さよなきどり
おんなのこの間には、密やかな約束事がありました。
消灯後、こっそりと自分の部屋を抜け出したら、お目当ての子が待つ部屋の扉を三回、それから少しだけ間を空けて二回、ノック。このノックに対して、一回のノックはオーケイ、のお返事。二回のノックは今日はダメ、のお返事。
本当は、消灯後の出歩きは――特に他のおんなのこへの部屋への出入りは禁止されているのですが、寮監に見つかりさえしなければどうということはありません。見つかってしまったら相応の罰を受けてしまいますが、それは「見つかった方が悪い」のです。見つからない限りは、それは「なかったこと」なのだというのが暗黙の了解。
夜におんなのこ二人がすることといえばひとつ、「お互いのかたちを確かめること」です。自分たちが、「おんなのこ」という形をしていることを確かめるための、ちょっとした夜遊び。いたずら、と言い換えてもいいのかもしれません。
だって、先生は言葉や図で説明してくれるだけで、わたしたちがどのようなかたちをしているのか、はっきりと教えてくれるわけではありません。いつか「おんなのひと」になるときの手続きだって、やったこともないものを、ただ説明されただけでわかるようなものではありません。
だから、わたしたちはおんなのこの形を確かめると同時に、いつか「おんなのひと」になるときのための手続きを実際に試してみるのです。もちろん、それは単なる真似事に過ぎないのですが、わたしたちの、密やかな、楽しみでもありました。
ただ、それだって、誰だっていいというわけではありません。かたちを確かめるということ、手続きの真似事をするということ、それは、よっぽど気を許していなければできることではありません。中には、どんなおんなのこの部屋にも遊びに来るような子もいますが、そういう子はごくごく少数派。
わたしも、今までに、そのひそやかな遊びをしたのは三回くらい。お菓子作り仲間の子と、お互いの少しふっくらとしたおなかを触って声を殺して笑ったりして。お互いによく似た形をしているけれど、少しずつ違う部分に触れ合ったり。それから……、教えてもらった手続きを試してみたり。でも、それはあんまり面白くなかったことは覚えています。何だか、くすぐったくて、それから、何よりも痛みを伴って。それ以来、夜に二人で遊ぶことはなくなっていました。
けれど……、今夜は、その時とはまるで違う気分で寝台に腰掛けていました。妙に背筋に力が入ってしまって、一番怖い先生の授業を受けているときのようながちがちの姿勢になっていることくらいは、鏡を見なくてもわかります。まだ、この部屋にはわたし一人しかいないのに。
そう、それもこれも、女史が悪いのです。
いえ、悪いというのは語弊がありました。女史は何も悪くないのです、ただ、あまりにもわたしにとって突然であった、というだけで。
――夜、あなたの部屋に行ってもいいですか、なんて。
放課後、そっとわたしにだけ呟かれた「こえ」。その「こえ」はいつも通り、わたしには意味しか伝えてくれなくて、ほとんど反射的に「はい」と答えてしまってから女史の顔を見ようと思った頃には、女史はもう教室から姿を消していたのでした。
はい、と答えてしまってよかったのか。わたしは、未だにわからないままでいます。
あの夜……、わたしの想いを女史に伝えてから。女史が、わたしの想いを受け止めてくれてから。わたしと女史は、特に今までと変わらない日々を過ごしていました。変わったことといえば、わたしが、女史の顔を見るのが恥ずかしくなってしまったことくらい。それから、女史は本当にいつも通りでしたが、さりげなく、わたしと一緒にいてくれる時間が増えた、くらい。
女史は今もなお、外向きには孤高のひとであり続けていて、わたしから見ても、そう、想いを伝えた今ですら、女史はどこか近寄りがたい存在でした。同じ場所にいながら、わたしたちとはまるで別の世界に生きているような。もちろん、一緒に食事をしたり、他愛のない言葉を交わしているときには違和感を忘れてしまうのですが、それでも、それでも、女史というのはどこかで、「そういうもの」であったのです。
ですから、その女史がこの部屋に来て。わたしたちとは別の世界の何かではない、わたしと同じ「おんなのこ」であると確かめるということは、何となく「あってはならない」ことなのではないか、なんて。そんなおかしなことまで考えてしまう始末です。
