朝のラジオ
ネイト・ソレイルの今日は、ラジオの音から始まります。
微かなノイズを混じらせたラジオの音色は、だらしない割に朝だけは早い先生が起きてきた証拠です。……本当は起きて「いた」のかもしれませんが、そこを追及するのは流石にもうやめることにしています。先生はお酒かお薬がないと眠れないらしい、ということは、『監視』の名目と諸々の都合で一緒に暮らし始めてやっとわかってきたことでした。
お酒を飲むと大概は悪酔いする先生のことなので、家中のお酒を、先生が隠したものも含めて徹底的に洗い出し、全てお酢に換えておくのは正解だとネイトは自負しています。先生がお酒とお薬を一緒に飲んでしまった日のことなど……、思い出すことすらおぞましい出来事でした。
そんなわけで、先生は普段からお薬に頼っているわけですが、その効きが悪い日もあるのです。特に最近は薬に慣れてしまったのか、なかなか眠れていないと聞きます。今日は少しでも眠れていればいいけど。そんなことを思いながら、ネイトは手早く着替えて、鏡の前で軽く髪の毛を整えて――ちょっぴり寝癖がついているのは仕方がないものとして、部屋を出ます。
扉を開けた途端、ラジオの音がはっきりと耳に届くようになりました。朝の時間は、いつだって同じニュースチャンネル。アナウンサーが今日の日付と時刻を告げ、首都とその周辺で起きた出来事をただただ淡々と読み上げていくだけの番組は、意外なことに先生が何よりも好きな番組なのだといいます。先生曰く「余計な情報は雑音と同じです」とのこと。先生の好みはネイトには未だに掴めないところがあります。
ともあれ、先生は廊下を抜けた先にある居間のソファに腰掛けて、色眼鏡の下の目を擦り、欠伸混じりに手帳に何かを書き記しているところでした。お気に入りの刺繍入りベストに白いシャツ、人よりちょっぴり短い脚を気にした細身のスラックスに、ぴかぴかに磨かれた革靴。白髪混じりの金髪も既にきちんと結われていますし、顎鬚もいつもと全く変わらぬ長さで切りそろえられています。これだけ見れば隙のない様子、のはずなのですが、普段の先生を知るネイトは全く安心できません。何せこの人は、身なりを整えるのにこれだけ気を遣うわりに、ひとたび屋敷から出たら危なっかしいにもほどがあるのですから。
「おはようございます、先生」
先生は重たそうな色眼鏡を定位置に戻しながら顔をあげ、にぃ、と笑います。左右のバランスの狂った、どこか、人を食った笑い方ではありますが。
「おはようございます、ネイト」
その、他愛の無い言葉に、ネイトはとてもほっとするのです。いつもの先生がそこにいる、ということに。ネイトがここに来てから先生が「いつもの先生」でなかったことはないのですが、それでも、それでも。
果たしてネイトの安堵に気づいているのかいないのか、先生は特に白髪の多い後ろ頭をがりがりとやりつつ、座ったままネイトを見上げます。
「ラジオ、うるさかったですかね」
「いえ、ボクが少し寝坊してしまいました。今日はマシューさん外出されてましたよね? 今から朝ご飯の準備しますから、待っててくださいね」
朝ご飯、という言葉に、先生はきょとんとして、それから嬉しそうに頬を綻ばせました。「はいはーい、よろしくお願いしまーす」
先生は料理ができません。やる気がないし、仮にやる気があっても覚えないので、これだけはもう「先生にはできない」ものだと思うしかありませんでした。ちなみに、ネイトがここに通う前にはどうしていたかというと、大家のマシューさんの御相伴に預かっていたか、そうでなければどこで流通しているものやら、元は軍用と思しき携帯食糧で済ませていた始末。ネイトが来てから先生が規則正しく朝夕の食事を摂るようになった、とマシューさんも大喜びです。……そのくらい、ネイトが『監視』を始める前の先生の食事情がどうしようもなく荒れたものだった、ということなのですが。
台所に向かい、ちいさなフライパンを用意して、火にかけて。卵を溶いていると、微かに聞こえてくるラジオの音が変わったようでした。ニュースの時間が終わると、先生が次にかける番組は決まっています。タイトルと作曲者、そしてごくごく最低限のコメントだけが添えられる、音楽番組。古きよき歌から、最新の流行歌までをカバーするため、ネイトも毎日この時間は楽しみにしています。
さて、今日の曲は――。
弦の震える音に、聞き覚えのあるピアノの音。それから、伸びやかな女声が響きます。
ねえ、あなたはきっと行ってしまうのでしょう?
わかりますとも、あなたの眼に灯るほのおを見れば。
ネイトは、思わず手にしたボウルを取り落とすところでしたが、何とかことなきを得ました。ネイトの料理は決して下手くそ、というわけではないのですが、どうしてもそそっかしくて、よくあちこち引っくり返して、先生に「またやったんですかぁ?」と呆れられてしまうのです。今日はなんとかそうはならずに朝食を作り終えることができそうです。ネイトの耳は、ずうっと、ラジオから聞こえてくる歌声に引っ張られていましたが。
フライパンの上からスクランブルエッグをお皿に移し、付け合わせに缶詰の豆。塩と胡椒を振っている間に、先生の趣味で買い求めた新型トースターもしっかりとパンに焦げ目をつけてくれました。
ねえ、あなたの手を握っていいかしら?
