00:もしも夢から覚めるなら
夢を見る。
赤い、赤い夢だ。
その赤は辺り一面に咲き誇る薔薇の赤か、彼の身を染める液体の赤か。
それとも、彼の「手」を強く握る少年が抱いた、燃えるような赤か。
「では」
囁きにも似て、それでいて冷たい空気を貫く声。
「この世界を、楽園に変えてほしい」
記憶の片隅に、今も響き続ける凛としたテノール。それは楽園に生き続けることを決めた彼に対し、世界樹へ還りゆく少年が投げかけた最後の言葉。
「誰もが笑って暮らせるような、本当の『楽園』に――」
綺麗事だ。
そのくらいは彼にだって断じることができる。
けれど、あの時の自分は少年に何と答えたのだったか。ゆらゆらと揺れる意識は夢とも現ともつかない境界を漂い続ける。
答えはわかっている。わかっているけれど。
自分は今も、終わりの見えない暗闇の中に揺れている。ゆらゆらと、揺り籠に揺られるかのごとく、遠い日の夢に留まり続けている。きっとこれからも、いつまでも、いつまでも……
「殿下、『鍵』はこちらに!」
その時、鋭い声が聞こえた。それを「聞こえた」という言葉で表していいものか定かではなかったが、意味のある言葉が彼の意識の中に飛び込んでくる。
「ありがとう。これが奪われたら洒落にならないからね」
闇の中、応える男の声。そういえば、どこかで聞いたような声だと思うけれど……闇に揺れる意識では、正しく判別することもできない。
これもまた、夢だろうか。
覚めない夢の、一幕なのだろうか。
意識の片隅には赤い夢がちらつき、過去の象徴である少年の声と遠くから聞こえる声が複雑に混ざりあい、まどろみの中にある思考を余計に掻き乱すばかり。
それでも、聞き覚えのある男の声は混濁する彼の意識の中で、一際高らかに響きわたった。
「今から私と君でここを脱出する」
そして、と男は言葉を続ける。
「『機巧の賢者』ノーグ・カーティスを探すんだ」
『機巧の賢者』――ノーグ・カーティス。
聞きなれない名前、なのに彼はその名前を知っている気がした。いつか、誰かが。その名を自分に教えてくれたような……
「ノーグ・カーティス?」
不意に、もう一つの声が聞こえてきた。
今度は、彼の知らない少女の声だった。少しだけ舌足らずな、それでいて歌う鈴のような声色。ゆらゆら闇の中を揺らめく彼には、不思議と心地よく感じられる声。
「そう、異端研究者ノーグ・カーティス。不安要素は多すぎるけれど、今は彼を探し出すしかない。この『鍵』を扱える……我々が知る中では唯一の人物を」
『鍵』、そんな言葉もどこかで聞いた。ただ、何もかも、何もかも。赤い夢の延長線上にあるようで、明確な意味と結びついてはくれなかった。もどかしく思うが、これもいつものことだ。彼は本来、自分一人ではまともに「思考する」こともできない存在なのだから。
「『鍵』を使えれば、争いは終わるですか? 皆、幸せですか?」
「……いや」
遠い少女の声に、男は笑う。どこか、自嘲気味な声色で。
「使い方次第、使う者次第で力の方向性は変わる。『鍵』はもちろん、君の『歌』も」
「わたしの、歌も……」
少女は呟いた。そこには小さな、しかし確かな不安が見え隠れしていた。
「なあに、不安がることはない、君は君の思うように歌えばいい。君なら間違えない。私が保証するよ」
君なら間違えない。ならば、誰が間違えたのだったか。
力の方向性、使う者の意志。男の声と赤い夢は、かつて彼の手を取った冷たい指先の記憶すらも呼び起こす。果たしてあれは「間違い」だったと言えるだろうか。正しさも、間違いも、主観に過ぎないとはわかっていながら考えずにはいられない。
別に、あの時だって実際には誰も間違ってはいなかったのかもしれない。誰もが自分の信じたとおりに、自分の手にした力を振るっただけ。
その終着点が、赤い夢だったというだけ。
ただ……
「さあ、行こう」
男の声と同時に、彼の意識を満たしていた赤い夢が消えていく。そして、闇の中に一筋の光が射し込んだような、そんな感覚が彼を支配する。もちろん今の彼には射し込む光を「見る」ことも、その温度を感じることもできなかったけれど。
それでも、彼は知っている。
これは「目覚め」の感覚。闇から光へ、心地よいまどろみの世界から、騒々しい現実へ引き上げられる感覚。もちろん、これもまた彼の無意識が生み出した夢なのかもしれない。
けれど。
彼はまどろみの中で「思う」。
もしも、夢から覚めるなら、
――今度こそ「俺が」間違えないように。