本当は、そんなはずはないということもわかっています。女史は、同じ学園で、同じ教室で、同じように授業を受けている、わたしと同じおんなのこなのですから。強く気高くあるようで、ほんとうはわたしと同じように思い悩んだり、嫉妬に苦しんだりする、ごくごく等身大の、おんなのこなのですから。
そんな女史の「部屋に行ってもいいですか」という言葉が、単なる戯れだとは、思いたくありませんでした。女史はそもそもそういう冗談を言うような人ではありません。なのに、不安になってしまうのです。あの女史が、果たして、わたしの部屋の扉を叩いてくれるのでしょうか。
……と、思った、そのときでした。
とん、とん、とん、と。ごく微かなノックの音が、三回。わたしは慌てて立ち上がり、扉の側で耳をそばだてます。すると、少しの間を空けて、確かに、ノックの音が、二回。
わたしは、そこで不思議と躊躇ってしまいました。あれだけ頭の中をぐるぐるしていた不安はもうどこにもありません。嬉しくないわけがないのです。のぼせあがってしまうような熱が、体の中から湧き上がってくるのがはっきりとわかります。だって、この扉の向こうには女史がいて。これから、わたしたちは秘密の遊びに興じるのですから!
なのに、どうして躊躇う理由があるのでしょう? わたし自身にもわからないまま、粘つくような躊躇いを感じながらも、ノックを、一回。
すると、しばしの沈黙の後に、そっと、扉が開かれました。
そこに立っていたのは、わたしよりもずっと簡素な寝間着姿の女史で。わたしの大好きな鴉の濡れ羽色の髪は、頭の後ろで緩くまとめられていました。
女史はいつになく緊張した面持ちで、そっと「言い」ます。
――入ってもいいですか?
とても今更なその言葉がおかしくて、わたしはついつい声を殺して笑ってしまいました。その反応が不服だったのか、女史のいつも困ったような――これが別に意識したものでなく、元からそういう顔なのだ、ということも最近知ったことですが――眉が顰められたので、今度こそ躊躇いを振り切って、「もちろんです」と女史を部屋に招き入れました。
寄宿舎のおんなのこたちの部屋はみんなおんなじ。柔らかなカーペットの上にベッドがひとつに本棚と机、それにクローゼットがひとつずつ。大きな窓にはカーテンがついていて、このカーテンの色は部屋の主によってさまざま。わたしはパステルの水玉模様。女史のお部屋のカーテンは何色なのでしょうか――。
そんなことを考えている間に、扉が閉じる音がして、女史の両手が、わたしの頬に触れました。ひやり、いつもわたしより冷たい女史の指先が、火照ったわたしの頬を冷やした、と思った次の瞬間、女史のくちびるがわたしのくちびるを塞いでいました。
女史のくちびるは指先と同じで少しだけ冷たくて、けれどその内側は確かな熱を帯びていました。それがわたしに伝わってしまうくらい、深い、深い、息が苦しくなるようなくちづけ。わたしはただただ、突然の女史のくちづけを受け入れることしかできませんでした。きっと、くちびるを通して、女史にも伝わってしまったことでしょう。わたしの戸惑いと、その一方での、こういうかたちで、女史と触れ合える喜びが。
何秒くらいそうしていたことでしょう。そっと、くちびるを離した女史は、先ほどよりもずっと柔らかな表情で微笑んでくれたのでした。わたしがくちづけで想いを伝えるのとは正反対に、女史は、くちづけよりもずっと、表情でものを語るひとであって……、それが、今までわたしの見たことのないような優しさを帯びていたことに、わたしは胸が高鳴るのを感じていました。
ああ、女史は。ほんとうに、わたしとの時間を求めてくれている。
そう思うと、ただでさえ熱を帯びていたからだが更に熱くなるのを抑えきれなくて。思わず、こんなことを口走ってしまいました。
「あの、ごめんなさい、シャワーを浴びてもいいですか? すぐに終わりますから」
本当は、先ほど浴びたばかりなのです。髪の毛もまだ少し濡れたまま。女史だってそうだということは、わたしにもわかります。女史の髪からは、淡く爽やかなシャンプーの香りがしましたから。
それでも、こんな……、こんな火照ってどうしようもないからだのまま、女史と触れ合うのはなんとも気恥ずかしかったのです。結果としては、同じことだとわかっていても。
そして、もしかすると女史も同じ気持ちだったのかもしれません。「そうですね」と、ぽつり、「こえ」が届いて。女史はわたしに向かって艶やかに笑んでみせました。
――お先にどうぞ?
