霊視、承ります

 ネイトは緊張の面持ちで、二度目となる店の前に立ち尽くしていました。
『霊視、承ります』
 狭い入り口にかけられた看板は、店の名前すら書いていないあっさりとしたものです。他の「霊視」を謳う店は、神秘性を強調するいくつものキャッチフレーズが並べ立てられているものでしたが、この店はそれだけが書かれた看板、一枚。そして、今日に限ってはその下に『休業中』の札がかかっていました。
 少しばかりの躊躇いはありましたが、どうしても主人に挨拶をするだけの理由があったので、ネイトはそっと扉をノックするのです。
 すると、ぱたぱたという足音が近づいてきたかと思うと、うっすらと扉が開き、その向こうから分厚い眼鏡をかけた女性が顔を見せました。その顔にはネイトも見覚えがありました。昨日まさしくこの店で顔を合わせた、自称「霊能力者」の女の人、でした。と言っても、昨日は喪服のような黒いドレスに黒い帽子から垂らしたヘッドドレスと、明らかに「霊能力者」然としていましたが、今は簡素なワンピースにカーディガンを羽織っただけの姿で、それだけ見ればどこにでもいるような……冴えない顔つきも相まって、街中に紛れていてもおかしくない、ただの女性にしか見えませんでした。
「どなた? 今日は、店は休みだよ。臨時休業」
 そう呟く女性の唇の色は悪く、顔色もまるで幽霊のよう。分厚い眼鏡越しにもわかる、べったりとした隈を含めても、どう見ても健康そうには見えません。確かに、これは一日ゆっくり休んでもらいたい雰囲気ではありました。けれど、顔を合わせてしまった以上は、ネイトも勇気を振り絞って名刺を取り出すのです。
「ボクは雑誌社プラーンシールのネイト・ソレイルと申します」
 女性は木の枝のような細い指先で名刺をつまむと、目を細めてネイトを睨みつけます。
「取材はお断り」
 ぴしゃり、と言い切られてネイトは鼻白んでしまいます。そしてそのまま扉を閉められそうになったので、慌ててドアの隙間に足を挟みました。先生との攻防でもよくやる手なので、ネイトのブーツはそんな時のために、かなり丈夫にできているのです。
 かくして、扉を閉め切ることのできなかった女性があからさまに嫌な顔をするのにもめげず、ネイトは慌てて付け加えます。
「今日は取材ではなく……、あ、いや、確かに昨日はそのつもりでしたが」
「昨日?」
「はい。昨日のお詫びに来たんです! と言っても、ボクはメッセンジャーなんですが」
 そう、ネイトがここにいる理由は先生のメッセンジャーなのです。今朝、先生は「オレが行くときっとまた気分悪くさせちゃいますから」と苦笑して。
「『嫌なもの見せてごめんなさい、金はそのまま貰ってください』、と」
 そんなメッセージを、ネイトに預けたのでした。
 女は分厚い眼鏡の下で目をぱちくりさせた後、名刺とネイトとを見比べて、それからふと息をついたのでした。
「そう。……君、昨日のあの客のお付き」
 暗く囁くような声と共に、少しだけ。それこそ、ネイト一人分がぎりぎり通れるだけの隙間が、扉と壁との間に開きます。
「入って。こちらこそ昨日のお詫び。お茶くらいは、出すよ」
 
 
 昨日。
 ネイトと先生は、連れ立って鈍鱗通りの片隅に位置する建築物の前に立っていました。いくつかのちいさな店舗が入っているそこに、かの「霊能力者」の店はありました。
「終戦前後から『霊能力者』をうたう商売をする連中が増えてきたのは間違いないことでしてね」
 先生は三日とすこししか記憶が保ちませんが、そうなってしまう以前のことはよく覚えています。そして、そんな「昔の話」をする時は、いつも以上に饒舌なのでした。後ろで一つに結った白髪混じりの金髪を霧風に揺らして、よく通る声で言うのです。
「戦死や病死による離別を経験した人に付け入る、似非霊能力者ばっかりですけどね。死者の言葉、なーんて適当なことをでっちあげて、善良な市民から金を巻き上げる連中がほとんどです」
 ネイトとしては当然ながらいい気分ではありません。何かを失った空隙、人の心の弱さに付け入るようなことが、許されていいとは思いません。