……最後じゃないって、信じたい、私のために。
一通りの朝食を用意したところで、いつしか、その歌声に、別の声が混ざっていることに気づきました。柔らかく、どこか切ない響きの、そういう楽器なのではないか、と思わせるほどによく響く声。
それが先生の声であることを、ネイトは知っています。ネイトが先生の顔を見てしまえば、すぐに消えてしまうものであることも。先生は歌うのは好きですし上手い方だと思うのですが、歌っているところを見られるのは嫌いという、なんとも難儀な性格なのです。
本当はもう少し聞いていたい、と思ったのですが、このままでは折角作った朝食が冷めてしまいます。
「先生、朝ご飯できましたよ」
そう声をかけて、皿を持っていくと、想像通り先生の歌は途絶えてしまいました。ちょっと気まずげな顔をして振り向いた先生は、けれど、ネイトの持ってきた朝食を前に頬の力を抜いたのでした。
「ありがとうございます。うん、……贅沢ですねぇ、自分で準備しなくてもいいって」
「そう思うなら少しは手伝おうって態度を見せたらどうですか?」
「オレが行ったら行ったで絶対に『邪魔』って顔するでしょ、オタク。だからこれでいいんですよ」
まあ、確かにそうなんですけど。
そう言いたくなる気持ちを、ぷくっと膨らませた頬に収めて。それから――、まだ続いている歌声に、耳を傾けます。
ねえ、このまま、このまま、遠くへ行けないかしら。
草原を越えて、あの山を越えて、遠くへ――。
ちらり、ネイトの脳裏に閃くのは、遠い風景を眺める一人の女性の姿で。
その人の目は、はるか、はるか、遠く。ここではない場所を見ていた……。
「ちょっと、ちょっとネイト。何ぼうっと突っ立ってんですか」
「あっ、すみません」
慌てて食卓に皿を置いて席に着きます。すると、あたたかな食事が並んでいくのをぼんやりと見つめていた先生は、唐突に口を開きました。
「……この歌に、何か思い入れでも?」
先生は、のらりくらりとしているようで、ひとをよく見ているひと、なのだとネイトは気づきつつあります。今だってそう。ほんの僅かな戸惑いから、ネイトの内心をずばりと言い当てて見せるのです。
だから、ネイトは、ちくりとした胸の痛みを覚えながらも言葉を落とすのです。
「母が」
歌声が呼び起こすそれは、自分を見送る母の顔。
ネイト。自分をそう呼んでやわらかく微笑んだ、顔。
その時のあの人は、とても優しい顔をしていた、けれど。
そんな遠い日のイメージを軽く首を振ることで頭から追い出して、それから気を取り直してはっきりと言いました。
「母が、好きな歌なんです」
「確かに、ネイトの親御さんくらいの時代に流行った歌ですもんね、これ」
先生の目はいつだって分厚い色眼鏡の下、どこを見ているのかも定かではありません。ただ、どうしてでしょうか。ネイトは不思議と、先生がじっとこちらを見定めているような気がしたのです。
先生はネイトについて何も知りません。知らないはず、なのです。だから、何を思うこともない、はずなのですけれど。先生に見つめられていると思うと……、それも、普段は見せたことのないはずの「何か」を見られているかもしれない、と思うと体が強張ってしまいます。何も、先生に隠すつもりはない、はずなのですけれども。
とはいえ、緊張も長くは続きませんでした。先生はいつもと何一つ変わらない、とぼけた調子で続けます。
「いい歌ですよね、オレも好きなんですよ、この歌。歌詞はありきたりかもしれませんけど、オレにとっては……」
その後の言葉は、喉の奥に飲み込まれてしまって、ネイトの耳には届きませんでした。思い出の歌は、いつの間にか終わっていて、次の歌が始まっていました。先生は手帳に何かを走り書いて、それからペンを置いてフォークを手に取ります。
いつもより、少し遅めの朝ご飯。ネイトは、満足げにスクランブルエッグをほお張る先生をちらりと見て、釘を刺しておくことにします。
「そういえば、先生?」
「何ですか、ネイト?」
「実は、あと三日で〆切なんですけど、原稿は進んでるんですよね?」
その言葉に、先生は一瞬固まり、それからごくりと卵を飲み込んでみせてから、にたりと笑って首を傾げます。
「さあ……、どうでしょうね?」
「せんせぇー! 今日は! 半分書き終わるまで! 外に出しませんから!」
「ええー!? 横暴! あと三日あるんだから一日くらいのんびりしたって」
「昨日も一昨日も同じ台詞聞きましたからねそれ! 今日こそは! 仕事を! してもらいます!」
そんなやり取りから、今日の一日が始まります。
きっとどうということもない、先生とネイトのいつもの一日が。