先生は空想を愛する

「先生、エドガーさんからこれを先生に、だそうです」
「……エドガー?」
 分厚い封筒を手にしたネイトの言葉に対し、ぽかん、とした返事が返ってきます。こういう時の対応はネイトも慣れたものです。その度に感じる胸の痛みは消えませんが、それでも「正確な情報」を書斎の椅子に腰掛けて、まっさらな原稿と睨み合っていた先生に伝えます。
「エドガー・シュルツェ警部。数日前に先生がエドガーさんに頼みごとをしてた、と聞きましたけど」
 その間に、一旦ペンを置いて手元の手帳――文字と数字が入り乱れる暗号だらけで、書き手以外の誰にも読めないそれをめくっていた先生は、手をふと止めて、分厚い色眼鏡越しに目を見開きます。
「ああー! うわっ、ほんとに持ってきてくれたんですね。いやあ、義理堅いですねエドガーも」
 いつもはどこか含みのある引きつった笑い方か、人を小馬鹿にしたような笑い方をする先生には珍しく、喜色満面、という言葉がよく似合う笑顔でした。
「これ、一体何なんですか?」
「お、ネイトも見ますか?」
 その間、先生の筆が止まるのは確実なのですが、あの真面目なエドガー警部の手で厳重に封をされた封筒を見ていると、ネイトの中の好奇心もむくむくと膨らんできます。大したものではない、けれど、先生を笑顔にしてくれるもの。果たしてその正体が何なのか、ネイトも知っておきたかったのです。
「はい、後学のために」
「はは、後学にもならねーですよ、何せぜーんぶ過去のお話。とはいえ、話題の種にはなるかもしれませんね」
 先生はペーパーナイフで膨らんだ中身を傷つけないように丁寧に封を切り、その中身を白紙のままであった原稿の上にばら撒く。
 それは……、無数の、色あせたカードでした。
 カードの裏面は皆同じ、隣国であり、五年前までは敵国であった帝国を示す茨の紋章。そして、表に描かれているのは、戦車や戦闘艇、銃やミサイル、基地や塹壕など、どうにも物騒なものばかりで、実際にそこに添えられている記述も、戦争が終わった今となってはただただ滑稽に思えてくる、見ている者の士気を煽りたてるような稚拙な文面でした。稚拙であるとネイトに判断できたのは、先生から少しばかり帝国語を教わっていただけのネイトでも、ある程度読み解くことができたからです。
 ただ、その中に、ひとつ、きらりと輝くようなカードを見つけた気がして、ネイトはついそれに手を伸ばしていました。引き抜いてみれば、それは他のカードよりもずっと色鮮やかで、巨大な槍を手に握り締めて霧を薙ぎ払う、武骨だけれども機能美を感じさせる、青い全身鎧の巨人であった。
「わーお、レアの『|戦乙女《ヴァルキューレ》』、『蒼のオルトリンデ』じゃねーですか。ダブってんのだけくれ、って言ってこれも入ってるとは、ガキの頃は相当遊んでたみたいですねえ、あいつも」
「『|戦乙女《ヴァルキューレ》』……、これが」
 戦時、特に帝国との争いが激しかった時代を知らないネイトでも、名前くらいは知っていました。海上での高機動戦闘を得意とする女王国の蟲型兵器『|翅翼艇《エリトラ》』に対し、どのような戦場でも全力で戦えるよう設計された帝国の汎用人型兵器『|戦乙女《ヴァルキューレ》』。この二者は、何度も霧の海で対峙し、そして激しい戦いを繰り広げた――と、伝えられています。
 先生はネイトの手の中で今もなお鮮やかに青く輝く鎧の乙女を眺めながら、歌うように言います。
「そう、これが『|戦乙女《ヴァルキューレ》』。と言っても『|戦乙女《ヴァルキューレ》』は帝国の秘密兵器。その正確な姿形、そして能力は軍の上層部と当の『|戦乙女《ヴァルキューレ》』だけが知るもので、これもカードの絵描きが想像した姿に過ぎません」
 このカードは、戦時中、娯楽への締め付けが進む中で数少ない子供たちのための娯楽として作られたカードゲームなのだと先生は教えてくれました。今ここにあるカードは、帝国にいた頃、女王国へ亡命してくる前のエドガー・シュルツェ少年が友人と遊んだ思い出の品であるようです。
 とはいえ、カードに添えられた絵や言葉の通り、戦争を模した遊びを通じて帝国への忠誠と、女王国との戦争に対する肯定感を刷り込ませる類のものであったことも間違いはないですが、と。そう言って、先生は苦笑を浮かべます。
「たとえば、ほら、見てくださいよ。これ、何だと思います?」
 先生はカードの山をがさがさと探り、一枚のカードを引っ張り出してみせます。
 そこに描かれていたのは、一匹の機械仕掛けの蟲でした。無数の歯車を噛み合わせて作られた禍々しいフォルムに、邪悪に釣りあがった複眼、鋭い牙を持つ口元。それでも、背から伸びる青い二対の翼と、細長い尾という特徴には覚えがありました。
「……もしかして、『|翅翼艇《エリトラ》』の第五番、『エアリエル』ですか?」