 が、それはそれとして、これはれっきとした『取材』なのでした。
 最近首都で密やかに話題に上るようになった、とある「霊能力者」の取材。それがこの日のネイトに課せられた仕事でした。手に握った地図に従って、辿りついたのがこの、名前もわからないちいさな店でした。
 見かけでは「店」であるかどうかすらもわからない佇まいが不気味で、ネイトはあえて明るい声で先生に問いかけます。
「先生は、霊能力を信じているんですか?」
「ん、信じてるような、信じてないような。『オレの目に見えないもの』はそう簡単には信じられない、けれど単純にオレが観測したことがない、だけかもしれないですしね」
 先生の言葉は人を煙に巻くような色合いを帯びていました。この人はいつもそうなのです。たくさんのことを喋っているように見せて、大事なことばかり喉の奥に飲み込んでしまいます。と言っても、今回ばかりは、別段何かを誤魔化すような調子ではなく、単純に愉快がっているだけのようでしたが。
『霊視、承ります』
 扉の看板――木の板に乱暴に彫られただけの文字を、先生は指先でついとなぞって。
「というわけで、お手並み拝見、と行きましょうか」
「……っていうか、先生?」
「はい?」
「何で、ついてきてるんですか?」
 これは「ネイトの取材」であって、先生の取材ではありません。どう考えても、先生は自分の原稿を放置してここにいるのです。しかし、ネイトの眼力などどうということもない、とばかりに先生は空々しく口笛を吹いてみせるのです。
「面白そうじゃねーですか。似非霊能力者様が、オレに何を言ってくれるのか。そのために金だって用意してきたんですよ?」
 今この瞬間の好奇心。それが、記憶を三日とすこしで失ってしまう先生にとっての最大の原動力であることを、ネイトはよく知っています。先生の生き生きとした顔をみると、内心ほっとするのも事実です。
 そして、その手の好奇心は――ネイトの中にも少なからずあるわけでして。
 ネイトは霊能力というものを信じているわけではありません。不愉快であるとすら思います。けれど、実際にどういうものか目にしてみたい、話を聞いてみたい、という欲望を否定はできないのでした。
「余計なこと言わないでくださいよ、先生」
「そりゃあもう。オレは話のわかる紳士ですから?」
 これっぽっちも信用ならないことを言いながら、先生はネイトよりも先に、店の扉を叩きます。すると、内側から「どうぞ」という、低い女の人の声が聞こえてきました。
 先生は臆することなく扉を開きます。すると、独特な、少しばかり煙たさを伴う甘い香りがネイトの元まで漂ってきました。扉の中は薄暗く、ところどころに置かれた燭台の蝋燭がちらちらと炎を揺らしています。扉を閉めた途端、外の音もまるで聞こえなくなってしまい、まるで――世界から、この空間だけが切り離されたかのような。そんな錯覚に、ネイトは息苦しさを覚えます。
「こんにちは、ちょっくらお邪魔しますよ。オタクが腕のいい霊能力者だって聞きましてね。ちょっとご相談に来たって次第です」
 一方の先生はいたって普段通りの調子で、ずかずかと上がりこんでいきます。細い入り口の先には狭い部屋があり、そこに大きなテーブルが置かれていました。燭台の灯りだけではその全容を把握することはできませんでしたが、奇妙な形の像やら何やらが、天板に複雑な影を落としています。
 そして、先生の背中越しにテーブルの向こう側を伺うと、そこに座っていたのは、一人の女性でした。
 薄明かり越しにもはっきりとわかる、黒い喪服を纏った黒髪の女性。黒い帽子から垂らされたヘッドドレスが顔を覆っており、表情や顔立ちは定かではありませんでした。
「……そう」
 ぽつり。落とされた声は先ほどと同様に低く唸るようで、それもまたネイトの背筋をぞわりとさせます。顔のわからない女性は、黒い服とは正反対のしらじらとした痩せた手で対面の椅子を指します。
「どうぞ、お連れ様と一緒におかけになって」
