これは、とっておきの秘密のお話。
 
 おんなのこは、ひとつだけ、ちいさな「魔法」を使えるの。
 お砂糖とスパイスの他に混ざった「すてきなもの」のひとつ。
 いつしか、おんなのこがおんなのこでなくなってしまうときまで、ちいさな「魔法」はおんなのこと共にある。
 
 ……けれど、「おんなのこでなくなる」って、どういうことだろう?
 
 
 もちろん、今となってはその意味がわからないほどわたしも子供ではありません。
 ほんのちいさな「魔法」は今もわたしの側にあります。わたしはまだおんなのこで、きっとこの学園を卒業するまではおんなのこであり続けるのでしょう。
 硝子張りの天蓋に覆われて、たくさんの花があちこちに咲く、まるで温室のような学園で、わたしたちはおんなのこであることを学び続けます。国語に数学、科学に、……わたしたちからは少しばかり遠いものに思える社会。「立派なおんなのこ」としての礼儀作法。それから、もちろん、ひとの体のことも。
「おんなのこ」のほかには、「おとこのこ」がいます。成長していくうちに、こどもでなくなって、おとな――「おんなのひと」と「おとこのひと」になるのです。おとなになったら、つがいを作って、子供を成す。もちろんそれは、誰かに強いられてするものではない、とせんせいたちは言ってくれるけれど、わたしは今からちょっぴり不安。
 何せ、こんなちいさな学園の中の、おんなじおんなのこですら、スキとキライがあって。それなら、今まで、ほとんど見たことも触れたこともないおとこのこのことをどう思えるのかなんて、わかるはずもありません。すてきなものなのか、おそろしいものなのか、それすらも、わからないのです。わたしにはおとこのこのきょうだいがいなかったから、尚更。
 それでも、いつかは必ず考えなければならないことなのだと、せんせいたちは口をそろえて言います。「おんなのこ」が「おんなのひと」になるときのこと。今はただただ意味もなく体の中で作り出されては吐き出されているだけのちいさなちいさな「卵」を、ひとの形にするための手続きを経て、「おんなのこ」は、「おんなのひと」になる。そして、その手続きには、必ず、この学園にいない「おとこのこ」、もしくは「おとこのひと」が必要なのだといいます。
『今は、まだ、そういう仕組みなんです』
 ぽつりと、「おんなのこ」の授業の先生が口にしたのを、わたしはどうしてか知らないけれど、妙によく覚えています。今は、まだ。それなら、これからはどうなのでしょうか? 先生にその時聞いておけばよかったのですが、機を逃してしまった以上、わざわざ聞きにいくようなことではなかったから、結局、そのままになってしまっています。
 そんなことを思っているうちに、帰りのホームルームを告げるチャイムが鳴りました。いつの間にか授業は終わっていたみたいです。どうしても政治や経済の授業は退屈です、だって卒業までこの学園から出ることのないわたしにとっては、まるで、遠い、遠い世界のお話のよう。遠い世界の物語である以上は、それこそ、おとぎばなしのように華やかであったり、愉快であったりすればよいのに、なんて言ったら、きっと笑われてしまうと思いますけれど、わたしは本気でそう思っています。
 ホームルームでは、担任の先生はいつもの注意を、いつもの調子で繰り返します。
 魔法はみだりに使わないこと。
 必ず時間までに寄宿舎に戻ること。
 宿題は大切だけれど、消灯時間は守ること。
 すっかり聞き飽きてしまっているものですから、既にみんなの心は放課後の楽しみに向かっていて、さわさわと落ち着きのない気配が教室いっぱいに広がっています。わたしの心も、調理室で作る予定のシフォンケーキのことでいっぱい。ふわふわで、舌の上でとろける、優しい甘みのシフォンケーキ。食べる前から、口の中にいっぱいの甘みが広がる。
 けれど、それも、ほんの一瞬のこと。
 不意に視界に入ったそれに、わたしの心はきゅっと惹きつけられてしまいます。
 鴉の濡れ羽色というのは、ああいう色を言うのでしょうか。
 私はいつも、そのひとを視界の端に捉えるたびに、そんなことを思うのです。背を覆うほどに伸ばした後ろ髪、綺麗に眉の辺りでそろえられた前髪、そのつややかで吸い込まれそうな黒は、わたしや、他の級友たちには絶対に真似できない、生まれながらの色。
 ぼんやりと窓の外を見るそのひとの横顔はどこか寂しげで、長い睫毛に縁取られた瞼はいつだって半分くらいまで落とされています。
 そのひとを、わたしは「女史」と呼んでいました。わたしだけではなく、クラスメイトのほとんどがそう呼んでいるはずです。学内一の成績を誇るそのひとへの敬意と、それと、おそらくは近寄りがたさで。
 女史はわたしからしたら遠いひと。遠すぎるひと。席はすぐ側にあるし、いつだって手を伸ばせば女史の肩や手に届くけれど、きっと、そんなことをしても、女史は嫌な顔ひとつしないだろうし、こちらを一瞥して、それっきりになることはわかりきっています。つまり、女史に「届いた」とは、言えないんだってこと。
 そんなことを考えているうちに、ホームルームの終わりのチャイムが鳴って。今日の日直の号令と共に、授業が終わって放課後が始まります。
 さあ、材料を持って調理室に向かわなければ、と、荷物を抱えたところで、不意に肩を叩かれました。
 振り向けば――あの、女史が。伏し気味の目を、真っ直ぐこちらに向けていました。
「え、あ、あの」
 遠いひと。遠すぎるひと。そのひとが、今、わたしの肩を叩いて、わたしの目を見ているのです。緊張で喉が渇いて、頬に血が上って、心臓が急にばくばくと音を鳴らします。もしかしたら女史にも聞こえてしまうんじゃないかと、心配になるくらい。
 けれど、女史はそんなわたしの動揺なんて、きっとどうでもいいことだったでしょう。顔色も、表情も、ひとつも変えることなく。
 もし、持っていたら、砂糖を一つまみくれませんか、と。
 女史はさくら色のくちびるを開くこともなく「言い」ました。
 わたしは、女史がくちびるを開いたところを、食事の場以外で今の今まで一度も目にしたことがありません。ただ、別に声を出さなくても、何も不便はないのです。それが女史の魔法ですから。
 しかし、どうしてお砂糖なんて?
 そんな疑問も、じっとこちらを見つめる女史の視線を受けてしまっては、音もなく溶けて消えてしまいます。水の中に混ぜられたお砂糖のように。
「ちょ、ちょっと待っててくださいね。本当に一つまみでいいんですか?」
 うん、と女史は頷きました。とはいえ、もし足らなかったら困ってしまうでしょうから、シフォンケーキ用に多めに用意しておいたお砂糖の袋を切って、そこから、手のひらサイズの水玉模様の袋に砂糖を半分くらいまで入れて、リボンで丁寧に封をします。大事なお砂糖が、こぼれ落ちないように。
「どうぞ、お役に立てれば幸いです」
 ありがとうございます、と女史はぴんと姿勢を伸ばして丁寧に一礼します。さらりと、いい香りとともに鴉の濡れ羽色の髪が揺れるのを、わたしはただ、呆然と見つめていることしかできませんでした。
 女史は、鞄を背負うと、手の中の袋を大切そうに両手で捧げ持ち、そしてそのままわたしの前を通り過ぎる――かと思いました。
 けれど、ふと、何かを思い出したかのように振り向いた女史は、少しだけ。ほんの少しだけ、ただでさえ寂しげに垂れた眉尻を、もう少しだけ下げて「言った」のでした。
 
 ――そろそろ、ひとり、いなくなりますよ。