女史からすれば、気を利かせたつもりなのかもしれませんが、女史の前で自分だけがシャワーを浴びる水音を聞かれるというのは、それはそれで想像してみるとひどく緊張するものでした。だから……、と言っていいのかはわかりませんが、わたしはもうひとつの提案を持ちかけることにしたのです。
「……一緒に浴びませんか?」
その言葉は、どうも、女史にとっては想定外だったようで、明らかなうろたえが表情に浮かびました。ただ、それもごく一瞬のことで、強張った表情を緩めて「言い」ました。
――あなたが、それでよければ。
不思議と、どこか煮え切らないような、女史らしくもない言葉ではありましたが、「否」でないことだけは確かでしたので、わたしは女史の冷たい手を引いて、浴室に向かいます。
寄宿舎の浴室は、ひとりのために作られたにしては豪勢で、シャワーに加えてちいさな浴槽もあります。考え事をするときは、半分くらいまで湯を張った浴槽につかって、ぼんやりと過ごすこともよくあります。
でも、今日は……、「ひとり」ではないから。いつもは広く感じる浴室も、少しばかり狭く見えてきます。
浴室の前で、わたしは恐る恐るパジャマの釦に指をかけます。わたしのかたちを女史の前に晒すのはどうにも躊躇われます。何しろ、服の上からでもはっきりと、女史よりもずっと肉がついているのがわかってしまうのですから。
それでも、勇気を出してパジャマと下着を脱ぎ捨てて、普段は隠されているわたしのかたちを曝け出します。そうして女史を見ると、わたしより一拍遅れるかたちで、ほとんど音もなく、そのかたちをわたしの目の前に現していました。
ほっそりとした手足。小ぶりながら綺麗な形をした胸に、少しだけあばらの浮いた横腹。かたちも、気配も、どこか「薄い」印象を与えるその姿のなかで、しかし、最も目を引くのは――。
「……傷……」
そう、かつて女史の手首に傷を見出したように。女史のからだにも、いくつも傷痕が走っていました。特に、胸の辺りに、執拗なまでに。
けれど、女史は少しだけ笑ってこう「言う」だけでした。
――ただの痕です。今は痛くありませんから、気にしないでください。
気にならないといったら嘘になってしまいます。けれど、女史が「気にしないで」と言うからには何も言えなくなってしまうのでした。
そんな女史を伴って、浴室へ。まだ少しだけ湿ったタイルを踏みながらシャワーの温度を確かめていると、女史はどこか居心地が悪そうにきょろきょろと視線を彷徨わせていました。
その様子がなんとも普段の女史らしくなくて、わたしはつい、問いかけずにはいられませんでした。
「女史は……、こういうことは、初めてですか?」
誰かとかたちを確かめること。教わったことの真似事をすること。
女史は少しだけ頬を赤らめて、小さく頷きました。
「『先輩』とも?」
意地悪な質問だ、と言ってから気付きました。ただ、わたしの中では今もなお、顔も知らない「先輩」への棘々しい感情がじくじくと疼いているのです。醜い感情だと思います。きっと女史も気を悪くしたに違いありません。けれど、実際には女史は苦笑いを浮かべるだけで、こう「言った」のでした。
――先輩から教わったのは、くちづけまでですから。
ああ、あの甘くて熱いくちづけは、わたしだけのものではないのです。少しばかりの失望を覚えなくはありませんでしたが、それでも。
「なら、ここからは、女史にとっての『はじめて』ですね」
そう思えば、失望が喜びに変わるのです。そう、ここからは、わたしと女史、ふたりきりの秘密の触れ合い。
