01:ボーイ・ミーツ・ガール(1)
下を向くな、セイル。
そんな風に俯いていたら、自分の爪先と地面しか見えないだろう。
怖い? 色んなことを言われるから? そんな表面上の、しかも見当違いな認識しかできない奴らの言葉なんて、笑い飛ばしてやればいい。何を言われたところで、お前はお前だ。お前のいいところも悪いところも、全部ひっくるめて何一つ変わりはしない。
もし、それでも辛いなら遠慮なく言えばいい、んなバカなこと言う奴は俺が全員ぶっ飛ばしてやるから。
さあ、顔を上げて。たったそれだけで、お前の世界はぐんと広がる。
ほら……今、お前の前には、誰がいる?
「……兄貴」
セイルは、ぽつり、と言葉を落とした。
だが、どこからも望んだ返事は返ってこない。それはそうだ、目の前にあるのは一枚の紙切れ。壁に貼り付けられた、一人の賞金首の似顔絵だったのだから。
そこに描かれていたのは、一人の男だった。黒縁の分厚い眼鏡をかけ、目の上で綺麗に髪を切りそろえた学者風の男。微かに眉を寄せた難しい表情は知的であると同時にとても神経質そうだった。
人殺しの異端研究者。今もなお逃亡中であり、同時に各地で同様の事件を起こしている……その記述を見ていられなくなって、セイルは深くかぶった帽子の鍔を下げて走り出す。
そんなわけがない、と思う一方で、もしかするとそうかもしれないと考えずにはいられない自分が嫌で。もはやセイル自身ははっきりと彼の顔を思い出すこともできないのに、似顔絵の彼は六年前のあの日と変わらない顔で今もあちこちで難しい顔をしていて。
何もかもが辛くて、セイルは張り紙から目を逸らす。そして、目的の場所である店に駆け込んだ。
からんからん、というカウベルの音が響き、息を切らして入ってきたセイルを見て、カウンターに座っていた中年の女はふと目を上げて……あからさまに嫌な顔をして手元の雑誌に目を戻した。
ちくり、と胸が痛む。
わかっている。いつものことだ、気にしていたら何にもならない。
自分自身に言い聞かせながら、母から言われたものを篭の中に放り込む。米に、牛乳に、料理用の酒、肉団子の缶詰。あとは無くなってしまった調味料を少々。野菜は庭のミソル草やレムの実が育ってきているから、今のところは買わなくとも大丈夫だろう。
本当は、もっと色々欲しいものはあるけれど……わがままは言えない。いっぱいになった篭をカウンターに置いて、セイルは「お願いします」と声を上げた。
「……はいよ」
店員の女は不機嫌そうな顔を隠しもせず、乱暴な手つきで商品を袋に詰めていく。居心地の悪さに、セイルは被っている帽子を両手でぎゅっと握りしめる。けれど、女はそんなセイルの様子に気づいているのかいないのか、大げさにため息をついて言う。
「それにしても、アンタの兄さんも早く捕まらないもんかねえ。この前もまた事件があったんだろう? 怖くて怖くてあたしらは夜まともに眠れないんだ」
「ご、ごめんなさい」
自分のことというわけでもないが、セイルは頭を下げて謝る。そんなセイルを一瞥し、女は「はっ」と息を吐く。
「アンタに言っても仕方ないんだけどねえ。でも、もう六年だっけ? 女神様に逆らう異端なのにのうのうと生きてるなんて、罰当たりにもほどがあるよ」
なら、「死んでしまえ」とでもいうのか。
セイルはぎゅっと拳を握りしめる。何も知らないくせに、簡単にそんなことを言うなと……叫び出したかったけれど、ぐっとこらえる。
自分だって、今の兄について何も知らないのだから。
人殺しとして、女神への反逆者として、楽園の全てから追われる身になってしまった彼のことは、何も。
女はやはり乱暴な手つきで袋を置き、セイルに手を伸ばして「五十五エイム」とだけ言った。セイルはエイム銀貨を数枚女に手渡す……その時に、初めて女と目が合った。女は一瞬セイルの目をまじまじと見て、すぐに嫌な顔をして目を逸らした。