 取材、という言葉を出すべきかどうか悩んでいるうちに、先生はさっさと上着を椅子の背に引っ掛けて座ってしまいました。その横顔は明らかにうきうきとしています。挑戦的、と言い換えてもよいと思います。
 ネイトも居心地の悪さを感じながら横に座ったところで、女性が聞こえるか聞こえないかくらいの声で囁きかけてきます。
「それで、何のご相談でしょうか」
「実はですね、妙に頭が重いっていうか、何かが覆いかぶさってる、みたいな感じがずうっとありましてね。医者に聞いてもよくわかんないって言われちまって、もしかして『憑かれてる』んじゃねーかって。何かわかったら教えていただけません?」
 随分ぺらぺらと出まかせが言えるものだ、とネイトは感心しかけて、ふと、「頭が重い」ということ自体は決して嘘ではないということを思い出します。先生はいつも、頭痛や倦怠感を散らす薬を他の薬と一緒に服用しているので、要するに持病というやつです。そして、かつてネイトには『あくまで薬は症状を散らすだけで、原因の解決にはなりませんけどね。そもそも原因不明なんですから』と言っていたはずです。
 つまり、全てが嘘というわけではないのでしょうが、原因がまさか霊のせい、とも思えませんでしたし、先生もそうは思っていないのでしょう。口元の挑戦的な笑みは消える様子がありません。
 果たして、目の前の女性はそれに気付いているのか気づいていないのか。うつむきがちの姿勢で先生の話を聞き届けた後、ぎりぎりこちらに届くくらいの声音で言いました。
「わかりました。それでは……、相談料を、いただいてもよろしいでしょうか?」
「はいはい、先払いね。おいくら?」
 女性が先生に向けて呟いた値段は、ネイトの感覚からすると相当お高いものでした。特に、霊能力などという胡散臭いものにそれだけの値段を支払えと言われたところで、ネイトなら絶対に財布の紐を緩めることはないでしょう。
 しかし、先生にとってはそんなもの、お遊びのためのポケットマネーの一部でしかないのでしょう。先生は、作家としての原稿代とは別に、一生遊んで暮らせる程度のお金を抱えているようでしたから。ですから、言われた通りの金額をぽんと現金でテーブルの上に置いて、口の端を深く歪めるのです。
「それじゃあ、よろしくお願いしますよ」
 女性はテーブルの上の金を手にして、提示した金額であることを検めます。やがて、そっとテーブルの横の箱にしまうと、改めて先生に向き合いました。
「では、拝見いたします」
 その言葉と共に、女性は顔を覆っていたヘッドドレスを持ち上げました。薄明かりの下でもはっきりとわかる、隈の浮いた、妙にぎょろりとした目。酷く顔色が悪いことも相まって、女性自身が幽霊であるかのような錯覚を覚えて、ネイトは喉元まで出かけた悲鳴を何とか飲み下します。
 そんな女性の双眸が、先生に向けられた、その時でした。
「…………っ!」
 女性の表情が、明らかに引きつったものに変わりました。ただでさえ悪い顔色が更に蒼白になり、次の瞬間には椅子を蹴るようにして立ち上がり、奥にあった扉の向こうへと消えていってしまいます。一体何が、と思う間もなく、……微かに。扉越しなので微かに、ではありますが、愉快ではない音が聞こえてきました。おそらくは、胃の中のものを吐き下している、そんな音。
 ネイトは呆然としてしまいます。もちろん呆然としていたのは、ネイトだけではなく先生も同じで、珍しくぽかんと口を開けたまま、その場に固まっていました。
 それでも、我に返ったのは先生の方が早かったようで、「しまった」と露骨に眉を顰めて呟いたのです。
「行きましょう、ネイト。これ以上、オレがここにいるのはよくねーです」
 先生は勢いよく立ち上がり、椅子の背にかけていた上着をひったくるように手にしてそのまま店を飛び出してしまいます。ネイトは先生と、店の奥とをしばし見比べていましたが、結局先生を追って店を出てしまったのでした。
「先生! 今……、何が、あったんですか?」
