01:ボーイ・ミーツ・ガール(2)

 どすん、という鈍い音と共に、ちょうど一瞬前までセイルが立っていた位置に何かが落下してきた。
 それは、全身を奇怪な甲冑で覆った、一人の男だった。
 普通の人ならば骨の一つは確実に折れる高さから飛び降りながら、怪我一つない。それどころか、足下の石畳の方が衝撃に砕けていた。
 甲冑は音を立てて煙を吐き出す。セイルの目には微かに緑色を混じらせているように見える煙、魔道機関特有の魔力の蒸気だ。すると、あれは甲冑の形をした、一つの魔道機関なのか。そうセイルが思っていると、男の顔がぐるりとこちらに向けられる。
 鋭い青い目がセイル……否、その上に乗っかっている少女を捉え、獰猛な笑みに歪む。
「見つけたぜぇ、『歌姫』っ! ちょこまか逃げるのもここまでだ!」
 少女はぎりと歯を食いしばり高い声で何かを言い返すが、それもまた、セイルには聞き取れない音だった。もちろん目の前の男も彼女が何を言わんとしているのかは理解していないのだろう、うるさそうに首を振って、ずいと一歩近づいてくる。
「ぐちゃぐちゃ言ってんじゃねえ、さっさと『鍵』を寄越してこっちに来りゃいいんだよ!」
「嫌です! あなたは、あなたたちは、ダメです!」
 少女は今度はセイルにもわかる言葉を放ち立ち上がろうとするが、その前に男の腕が伸び、少女の首元を押さえてぐいと持ち上げる。
「や、やめろよ!」
 その瞬間、セイルも体を起こし、石畳を蹴って男に食ってかかろうとするが……
「邪魔だ、ガキが!」
 男は少女を押さえているのとは逆の手で、セイルを突き飛ばす。動きだけ見れば軽く突いたにしか思えなかったのだが、セイルの体は大きく吹き飛ばされ、壁に激突した。
「うあ……っ!」
 全身を走る激痛に、一瞬息が詰まる。ずるずるとその場に崩れるセイルの足下に、少女が落とした白い包みがあった。少女は苦しそうにもがきながらもセイルに目を向け、掠れた声を絞り出す。
「……『鍵』だけは……渡さない……」
 『鍵』?
 痛みで朦朧としながらも、セイルは何とか事態を把握しようとする。『鍵』というのはこの包みのことなのだろうか。ほとんど無意識に、セイルは包みに手を伸ばす。
 男は少女の体を持ち上げながら、セイルに向かって吠える。
「そいつをよこせ、ガキ!」
「い、嫌だっ!」
 さっぱり訳がわからないけれど、これをこいつに渡してはならないということだけはわかる。セイルは叫び、自分に何ができるとも思えなかったけれど、ぐっと包みを握りしめた。
 途端、握った指先から、全身に走る電流。体がかっと熱くなり、周囲の時間が再びゆっくりと流れ始める。
 そして。
『ったく、嫌んなるなあ』
「え?」
『状況はわからねえが、耳障りな遠吠えに弱いものイジメってか。三下にもほどがある』
 突如、セイルの脳裏に響く聞き覚えのない声。音域は高めだが、どこか憂鬱そうな少年の声。
『おい、ガキ。聞こえてるみてえだな』
「な……何だよ、これっ」
『説明は後。ぐだぐだ言うな、あの子が危ねえんだろ?』
 投げやりにも聞こえる声だったが、その指摘はもっともだった。セイルはぐっと唇を引き締めて、声に耳を傾ける。と言っても、その声は耳に聞こえているわけではなく、それこそ頭の中に直接流れ込んでくる「意識」のようなものだったが。
 声はそんなセイルの反応に小さく笑ってみせる。声だけしか聞こえないから表情はわからないが……やけに満足そうな響きではあった。
『物わかりがよくて助かるぜ。なら、「俺」を手にして走れ。あのイカレた甲冑野郎に向かってな』
 声は「俺」と言ったが、辺りに声の主は見えない。だが、セイルは声が聞こえてきた瞬間から感覚的に理解していた。
 少女が『鍵』と呼んだ、今はセイルの手の中にある包み。
 それが、セイルの脳裏に直接語りかけているのだ。
『さあ、立てよ』
「うん!」
 囁く声に導かれて。
 セイルは、再び立ち上がって地を蹴った。鬱陶しそうに腕を振りあげる男に向かって、一直線に。ただ、向かっていったところでどうすればいい? セイルの心に迷いが生まれそうになったその時、今度は声が吠える。
『呼べ! 俺の名は――』
 振り下ろされる腕、けれど目は逸らさずに。
 セイルは聞こえた通りに「その名」を叫ぶ。
「……『ディスコード』っ!」
 刹那。
 耳をつんざく、悲鳴のような響きが辺りを満たした。相対する男の目が、これでもかと言わんばかりに見開かれる。
 まさか、という男の唇の動きを目に焼き付け、セイルは右の手を振りかざす。包み布は既に剥がれ、その手には一振りのナイフが握られている。
 否、よく見れば「握られている」のではない。
 セイルの右手が、半ばナイフと同化しているのだ。
 力強く一歩を踏み込んで、刃と化した右手で男の腕に斬りかかる。男はとっさに足を引くが、セイルの刃は男の腕を包む分厚い金属の小手に触れ……紙か何かを切るがごとくやすやすと斬り裂き、男の腕の皮までも裂く。
 男は「のわぁっ」と素っ頓狂な声を上げ、腕を引く。深い傷ではなかったが、傷口から流れる血が石畳に弧を描く。
「す、すごい」