理由はわかっている。
女の目かけた眼鏡に一瞬だけ映りこんだ自分の姿。目深に被った帽子の下から覗く、誰とも違う「銀色の瞳」。
「ありがとう、ございました。失礼します」
セイルは耐え難い息苦しさを感じながらも、何とか言葉を吐き出して重たい足を扉の方に動かす。やっとのことで扉に辿り着いた時、これ見よがしに呟く女の声がセイルの耳に届いた。
「本当、兄が兄なら弟も弟だね。いつ見ても不気味な目だよ」
「……っ!」
胸が苦しい。叫びだしたい。
でも、全てを飲み込んで、セイルは扉を開けて小さな店を飛び出した。背中を追いかけてくるようなカウベルの音も振り切って、俯いたままに荷物を抱えて駆け出す。
顔を上げろ。そうかつての兄は言っていた。下を向いていては足下しか見えないじゃないかと。けれど、今はそれでもいい。誰の目も見たくない、自分の足下だけがわかればいい。ここに自分が立っているということだけ、わかればいいのだ。
本当に息が苦しくなってきて、セイルはその場に立ち止まった。少しだけ辺りを見渡してみるが、道行く人はセイルの姿を見ては目を逸らすばかり。
小さな町だ、セイルが「誰」であるかくらい町の人間なら皆わかっている。「犯罪者の弟」、「女神に逆らう異端の血筋」。だから、皆セイルからは目を逸らして足早にその場から立ち去るのだ。
それに、兄のことがなくとも昔からそうだった。誰もがセイルからは目を背け、見なかったことにする。見てはいけないものを見てしまったかのような顔をする。ずっとそうだったけれど、どうしても慣れない。
決して慣れてはいけないことだと、兄も言っていた。
「けど……どうしろって、いうんだよ」
呟く声も、誰にも届かずに。セイルは泣きたくなるほど惨めな気持ちになりながらも、ぐっと唇を引き締めて歩き出した。いつも通り、人の目を避けあえて狭い裏道を選んで家路につこうとしたが。
不意に、細い道を強い風が通り抜けていく。
「わ……っ」
荷物で両手が塞がっていたから、被っていた帽子の鍔も押さえることもできない。風にあおられた茶色い帽子が高く高く、空に向かって舞い上がる。
そして、帽子の下に隠れていた髪がふわりと、春風に靡く。
鮮やかな、空の青を湛えた髪が。
しまった、と思ったけれど風はそんなセイルをあざ笑うかのように、帽子を遠くへ運んでいってしまう。
だから、セイルは不自然に鮮やかすぎる空色の髪を風に揺らしながら、消えていく帽子を見つめていることしかできなかった。
本当に、今日はついていない。抱えた荷物を置いてまで帽子を取りに走る気にもなれず、これ以上誰にも会わないことを願って一歩を踏み出すと。
――さあ、顔を上げて。
遠い日の、兄の声が響いた気がした。
「……え?」
もちろん、そんなものは空耳だ。けれど、セイルは顔を上げずにはいられなかった。
目に映ったのは、風に靡くワンピースと白銀色の長い髪。
建物に切り取られた青い空を背景に、くっきりと浮かび上がったそれは一人の少女の姿をしていて……
今まさに、セイルのいる場所に向かって落ちてこようとしていた。
「え、えええっ! ちょっ、まっ」
セイルは自分の目を疑った。疑ったけれど、それは一瞬のこと。このままでは、空から落ちてきた少女はなすすべもなく地面に叩きつけられてしまうだろう。
荷物を投げ出し、手を伸ばす。がしゃん、と瓶の割れる音が耳に響いたけれど構ってなどいられない。力には自信があるが、落ちてくる人を受け止めたことなんてあるばずもない。不安と、最悪の事態を想像してしまった恐怖で手が震える。
それでも、胸は、熱く強く鳴り響き。
周囲の時間が、やけにゆっくりと流れていく。
ぎゅっと目を閉じ、何かを両手に抱きしめたまま落ちてくる少女に向かって、目一杯に腕を伸ばす。
心なしか、少女の落ちる速度までもが緩んだ気がして、セイルは「大丈夫だ」と確信する。