「そう、帝国からはこのように見えていた、ってことです。いや、こう『見せようとしていた』という方が正しいですね。強大で邪悪で、けれど正義の『|戦乙女《ヴァルキューレ》』たちに叩き潰される蟲。それが向こうから見た『|翅翼艇《エリトラ》』です。これも当然、想像による絵にすぎませんが」
 ただ、少年たちの間では「これはこれで悪者っぽくてかっこいい」と妙に人気だったみたいで、狙いが外れちまったらしいですけどね、とは笑いながらの先生の談。特に『|戦乙女《ヴァルキューレ》』は女性を模していて、実際に女性しか操れないものであったらしいので、少年達の憧れが禍々しくも強大な力を持つという機械仕掛けの蟲『|翅翼艇《エリトラ》』に向くのも、わからないでもありませんでした。
「まあ、確かにかっこいいかもしれませんけど。悪者として扱われているのは気分のいいものではありませんね」
「と言っても、これは帝国だけの話じゃなくて、|うち《女王国》も全く同じことでしてね」
 先生は立ち上がると、書斎の本棚の中から、一冊の分厚い本を取り出しました。本、というよりもアルバム、でしょうか。開いてみれば、そのアルバムは机の上にばら撒かれたそれとよく似た――けれど、女王国語で解説が書かれたカードに埋め尽くされていました。
「これは、女王国の出版社が戦時中に発行したカードゲームのひとつです。これとこれを見比べてみてください、随分な違いでしょう?」
 先生は、アルバムの中の一枚のカードを指します。それは、透き通った二対の翼を広げてのびのびと霧を裂く、すらりとした尾が神秘的な青い蜻蛉の姿。翅翼艇(エリトラ)エアリエル。帝国側のカードに描かれていたものとは、まるで別の機体に見えました。
「帝国にとって敵だった女王国の秘密兵器『|翅翼艇《エリトラ》』は、当然女王国から見れば正義の兵器なわけです。故に、絵師も想像力を駆使して気合を入れて仕上げるわけですよ。ガキの眼って案外誤魔化せないもんで、だからこそ芸術品としてもなかなかの出来栄えになります。そういうとこが好きで、使いもしないカードを集めちまうんですよね」
 芸術品。確かに、ネイトの眼に映る想像上の『|戦乙女《ヴァルキューレ》』や『|翅翼艇《エリトラ》』はその言葉に相応しい荘厳さを称えていました。それが「子供たちの戦意を煽る」という目的で作られたものでさえなければ、素直にその美しさを賞賛していたと思います。
 そう、どうしてもネイトはものとその背景を上手く切り離すことができないでいます。そんなネイトを先生は「頭が固いですねえ」と苦笑しながらも、否定はしないでいてくれています。実際今もそうで、先生はただ、アルバムをめくるネイトを穏やかに眺めるだけ。
 と、アルバムを繰るネイトの手が止まりました。目の端に映った、見覚えのある色に気づいて。
「あ、これは、ボクも持っていました」
 それは、黄色を基調に描かれた――蜂、に見えました。三つに綺麗に分かれた胴に、上下で大きさの違う翅翼。その、鋭くも僅かに丸みを帯びた、有機的なフォルムは無邪気な子供だった頃のネイトには純粋に「きれい」なものに見えたものでした。
 すると、先生はにた、と唇に笑みを浮かべて言います。
「お目が高い。|翅翼艇《エリトラ》第四番『キング・リア』じゃねーですか。オタクもゲームやってたクチです? オタクの頃には廃れてたかなと思ってたんですが」
「あ、いえ、これは幼い頃に一番上の兄にもらったんです。ダブったから、って」
 ゲームのルールなど把握もできなかった頃の話。だから、きらきら光る蜂のカードは「宝物」として大切にしまっていたはずで……、それ以上のことは思い出せずにいます。あのカードは、どこに消えてしまったのでしょうか。
 ――|翅翼艇《エリトラ》第四番『キング・リア』。
 名前だけは知られているのに誰も姿は知らず、どこまでも想像によって描かれた蜂型の船は、伸び伸びと全身を伸ばした『エアリエル』とは正反対に、どこか思案げに体を丸めているようでした。
「ゲームでも現実の戦場でも、一番弱く、それでいて一番『迷惑』な札ですね。乗り手は」
「アーサー・『|狂騒の女王蜂《ノイジー・クインビー》』・パーシング。第二世代では唯一生存したまま終戦を迎えた|霧航士《ミストノート》ですよね」
「そして、二度と表舞台には出てこない|霧航士《ミストノート》でもあります」
 先生が説明を加えるまでもなく、ネイトは先生の著作『霧の向こうに』に彼の末路が明確に記されていることを知っています。
 ――アーサー・パーシングは、戦場での経験が魂魄を蝕んだ結果発狂した、と。
 どこかに消えてしまった、蜂のカード。どこかに封じられた、その操り手。
 想像することしかできないネイトは、鼻歌を歌いながら過去の「想像」の塊であるカードの山を一枚ずつ確かめる先生の横顔に、ここにいるはずのない|霧航士《ミストノート》の、知らない横顔を重ねるのでした。