 これには、セイルも驚くしかない。すると、脳裏に再び声が響いた。
『呆けてんじゃねえ! もう一歩』
 踏み込むんだ、という指示が聞こえたような気がしたが、セイルがそれを実行に移す前に男は動きの妨げになる少女の体を投げ捨て、大きく後ろに跳ぶ。
「くそっ、聞いてねぇぞ、こんなガキが使い手なんてっ」
 斬られた腕を押さえ、体勢を整えようとする男だったが、その間にも徐々に周囲が騒がしくなり始めていた。セイルの右手の刃が放つ音に気づいた人々が、こちらに向かってきているのだとセイルも気づく。
「ちぃっ、見られんのは厄介だな。しゃあねえ、そいつは預けたぞ!」
『預けた、って元よりお前のもんじゃねえっての』
 ぼそり、とセイルの脳裏で呟く声だったが、どうやら甲冑の男には聞こえていなかったらしく、男はそのまま大きく跳んだ。甲冑が煙を吐き、重そうな外見にも関わらず軽々と塀の上まで跳び、そして屋根の向こうへと消えていった。
 セイルはしばし呆然と男が去っていった方向を見つめていたが、足下で少女が呻いたのに気づき慌ててそちらに駆け寄る。
「平気? 怪我とかない?」
「……はい、無事、です」
 無事とは言っているが、顔色は真っ青だ。それはそうだろう、あんな馬鹿力の男に首を絞めあげられていたのだから。それでも、少女のすみれ色の瞳は少しも光を失わずに真っ直ぐセイルを見上げている。
 セイルは何故かどぎまぎしながらも手を差し伸べ、少女の体を支えてやる。そして、その体が小さく震えていることにも気づいた。
 やはり、怖かったのだ。怖くないはずがない、あんな目に遭ったのだから。
 とにかくここを離れて、ゆっくり休めるような場所に連れて行ってあげよう。セイルがそう思ったところで、少女ははっとした表情になって辺りを見渡す。
「『鍵』は、どこですか! 持って行かれたですか!」
「あ、あれ?」
 セイルは反射的に自分の右手を見下ろしてしまう。この右手と一体化し、先ほどまで散々セイルの頭の中に語りかけてきていたあの不思議なナイフが、影も形も見えなくなっていたことに気づく。
 いつの間に、消えてしまったのだろうか? 必死な表情の少女に迫られ、セイルの背筋にも冷たい汗が流れた、その時。
『ここにあるっつの、ボケ』
「う、うわっ」
 呆れた声と共に、少女の手を握っていない方のセイルの手がぐにゃりと形を変え……次の瞬間、何事もなかったかのように手の中に一振りのナイフを生み出していた。
 正確には「生み出した」のではなく「取り出した」のだ。セイルは直感的に理解した。しかも、自分の意志とは全く関係なく、ナイフが自分からそこに現れたのである。
 先ほどはきちんと見ていなかったが、柄の部分が多少変わった意匠になっていること以外、本当にどこにでもあるような古びたナイフだ。
 しかし。
「あ、あなたが『鍵』を使える人、ですね?」
 少女は、すみれ色の瞳を輝かせてセイルを見上げる。だが、そう言われてもセイルには何とも言えず、首を傾げることしかできない。何しろ、手の中にあるナイフが何なのかもさっぱり理解していないのだから。
「使えるって、どういう」
「わたし、あなたを探してここまで来たのです、どうか、わたしたちを助けてください!」
 ぎゅっと強くセイルの手を握りしめる少女だったが、その言葉は要領を得ない。混乱するセイルだったが、次の瞬間少女の唇から放たれた言葉で、
「『鍵』の使い手、ノーグ・カーティス!」
 思考が、止まる。
 聞き間違えようもない、何度も聞いてきた名前だ。ただ、それは「自分の名前じゃない」。あまりに突飛な言葉を投げかけられて完全に固まってしまったセイルだったが、皮肉にも少女の握る手の強さが彼を現実へと引き戻した。
「違う、違うよ。俺はノーグじゃない」
 セイルはゆっくりと首を横に振る。少女は「でも」となおも言葉を続けようとするが、それを遮って言う。
「俺はセイル。セイル・カーティス。ノーグは俺の兄貴だよ」
「え……」
 今度は、少女が呆気に取られる番だった。そして、その表情がゆっくりと曇ってゆく。残されていた一抹の希望すら失ってしまった、そんな顔。セイルは今にも泣き出しそうな少女を見ていられなくなって、慌てて言葉を付け加える。
「でも、君は何で兄貴を探してるんだ? 君を助ける、って……うわっ」
 言いかけたところで、不意に少女の体ががくりと揺らいだ。慌てて少女の体を支えたセイルは、少女の顔を覗き込んでみる。少女は憔悴の表情で目を閉じ、完全に体重を預けて細い息をついている。
 緊張の糸が切れたのか、どうやら気を失ってしまったようだ。命に別状はなさそうだが、放っておくわけにはいかない。放っておくなどという選択肢は、思いつきもしなかった。
 ――とりあえず、家に帰って休ませてあげよう。考えるのは、それからだ。
 セイルは、起こさないように気を遣いながら少女を背に負う。抜き身のナイフはひとまず布に包み直して腰のベルトに挟み、誰かに見られる前に急いでその場から急いで離れる。ふと空を見上げて見れば、青空に映える純白の鳩が一羽、大きく弧を描いて飛び去ったところだった。