泡立てた石鹸で体を洗いながら、お互いのかたちに触れる。最初は「自分でできますから」と断った女史の手を取って、わたしの胸に触れさせる。女史とわたしは、おんなのこの形をしているけれど、少しずつ違って。これはその「違い」を確かめるための、儀式。
今まではあまり意識していませんでしたが、女史はわたしより少し背が低くて、からだを近づけるとその熱い吐息が肩のあたりに触れるのです。石鹸の香り、泡のぬめる感触、それから女史のわたしより少しだけ低い体温と、わたしに触れるてのひら。その全てを感じながら、わたしも女史のかたちを確かめます。
汗ばむ体を清めるつもりが、更に熱をあおるばかりの、ふれあい。時についばむようにくちびるを重ねながら、お互いの指を絡めて。そうして、シャワーの湯が石鹸を全て洗い落とした頃には、わたしの体の内はじれったいような、くすぐったいような、不思議な感覚でいっぱいになっていました。
もちろんこの感覚は初めてではありませんし、それがどういう意味合いであるのかも知っています。そして、きっと、女史も同じなのだと思います。シャワーの熱だけとは思えないほどに頬を赤く染めて、普段は冷ややかさを湛えている目も、熱に潤んでいるようにすら見えました。
シャワーの蛇口を閉めて。浴室の外に用意しておいた二人分のタオルの片方を女史に手渡して。
――わたしは、濡れた体を拭きながら、女史の方を振り向いて何かを言おうとしたのだと思います。
けれど、それは実際には言葉になりませんでした。何を言おうとしたのかすらもわからないまま、女史の細い指先が、思った以上の強い力でわたしの手を握り締めたのです。
呆然とするわたしを引きずるように、白い肢体を濡らしたままの女史は浴室を出て、そのままわたしの体を寝台に押し付けて。
こえは、聞こえませんでした。
女史は、何も「言い」ませんでした。
いつの間にほどけていたのでしょう、女史の、言葉通りに濡れそぼった鴉の羽の色をした髪が、わたしの目の前に垂れてきて、どきりとします。
呆然とするわたしの上に跨った女史が深く笑みを浮かべたかと思うと、片手でわたしの手首を握り締めたまま、わたしの全てを飲み込まんとばかりに、深く、乱暴なくちづけをして。
それからのことは、はっきりと言葉にすることはできません。わたしの頭はぼうっとしたまま、ただただ、女史のなすがままにされていました。時折、女史のかたちに触れようと手を伸ばそうとしても、それはすぐに女史に捻じ伏せられて、代わりに、わたし自身も知らなかった、ひときわ熱を帯びる場所にくちびるが落ちてくるのです。
決して、女史は最初のくちづけ以外は乱暴ではありませんでした。むしろ、ひどく丁寧に、壊れやすいものを扱うように、少しずつ、少しずつ、焦らすように。おんなのこの器の中にある「わたし」というものを暴いていくのです。
怖くないと言ったら嘘になります。つい声を上げてしまう私に対して、女史は柔らかく、けれどどこか獰猛な笑みを浮かべたまま、何一つ言葉を発することはありません。「こえ」を聞かせてくれることはありません。
しかし、恐ろしいと思う以上に、嬉しかったのです。ここまで女史がわたし、というひとりを求めてくれていること。わたし自身もしらなかった、「わたし」を暴いてくれること。
そうして、女史に翻弄されているうちに、いつの間にか、女史の指は、今までわたしが自分でもほとんど触れたことのない、最もやわらかくて大切な場所、おんなのこの「おんなのこ」としての場所に触れていました。
