少女がぽつりと呟く。セイルは「わからない、けど」と林を振り返る。もう、轟音も光も、ゴーレムの姿も見えない。母がどうなったのか、知りたいと思ったけれど……今は考えないことにする。
 母は大丈夫だと言った。
 大丈夫だ。絶対に。
「とりあえず、隣町に行こう。ここからなら、あと少し歩けばたどり着けるはずだよ」
「はい!」
 少女は疲れはてた顔ながらも、にっこりと微笑む。セイルも疲れてはいたが、その笑顔を見ただけで力が蘇るような思いだった。
 少女の手を引き、ゆっくりと歩きだそうとしたが。
「あ、そうだ」
 セイルは振り向いて、銀色の目で少女を見つめる。
「君の名前、まだ聞いてなかったよ」
 少女は、夜明けの光の中ですみれ色の瞳を細める。真っ白の髪が、朝の涼しい風にふわりと揺れる。
「わたしは、シュンランといいます」
 シュンラン。
 楽園には珍しい響きの名前だったが、セイルはその名前を確かにどこかで聞いたと思った。一体それがいつ、どこで聞いたものだったのかはさっぱり思い出せなかったけれど。
 少女、シュンランは無邪気に笑って白いスカートを翻し、握った手を振ってセイルの前に立つ。
「行きましょう、セイル。わたし、すっかりおなかがすいたです」
「あはは……俺もだ」
 セイルも笑って少女の横に並ぶ。
 まだ、何もかもが闇の中。けれど、ここから全てが始まるのだ、そう思うとセイルの中にむくむくと不思議な思いが沸き上がっていく。
 それは、先の見えない恐怖と、同じくらいの期待。
 空色の髪を春の風に揺らし……セイルは白い少女とともに、最初の一歩を踏み出した。