 どう考えても「霊能力者」の女性の反応は異常でした。突然体調を崩した、にしてもあまりにもタイミングができすぎていて……、明らかに「先生を見た」結果としてこの場を離れたようにしか見えなかったのです。
 ネイトの問いに対し、先生は色眼鏡越しの視線を店の扉に向け、声を潜めて言いました。
「あれこそが霊視ってやつですよ」
「え?」
「いやー、そういう人種がいるとは知ってましたが、こんなとこで『本物』にお目にかかるとは思いませんでした」
「本物……、ですか!?」
「ええ。本物である以上は、変に騒ぎ立てない方があのお姉ちゃんのためでしょうねえ。記事にすんなら別の奴探して適当に取材した方がいい」
 本物の霊視ってのは、そのくらい繊細なものなんですよ。そう付け加えて、先生は溜息をつきながら頭を掻くのです。
「ほんと、嫌なもん見せちまいました。こりゃ後でお詫びしねーとですわ」
「嫌なもんって……、先生、ほんとに何かに憑かれてるんですか?」
「さあ、どうでしょうねえ?」
 にたり、と笑う先生でしたが、先ほどのような挑戦的な表情というよりは、どこか力ない笑い方でした。そういう、何かを誤魔化すような顔をする先生が、ネイトは好きではありません。ただ、ネイトがそれを指摘するよりも先に、先生が口を開いてしまうのでした。
「さあさあ、代わりの霊能力者を探しましょ。今日中に取材しないと、原稿書くのも間に合わねーでしょ」
「先生に言われたくないです!」
 言い返しながら、つい、ネイトは霊能力者の店を振り返ってしまいます。
 あの女性が本物の霊能力者だったとしたら。ネイトはどうしても考えずにはいられません。
 ――あの人は、一体先生に「何」を見たのだろう?
 
 
 昨日はあんなに重苦しく感じた部屋でしたが、今日はどの家でも使われている記術灯があかあかと部屋を照らしあげていて、微かに染み付いた香のにおいがするだけでした。ネイトが昨日彼女と向き合った時は不気味さが勝りましたが、こうして、改めて明るい光の下で観察してみると、水晶の塊やちいさな石像、なんだかよくわからない針金細工など、統一感のないものが割と乱雑にテーブルの上に並べられていたことに気付きました。
「あの、これらは、何のためのものですか?」
「ただの飾り。それらしく見えないと、霊能力者の店っぽくないかなって」
 ネイトの問いに対し、彼女の言葉はいたってあっさりとしたものでした。思わず目をぱちくりさせるネイトに対し、部屋の奥に向かおうとしていた彼女は振り返って、鳥のような細い首を傾げます。
「幻滅した?」
「いいえ。……少し、驚いただけです。そんな簡単に、種明かしをしてもらえるなんて」
「だって、隠す意味ない。君は店の客じゃないし」
 ――君になら、言ってもいいと、思った。
 ぽつりと、それだけを付け加えた彼女は、それきり何も言わずにネイトに背を向けました。ネイトは言われた言葉の意味がわからずにぽかんとしてしまいましたが、彼女がどんどん奥に向かっていくのを見て慌ててそれを追いかけます。
 そうして、彼女に導かれた先は、どこにでもあるようなちいさな食卓でした。客間も兼ねている、のかもしれません。テーブルに椅子、棚などはごくごく質素なものでしたが、椅子のクッションやテーブルクロスには細かなレースの飾りが見受けられました。
「どうぞ、適当に座って。お茶、用意する」
「ありがとうございます。本当は、こちらが謝罪する立場なんですが……」
「それは、あたしも同じ。何も言わずに、いなくなっちゃったから。……だから、このくらいは、させて」
 そう言って、部屋の片隅のちいさな台所に向かいます。ネイトは言われたとおり、椅子に腰掛けながら、奥の彼女に向かって語りかけます。
「いえ、あれは……、急に具合が悪くなってしまったんですよね。それは仕方ないことですし、先生も全然怒ってないですよ。むしろ先生は『オタクが「本物」ってわかっただけ十二分です、興味深い体験でした』ってへらへら笑ってました」
「うわっ、あれ、見せるつもりで見せてたんだ。性格悪い」