以前、友達とした「真似事」では痛みしか感じなかったそこは、不思議と痛みなどなく女史の指を受け入れていました。指先が動くたびに耳に届く音が恥ずかしくて、思わず「やめて」と声が漏れてしまいましたが、それは本音ではないでしょう、とばかりに女史は丁寧に指でそこを解していくのです。
もちろんこれはどこまでも「真似事」で、それ以上ではありません。……ほんとうは、「おんなのこ」と「おとこのこ」のふたりがいて、初めておんなのこの大切な場所が本来の役目を果たすのです。ただ、その手続きのためには、いくつかの手順を踏む必要があって、女史がしているのはその手順の一部。固く閉ざされたおんなのこの内側に触れるための、一番大事なこと。
初めて先生から仕組みを聞いた時には、そんなことが本当にできるのか、と思ったものでした。だって、自分で触れるそこはあまりにも狭く閉ざされていて、小指一本通るのかもわかりませんでしたから。
けれど、今は確かに先生の言葉が正しかったのだと、ついつい場違いなことを考えてしまいます。自分の体はまるで自分のものでないように、女史に今まさに「つくりかえられている」ような心地で、仰向けで息を荒げたまま、女史の指を飲み込む感触だけを与えられているのですから。
女史はゆっくりと、ゆっくりと、ごくごく優しくわたしの体に触れていましたが、不意に、その手が止まりました。いいえ、女史の体が、まるで時を止めてしまったように、凍りついたのです。
ゆるり、と。女史は濡れた指でわたしのそこをなぞって、それから。
――足りません。
と、初めて「こえ」を出したのでした。
「……足り、ない……?」
息が上がってしまって、上手く声が出せません。女史はそんなわたしの声にも気づいていないように、私の腿の上に跨った姿勢で、垂れた髪で顔を隠したまま、ぽつり、ぽつり、と言葉を落とします。
――わかってた、じゃ、ないですか。
――わかって。
――なのに。
女史の「こえ」は、いつになく耳障りな音に聞こえました。頭の中に響くものを「聞こえる」表現するのはおかしな話ですが、それでも、女史の「こえ」がここまで乱れて聞こえるのは初めてのことでした。
いいえ、ただ「乱れている」なんて言葉では済まされません。それは、わたしの頭の中をかき回すような、言葉ではない雑音としてぶつけられて、こちらの頭までおかしくなってしまいそうな……、女史なりの「叫び」、というべきだったのかもしれません。
「だ、大丈夫、ですか? 何が……っ」
すっかり力の抜けていた体を何とか起こして、うつむいたままの女史にすがりつこうとして……、思わぬ力で再び寝台に叩きつけられました。もし、背が壁にぶつかっていたら、ひどい痛みを感じていたであろう、そのくらいの激しさで。
そして、女史はふらりと立ち上がると、ざらざらとした言葉にならない「こえ」を漏らしながら、ふらふらとわたしの机の方に歩いていきます。何だかひどく嫌な予感がして、わたしは慌てて上体を起こしましたが、その時にはもう、手遅れでした。
ざくり、と。
音を立てて、床に落ちたのは。
長い、長い、黒髪でした。
しらじらとした裸体を晒す女史の手に握られたのは、一振りの鋏で。それで、長い髪を切り落としたのだ、と思考が追いつくまでに、一呼吸かかってしまいました。
ざくり、ざくり。
一息には切り落とせなかった髪に乱暴に鋏が入れられて、わたしがあれだけ憧れた髪は、あっさりと息吹を失っていきます。床に落ちた髪は、もう、女史のものではありません。
――足りません。
裸足で自らの髪を踏みつけて、女史は雑音混じりの「こえ」を放ちます。
――あと、何が余計なのでしょう?