目を閉じたまま真っ直ぐに落ちてくる少女を、しっかりと両の腕で支えてみせる。柔らかく、温かな少女の体は羽のように軽く、ふわりとセイルの腕の中に収まった。
――助かったのだ。
セイルは、安堵の息をつく。その瞬間、時間が正常に流れ始めて……突如、セイルの両腕にぐんと少女の体の重みがかかった。
「わ、っと!」
思わず少女の体を取り落としそうになるが、何とかこらえる。強く少女の体を抱きしめて、目を閉じたままの少女に声をかける。
「ねえ、君、大丈夫?」
今の落下で気を失っていたらしい少女は、セイルの呼びかけに「ん……」と小さく呻き、ゆっくりと瞼を開く。
白い睫に縁取られた瞳の色は、すみれ色。
朝露に濡れる花の色が、セイルを射抜く。
セイルは不意に先ほどの息苦しさと胸の高鳴りを思い出した。ただし、先ほどの緊張による息苦しさとは何かが違う。ぎゅっと胸が締め付けられる理由はわかるのだ。こちらを見つめている紫の瞳が、あまりにも澄み切っているから。どんな宝石よりも綺麗だと思ってしまったから……
少女は霞がかかったような表情でセイルを眺め、不思議な、小さな鈴を思わせる声でぽつりと、呟いた。
「 ……?」
「何?」
聞き慣れない響きに思わず問い返すけれど、少女はそれには答えずに軽く頭を振って数度ゆっくりと瞬きをする。どうも、自分が置かれている状況を把握できていないようだった。
「あ、えっとさ、君、そこの建物から落ちてきたんだよ! その、怪我とかない?」
セイルはぼうっとした表情の少女に何とか状況の説明を試みる。とは言っても、こんな異常な状況である、慌てるセイルの言葉も相当しどろもどろでさっぱり要領を得なかったのだが。
少女は目をぱちくりさせてそんなセイルを見て……ふわりと微笑んだ。
「だいじょぶです。助けてくれた、ですね」
少し舌足らずで変わった喋り方だったが、まるで歌うような明るい響きを帯びていて、聞いていてとても心地よい。何故かはわからないが、セイルは自然と体が熱くなるのを感じていた。自分で自分の顔は見えていなかったけれど、頬もすっかり真っ赤に火照っていた。
もはやこの状態では何か気の利いたことを言うこともできず、セイルはただ口をパクパクさせるばかり。
すると、少女は再び微笑んだ。安心から自然に出た表情だったのだろう。いや、もしかするとセイルの表情が面白かったのかもしれない。セイルも少女につられて笑ってみせる。とんでもなく変な笑顔になっていたけれど。
「ありがとう、ございました。あ、あの」
少女は微笑みながら礼を言い……その表情にほんの少しだけ、困ったような色が混じる。
「その、下ろしてもらえるですか?」
「あ、あああ、ご、ごめん!」
今の今まで、少女はずっとセイルに抱き止められていたままだったのである。今度こそセイルは自分でもわかるほどに顔を真っ赤にして、少女を優しく下ろしてやった。
まだ、腕の中には少女の温かさが残っていたけれど。
石畳に高らかな靴音を鳴らし、少女のワンピースが揺れる。広がるスカートの裾や、風に靡く白い髪がまるで一つの花のようだとセイルは沸いた頭で思う。
少女はまじまじとこちらを見つめるセイルの視線など気にも留めていない様子で、少しだけ不安げな表情を浮かべて、落ちてきたときにも握りしめていた白いもの――どうやら何かの包みのようだ――を強く握り直す。
そして、自分が落ちてきた空を見上げて、
突然、セイルに向き直った。
その目はかっと見開かれ、恐怖とも怒りともつかない表情をあらわにしていた。あまりに唐突な少女の変貌に戸惑うセイルだったが、少女は何か意味のとれない言葉を叫びながら、突っ立っていたセイルの肩を掴み、そのままセイルもろとも勢いよく地面に倒れ込んだ。
少女の手から包みが滑って石畳の上に落ちるのを、少女に乗っかられる形になったセイルは呆然と見つめていた。
一体、何が……そう思った瞬間。