「見せる……?」
 そう、先生はこの霊能力者のことを「本物」だと言ったのでした。先生の言うとおりであるとすれば、この人には何かが「見えて」いたに違いありません。……それこそ、吐き気を催すくらいの、何かが。
「その、昨日は、一体何が見えていたんですか?」
 先生はいつも軽薄な態度で誤魔化して見せますが、言葉にできない色々なものを抱えている、ということはネイトも察しています。察してはいますが、それが「どのようなもの」なのか具体的に知る機会は結局無いままでいました。
 ですから、興味はあったのです。果たして、先生の背後には何が見えたのか。
 しかし、ネイトの問いに対し、紅茶のポットを持って戻ってきた彼女はうつむき加減の姿勢で首を横に振ってみせたのでした。
「お客の話だから、それは言えない。お金も貰っちゃったし。それとも『聞いていい』って言われた?」
 その問いかけに、ネイトは一瞬答えられませんでしたし、彼女はそれが答えだと受け取ったのでしょう。それ以上は何も言わずに、温かな紅茶をネイトの前に差し出すのでした。
「ミルクと砂糖は適当に。あと、何かあったかな。お茶請け」
「あっ、いえ、お構いなく」
 ネイトの言葉もろくに聞いていないのか、再び奥の方に戻ってごそごそし始めた彼女が、不意に「うぁー」と呻きともなんともつかない声を上げました。
「超不味いスコーンあるんだった。減らすの手伝って」
「は、はあ、いただけるならいただきますけど、超不味いってめちゃくちゃ不安ですね」
「何か配分? 焼き加減? 間違った、んだと思うんだけど。よくわかんない。とにかく不味いから覚悟して」
 更に不安なことを言いながら、彼女は山盛りのスコーンと、マーマレードとジャム、そしてクロテッドクリームの皿が載ったものを持ってきました。見た目は普通のスコーン……、に、見えるのですが。
 恐る恐る、一つを手にとって、試しにマーマレードをつけて、口に運んでみます、が。
「……、なんとも形容しがたい、食感がします」
 食べられない、というほどではありませんが。それでも、ジャムやクリームをたっぷりつけて、紅茶と合わせることで何とか飲み下せる、という類の不可解な食感。スコーンという言葉や見た目から想像されるものとは明らかに違う何かを食べている、という奇妙な体験でした。
「でしょ。ほんと、幽霊が見えるだけしか取り得がない」
 言いながら、女性も細長い指でスコーンを一つ手に取り、もそもそと食べ始めます。その仕草だけ見ていると、やはり、多少風変わりではありますが、それでも昨日のような不気味さとは無縁のただの女性に見えました。
 それでも――、彼女は言うのです。
 幽霊が見える、と。
「……あなたには、本当に、幽霊が見えているんですね」
 ネイトも、既に、疑う気はなくなってしました。昨日の異様な様子、先生の言葉、それに彼女の態度。どうやら、ネイトの目には見えない何かが、彼女に見えるらしいということは間違いなさそうでしたから。
 そして、彼女もそんなネイトに対して、こくりと頷いて言うのです。
「そう。霧に焼きついた魂魄の痕跡、って言った方が正確だけど。子供の頃から、そういうものが見えたり、聞こえたりする」
「霧に焼きついた、魂魄の痕跡……、ですか?」
「幽霊って、そういうもの。人が強く強く思ったことは、ひととき、霧に焼きつく。死の間際に見た光景だとか。死にたくないって感情だとか。誰にでも多少はわかるものだけど、あたしは、人よりそれをはっきり感じやすい、みたい」
 君も感じたことはないか、と彼女は問う。街中を歩いているとき、もしくはどこか曰くつきの場所を訪れたとき。そういう場面で背筋がぞくりとしたり、何となく嫌な感じがしたり。そういう感覚こそが、「幽霊」の痕跡であることが多いのだ、と。
「だから、店やってる。って言っても、君の言う『先生』みたいのはレアで、八割思い込み。だから、そういうときはお金、返してる。何も見えないのに、言えることないし」