――何を削ぎ落とせば、本当に、欲しい、ものが。
ゆるり、と。俯いていた女史が、顔を上げてみせます。長い髪に覆われていない女史の顔は、笑っているようにも、泣いているようにも見えて……、不謹慎にも、今まで見た女史の表情の中で、もっともうつくしい、と、思ってしまいました。
しかしそれもごく一瞬のこと。
女史は、手にした鋏を、自らの胸に向けたのです。
ほとんど、無意識の領域でした。次の瞬間には、わたしは仰向けに倒れこんだ女史に圧し掛かるようにして、何とか女史の鋏を持った手を押さえ込んでいました。
先ほどもそうだったように、女史の力は華奢に見えて強く、少しでも気を抜いたら押し返されてしまいそうで。わたしは必死に起き上がろうとする女史を押さえ込みます。
女史は、いつになく強い視線で私を見すえながら、ざらざらとした「こえ」で「言い」ました。
――離してください。
「離せません」
――離して。
「離せません!」
……だって、この手を離したら、あなたは。
言いかけたわたしを遮るように。
「離せよ! オレには必要ないものなんですよ!」
それは。
わたしの、聞いたことのない声でした。
甲高く響く、今にも泣き出しそうな、悲鳴。
それが女史のくちびるから放たれたものだと、わたしは、いつ、気づいたのでしょうか。
そのくらい――、その声は、わたしの知る女史の「こえ」とはあまりにもかけ離れていて。それでも、間違いなくこれが女史の「声」であると、その時初めて知ったのでした。
その時、ばたばたと、激しい足音が部屋の外から聞こえてきて、無理やりに――おそらくは合い鍵を使ったのでしょう、鍵が開けられて、寮監の先生が駆け込んできました。
そのあとのことは……、よく、覚えていません。
ただ、鋏を手にした女史を、わたしが押さえ込んでいるという構図。それから、女史が明らかに正気を失っている様子から、女史に非があると判断された、ということだけは間違いのないことでした。
わたしは裸の上にタオルケットを被った姿で、先生に「落ち着くまでそうしていなさい」と言われ、夜の密会を咎められることもなく、ただ、ただ、引っ立てられるように連れて行かれる女史を見つめていることしかできませんでした。
部屋を後にする女史は、わたしを振り向くことはありませんでした。
泣き出しそうな顔をしてもいませんでした。
すとん、と感情だけが抜け落ちてしまったような顔で、重そうな瞼を伏せて。
――ごめん。
そう、わたしだけに聞こえる「こえ」をひとつだけ残して、そして、部屋の扉は堅く閉められたのでした。
ひとり。
取り残されたわたしは、女史の手からいつの間にかこぼれ落ちていた鋏を拾います。
床には、わたしが大好きだった、鴉の濡れ羽色の髪が――もう、かつての色を失って、ばらばらに広がっていました。
振り向けば、先ほどまでそのひとがいたと確かにわかる、乱れた寝台。
けれど、女史は、ここにいない。
どこにも、いない。
わかってしまったのです。女史はもう、この部屋には二度と戻ってこない。いいえ、わたしの目に映るどこにも、戻ってきてくれくれないのだと。
そう思った途端、ぽろりと、涙がこぼれました。途端に、堰を切ったように、ぼろぼろと涙がこぼれて、止まらなくなってしまいました。
わたしは何を間違ってしまったのでしょうか。
わたしは女史に何をしてしまったのでしょうか。
どれだけ問いかけようとしても、そこにそのひとはもういないのです。一振りの鋏と切り落とされた髪だけが、そのひとの「答え」として残されているのに、わたしには「問い」がわからないのです。
届かないとわかっていながら、そのひとの名前を呼ぼうとして。
――そういえば、女史の名前を知らないことに、今更気付いたのでした。