麗しのガートルード
先生にはいくつもの悪癖がありますが、そのうちのひとつが女癖の悪さ……、というよりも、極端な「惚れっぽさ」と言うべきかもしれません。最近、担当編集たるネイト・ソレイルはそう思うようになっていました。
裏通りの花を売る店で遊んでいる分には、相手も商売ですし、先生もそれをよくよくわかっているようなので、そこまで心配はしていないのです。先生は裏通りでは妙に評判がよく、悪い噂をひとつも聞かないところも、ネイトが安心している理由でありました。
もちろん、夜遊びばかりで原稿に取り組まないようでは本末転倒なので、ネイトはしっかり先生の財布の紐を握り、監視するようにしておりますが、時たま、人に迷惑をかけずに遊ぶ分には、苦い顔をしながらも了承することにしています。先生は、縛りすぎても鬱屈を溜め込んで時々爆発させてしまう、とても面倒くさい人種なのです。
最大の問題は、その辺を歩いている女性に、本気で「惚れ込んでしまう」ことがある、ということです。
しかも、その女性というのが善良で純朴な、それこそ先生の言葉を真に受けるような相手であれば――それはそれで問題ですが――ともかく、先生が惚れる女性のほとんどが、先生の盲目ぶりに付け込むような輩なのです。先生にはいい薬、かもしれませんが、何せ先生は三日とすこしで自分のしてきたことを忘れてしまうので、何度も恋をして、その度に破れ続けるということを、懲りることなく繰り返すことになってしまうのでした。
ネイトがずっと監視していればそんなことにはならないのかもしれませんが、先生の人間関係に口を挟むのは流石に担当の仕事を逸脱しています。いえ、口を挟むくらいはしてしまうのですが、無理に引き剥がすことまではできないまま、今日も唇を尖らせたまま寝台に転がっている先生をちりちりとした視線で見やるのでした。
「ネイトー、酒ください酒! 今日というこの日くらいはいいでしょう、原稿も終わったんですから!」
「それは前回の二週間過ぎ去っていた〆切の分です。今回の〆切は三日後ですから、禁酒は続けてもらいます」
「ネイトってば融通が利かないんですから。こういう時は気を利かせてショットの一杯くらいは奢るのが大人ってもんですよ」
「他の人にはそうしたかもしれませんけど、二日前に見かけた女の人にふらふらと引っかかった挙句、財布の中身を全部つぎ込んでしまうような大人に奢るお酒はありません」
「だって! あんなオレの理想の女性、他にいないって……」
がばっと寝台から起き上がった先生の言葉尻が萎んでゆきます。先生は寝台の上でも色眼鏡を外さないため、今の先生がどういう目つきをしているのかネイトにからはわかりませんが、しょぼん、という音が聞こえてくるような。くしゃくしゃに濡れそぼった犬のような。そんな風情で先生はがっくり肩を落としました。
「運命のひとだと思ったんですけどねぇ……」
「その言葉、つい一週間前にも聞きましたからね」
「覚えがありませーん」
実際に覚えがないのですから性質が悪いのですが、それはそれ。
ネイトは先生の枕元に置かれている手帳をぱんぱんと叩いて言います。
「先生が今までどれだけ女の人で失敗してきたのか、全部書いてあるでしょう。知らないとは言わせませんよ」
「……いや、まあ、はい……」
そう、記憶が「三日とすこし」で消えてしまう先生は、逐一記録をとっているはずなのです。どれだけの失敗も、どれだけ恥ずかしいことであっても、同じことを繰り返さないための大切な「安全装置」として記録しているはずなのですから、同じ失敗を何度も何度も繰り返すのは言語道断というものです。
その上、ネイトはいつもよりも腹が立って仕方ないのです。先生の悪癖はわかっているつもりでしたが、それにしたって。
「それに、『この前と同じひと』に惚れてまったく同じように貢いで捨てられて! 反省ってものはないんですか?」
