四日目のソリティア

 以前から、ネイト・ソレイルには気になっていることがありました。
「先生、この箱は一体何なんですか?」
 先生の書斎の机の上には、いつも箱が置いてあるのです。そこには、ネイトにもわかる文字で、今日の日付と数日後の日付、そして「オレからオレへ」という、先生のことをよくを知らない人から見れば何を言っているのかさっぱりわからない一行が書き加えられたメモが貼り付けられているのでした。
 ネイトの当然の問いに対し、先生は箱を覗き込もうと机に近寄るネイトにあからさまに顔を歪めて早口で言うのです。
「それに触らないでください近寄らないでください絶対にそこで」
「わっ」
 けれど、それは、床に積まれていた本に足を引っ掛けた、ネイトの喉から出た声に遮られてしまいます。
 そして、次の瞬間、慌てて伸ばした手が空を切り、その勢いのまま机の上の箱をひっくり返してしまったのでした。
 ネイトが机の縁にしがみつくと同時に、ばらばら、と何かが落ちる音。そんなネイトの頭の上から、先生の呆れ声が降ってきました。
「……言っても無駄なのは何となくわかってました」
 しっかりしているようでそそっかしいネイトのことを、先生はネイト以上にわかっているのかもしれません。ネイトはもちろん認めたくありませんでしたが。
 とにかく、ひっくり返してしまった箱の中身を元に戻さなければ、と思ったところで、ネイトは箱をかぶせられていたそれが一体何であったのか、やっと目にすることになりました。
「これ、チェス盤と駒……、ですよね」
 そう、升目の描かれた板に、白と黒の、役職を象った駒。それが何であるのかは、流石にネイトだってわかります。そして、先生も立ち上がって床に落ちたチェスの駒のひとつを拾い上げながら、軽く口元を歪ませます。
「見ての通りです。まあ、今日の棋譜は覚えてるんで置きなおせばいいだけですが」
「なんで箱をかぶせてあったんですか?」
 最後に箱を拾い上げるネイトにの問いに、二人で拾った駒がきちんと揃っているかどうかを確かめていた先生が、ぽつりと言いました。
「『四日後の自分』と勝負するためです」
「……え?」
 一瞬、何を言われたのかわかりませんでした。いえ、よく考えてもわかりませんでした。そして、ネイトがわかっていないことを先生も察したのでしょう、へらへらと笑いながら軽く肩を竦めて見せます。
「ほら、オレの記憶ってば三日とすこしで消えるわけでしょう。だから、その間チェス盤を目にしていなければ、『四日目の自分』は盤面を知らない」
 そう、先生の記憶は三日とすこししか保ちません。それはネイトも重々思い知らされていることでありました、が。先生はいたって軽い口調で言い放つのです。
「要するに未来のオレに挑戦状を投げつけて遊んでるんですよ。未来のオレが、過去のオレに勝てるかどうかね」
 かつ、かつ、と音を立てて先生はチェス盤の上に駒を置いていきます。ネイトもチェスのルールくらいは知っていますが、先生が並べているのは最初のポジションではなく、既に数手進んだ後のもののようでした。ここからどうやって詰みに持っていくのか、を考える、所謂「ソリティア」――「一人遊び」というものでしょう。
「……それって、楽しいんですか?」
「頭の体操にはなりますよ。四日前のオレは随分ひねくれた手を考えてきやがりまして、詰みに持っていくのに結構手間でした」
 ですから、四日後のオレにはもっと苦労してもらいたいところですね、と笑いながら駒を置く先生を、ネイトはなんとも複雑な気持ちで見つめていることしかできませんでした。
 先生はそうやって笑ってみせますが、それは、こんな一人遊びだけでなく、他の何に対しても同じなのです。四日後の先生は、四日前のネイトを覚えていない。常日頃から先生が持ち歩いている手帳に書かれているのは記録であって、記憶ではないのです。
 そういうものですから、と笑う先生を見るたびに、確かに仕方ないのだと思う気持ちと、そうではないのだという反発の気持ちが複雑に混ざり合って、どうしても上手く言葉が出なくなってしまいます。
「何変な顔してんですか、ネイト。ただの暇つぶしですよ」
 そう言いながら、先生はネイトに手を伸ばします。箱を返してくれ、ということなのでしょうが――。
「そんなことしている暇があるということは、当然原稿もできてるということですよね?」
「うっ」
 ネイトのもっともな言葉に、先生は言葉を詰まらせます。つまり、原稿は全く進んでいない、ということでしょう。いつもへらへらと何かを誤魔化すような態度の先生ですが、こういうところばかりはやけに素直なのです。
 だからこそ、だからこそ、余計にネイトの怒りに火がつくわけで。
「原稿ができるまで、これは返しませんからね!」
 箱を高く持ち上げるネイトに対し、先生はしばらくネイトから箱を奪い返そうとしていましたが、やがて諦めたのか唇を尖らせて言いました。
「いいですよー、また別の遊び考えますから」
「そういうことじゃありません!」
 かくして、今日も、ネイトと先生の、原稿を巡る堂々巡りは続くのでした。