 もしかすると、店の名前もない、ちいさな店でありながら密かに話題になっているのも、彼女のそのような対応ゆえ、なのかもしれません。見えるものは見えるという。見えないものは見えないという。故にこそ「本物らしさ」として噂になっている、のだとは思うのですが、その一方でネイトはにわかに不安になってしまいます。
「それで、商売は成り立ってるんですか?」
 ネイトの言葉に対し、彼女は紅茶のカップを持ち上げようとした手を止めて、「ふふっ」と目を細めて笑います。
「君、なんか変だ」
「変、でしたか?」
「今まで、そんなこと、聞かれたことなかったから。あ、君がおかしい、って話じゃない。ダメ、言葉の選び方、下手くそ」
 眼鏡の下の目をきょろきょろとさせながら、彼女は言います。どうもこの女性は、喋ることがあまり得意ではないようでした。ただ、その言葉に悪意がないことは、ネイトにもわかりましたから、全く嫌な感じはしませんでした。本当に、ただただ言葉を選ぶのが苦手なだけ、なのだと思います。
 ネイトの中で、最初に感じていた不気味さや奇怪さよりも、「霊能力者」という肩書きを持つ彼女への興味の方が俄然大きくなっているのを感じます。そんなネイトの表情を見てほっとしたのか、彼女は再びうつむきがちになりながらも、ぽつぽつと言葉を続けます。
「えっと、商売としては、全然赤字。でも、最近は、物好きなひとの交霊会に呼ばれたりして、店以外のとこでお金貰ったり、少し、貯えもあるから。だいじょぶ」
 なるほど、霊能力者を名乗る人々が広まりつつあるのと同時に、霊能力者を招いて死者との対話を図ろうとする交霊会という会合が開かれているといいます。主に上流階級、もしくは中流でも上層に位置する人々の一種の娯楽として行われているものだ、とネイトは聞き及んでいました。
 彼女の噂はきっと、「本物らしい霊能力者」として、その手の人々の元にも届いているということでしょう。プラーンシール社で取り上げたいと言われた理由もよくわかります。
 その上で、先生が「彼女を取り上げるのはよくない」と言ったのも――先生とは違う理由でしょうが――正解だと思いました。噂、くらいでちょうどいいのです。話を聞く限り、彼女は別に「有名になりたい」わけではなさそうでしたし、仮にもっと名前が知られてしまっても、上手く人とやり取りができるようには見えませんでしたから。
 そんな彼女は、紅茶を一口含んだ後に、目を激しく瞬きさせながら言いました。
「うん、ここまで、喋ったの、初めてかも。聞いてくれてありがと」
「こちらこそ! 興味深いお話をありがとうございます。それと、これは個人的なお話として胸に留めておきます。今日は、仕事ではなく本当にご挨拶に来ただけなので」
「そっか。……うん、気分も楽になった。あたし、仕事以外で人と喋ったりしない、からさ」
 それから、細い指を組んで、躊躇いがちに口を開くのです。
「あのさ。そう、もし、よかったら、だけど」
「はい、何でしょう?」
「君の話も、聞かせてくれるかな。編集のお仕事、とか。普段どんなことしてるのかな、とか。気になる」
 ほとんど消え入るような声。多分、それは彼女なりの、なけなしの勇気だったのかもしれません。
 温かい紅茶に、お世辞にも美味しいとはいえないスコーンを前に。ネイトが彼女に興味を持っているように、彼女もまた、ネイトに興味を持ってくれているのだとわかり、ネイトは嬉しくなってしまいます。
「喜んで! ただ、その前に」
 その前に、という言葉に彼女の表情が強張ります。……本当に、この女性は仕事の外で人と喋ることに慣れていない、のでしょう。ネイトはその反応に自然と笑ってしまいながら、ずっと頭の片隅に引っかかっていた問いかけを投げかけます。
「順番が前後してすみません。あなたのお名前を、伺ってもよろしいですか?」
 そう、そんな初歩的なことを、今の今まで聞けていなかったのでした。
 彼女はその言葉に「あ」という顔をした後に、にっと笑顔を浮かべて、言ったのでした。
「ベアトリス。トリスでいい。よろしく、ネイト」