手帳をひったくろうとしたネイトの手が空を切ります。ネイトの手が触れる前に、先生が素早く手帳を自分の懐に収めたのでした。こういう時ばかりは勘がいいのに、どうして女性に対してその勘が働かないのでしょうか。むっとしながらも、ネイトは言葉を続けます。
「ガートルード、って前にも聞いた名前だって言ったじゃないですか。流石に同じ名前の別人ってことはないでしょう?」
昨日までの浮かれた先生は、何度も何度もその人の名前を呼んでいたのでした。ガートルード。その時点で釘は刺したはずだったのですが、一度相手に惚れ込んでしまえばネイトの声など一切聞こえなくなる先生です。結局、以前と同じように、そのガートルードさんに貢ぐだけ貢いで、そして見事に袖にされたらしいのが今日の話。
「先生はわかってないのかもしれませんけど、きっと、向こうは先生のことを利用できるだけ利用するつもりですよ。その、」
これを言っていいのかどうか、ネイトは一瞬迷いました。ただ、今だけははっきりと釘を刺さなければならないと腹を括って、その言葉を吐き出すのです。
「先生が『忘れてしまう』ことをいいことに」
先生は、まくしたてるネイトに対して、流石にばつが悪いと思ったのでしょうか、ただでさえ下がり気味の眉を更に下げて、ぼそぼそとこう言いました。
「わかってましたよ」
「え?」
「わかってましたよ、利用されてることくらいは。多分、これが最初じゃないんだろうなってことも、流石にわかります。オレだって、覚えてなくても相手の態度で色々推測はできます」
それでも、と。先生は言うのです。ぐっと拳を握り締めて。
「惚れちまうもんは仕方ないんですよ!」
あ、これは全く反省してないな、と。ネイトはもはや呆れるしかありませんでした。
「きゅんと来ちまったらオレ自身にもどうにもできないんですよ! 気を引きたい! 抱きしめてもらいたい! 愛してほしい! あわよくば一緒になりたい! そう思うのはもはや人の本能というもの! ああ、麗しのガートルードちゃん、どうしてオレのものにできないんですか……」
何となくわかってはいましたが、ネイトがいくら言っても無駄だからこそ「悪癖」なのです。相手が全く先生のことを愛する気なんてないことをわかっていたとしても、先生はいつだってその人を好きになってしまう。愛してほしいと、思ってしまう。
一体、先生にそれだけの思いを寄せられる「ガートルード」とは何者なのだろう、そんなことを思いながらも、ネイトはついつい唇を尖らせて言わずにはいられません。
「惚れたからって、お金で相手の気を引こうだなんて、不誠実だと思わないんですか」
先生のやり方は、ネイトから見れば相当稚拙なものです。高級な料理屋に誘い、欲しいといわれたものを何でも買い与え、相手の言いなりになる。それは、どう考えたところで恋人、と呼ばれる関係とは到底言いがたいものでした。
しかし、先生はネイトの嫌いな、左右が不釣合いな笑みを浮かべて言い放つのです。
「オレには、それくらいしか『誠実な』やり方がないんでね」
……先生は、「三日とすこし」よりも前の出来事を忘れてしまうから。
せめて「形に残るもの」で相手の、そして自分の心を繋ぎ止めたい、という先生の気持ちは、ネイトも、全くわからないとは言い切れないのです。
けれど、それは単なる言い訳だ、とネイトは思うのです。
先生はそれが「不誠実」だとわかっているから、そういう言い方をするのであって、だから、だから――。
その先は頭の中ですら上手く言葉にならなくて、ネイトは行き場のない思いを指先にこめて、先生の白髪混じりの金髪をわしゃわしゃするしかないのでした。
「ぎゃー! 頭はやめてください頭は!」
先生の悲鳴も聞かぬふり。
昨日までこっちの話もろくに聞いてくれなかった先生にはいい薬です。
そんなことを思いながら、ネイトの指先は先生の頭にある旧い傷痕に触れるのでした。