ことのはじまり

 そもそものことのはじまりは、プラーンシール社の編集者が泣きながらこう言い出したことでした。
「もう私には無理です、配置換えをお願いします」
 ――これで、六人目でした。
 悪いことをした、と思いながら、コリン・フロレンスはその言葉を確かに受け取り、編集長に伝えることにしました。無理だと言われたことを続けていても、「お互いに」いいことはありませんでしたから。
 そう、きっと「先生」だっていい気分ではいられないことでしょう。
 コリン・フロレンスはプラーンシール社の編集者の一人です。ただ、いくつもの仕事を抱えていて女王国のあちこちを飛び回っているため、首都の片隅に建つ本社にいる機会はそうそう多くありません。そのため、自分が抱えていた仕事のうち、大事な一つを他の編集者に預けることにしたのです。
 それが、プラーンシール社お抱えの作家、カーム・リーワード先生の『監視』でした。
 一般的には「担当編集者」という言葉が正しいのだと思いますが、ことリーワード先生に関しては『監視』という言葉がもっとも相応しいとコリンは考えています。
 何せ、かの先生は……、放っておくと、何をしでかすのか全くわからないのです。
 散歩に出かけたと思ったらちょっとした事件に巻き込まれ、真犯人ともども警察にしょっ引かれていたり。
 〆切直前ということで部屋で閉じこもって原稿を書いていたはずが、気づいたら外をふらついていて、好みの女の子を口説いていたり。
 かと思えば、クイーンズティア川で溺れかけていたり――この時は、風に吹かれて川に落ちてしまったご婦人の帽子を拾おうと思って、誤って自分も落ちてしまった、とのことでしたが。
 ある時には行方不明になったかと思いきや、すっかり酔っ払って、酒場の看板を抱えて路上で寝ているところをお巡りさんに見つけてもらったこともありました。
 外に出せばトラブルに見舞われ、しかし家の中に閉じ込めておくことも難しい。そんなこんなのうちに、〆切を一節、時には一季以上破ってしまう。
 そういう、少々どころか相当困った人である先生には、どうしても『監視』が必要でした。本当は先生の挙動を熟知しているコリン本人が『監視』するのが一番いいのでしょうが、如何せんコリンは多忙な身なのです。先生の『監視』を他の人に頼んでなお体が一つでも足りないと思っているのですから、到底自分だけではどうにもなりません。
 しかし、この先生、問題を起こしたり巻き込まれたりする上に、とにかく面倒くさい人なのです。先生にケチをつけたくなる部分もたくさんありますが、この面倒くささが単純に「先生のせい」とも言い切れないのが、とにかく面倒くさいところでありました。
 そんなこんなで、今、ついに六人目となる『監視役』が音を上げてしまったのでした。
 これは、もう、しばらく自分がついていなければならないでしょう。……先生もまた、担当に辛い思いをさせてしまったことを、悔いているでしょうから。先生のほとぼりが冷めるまでは、新しい担当について話をしない方がいいでしょう。
 何、先生のほとぼりが冷めるのは、そう時間はかかりません。そういうものですから。ですから、コリンは次の『監視役』について思いをめぐらせるのです。
 先生は、話の通じない相手が嫌いです。一方的に話を押し付けてくる人間が嫌いなら、自分の意志を示さずに相槌を打つだけの人間も嫌いです。その上で、先生の面倒くさい性格と、性質に耐えられる強い心が必要です。時には先生を追いかけて捕まえるだけの機動力と体力も必要になります。あの先生、作家という肩書きに似合わずやたら行動力だけは高いのです。
 今回の担当は上手くやってくれると思っていたのだけれど。……いえ、上手くやっていたはずなのです、それこそ、一週間くらい前までは。その上で、この一週間で何があったのかは大体想像はつきました。ついてしまうだけに、コリンは苦々しい顔をしてしまうのです。おそらくは「事故」というべきなのでしょう。担当は悪くない、先生も悪くない。ただ、ただ、悲しいすれ違いを繰り返してしまって……、それで、もう、限界だと思ったのでしょう。お互いに。
 こんなことを繰り返しても、何もいいことはないと、コリンもわかってはいるのです。担当が変わっても、結局先生は同じことを繰り返してしまいます。担当は配置換えができますが、カーム・リーワードは一人しかいないのです。いくらほとぼりが冷めるのが早いとはいえ……、そのような経験を積み重ねている、ということは、先生のためにもよくないと思うのです。
 いっそ、筆を折ってしまえば楽なのに。コリンは、何度その言葉を飲み込んだことでしょう。
 先生の筆が遅い理由はわかりきっているのです。先生が、変な事件に首を突っ込みたがるのも。女の子に入れ込み、酒に溺れるのだって。要するに、逃げているのです。原稿と――それに付きまとう、あれこれから。
 だというのに、先生は意地でも「作家」であり続けようとします。作家、カーム・リーワードであり続けようとします。そうあろうとする理由もコリンはよく知っていて、だから、何も言えなくなってしまいます。
 せめて、側にいて、彼を見ている人がいてくれればそれでいい。それだけなのですが……、ただ「それだけ」がどうしたって難しいのです。
 はあ、と深い溜息一つ。この後、先生の様子を見に行かなければならない、と思うともう一つ溜息がこぼれ落ちてしまいます。コリン自身、先生のことは嫌いではないですが「苦手」であり、どう考えても荒れているとわかっている先生を訪ねるのはあまりにも気が重いことでした。
 その時、とん、と肩を叩く気配があって、コリンははっとそちらを振り向きます。そこには、社長兼編集長のジュード・クワインがコーヒーカップを横から差し出していました。
「コリン、今日も冴えない顔してんなあ、ほら、これでも飲んどけ」
「あ……、ありがとうございます」
 砂糖もミルクも入っていない濃いコーヒーは、あまりよく眠れていないコリンにはなかなかの刺激でした。無理をするのはよくないとわかっているのですが……、やらなければならないことは、まだまだたくさん。編集長の前でも、仕事の手を止めるわけにはいきません。
 ジュードもそれをよくわかっているので、強いてコリンを咎めることなく、横に座って言うのです。
「で、先生のお守りが音を上げたって?」
「はい。次の『監視役』を探さなければなりません」
「なら、こいつはどうだ?」
 無造作に手渡されたファイルには、栗色の髪をした少年の写真がクリップでとめられていました。少年……、少年と言って許されるでしょう。成人はしているようですが、そばかすの浮いたきりりとした顔立ちは、まだまだあどけなさを残しています。
「……この少年は?」
「今度からうちに入る、編集者希望の新人。うちの得意とする、新規技術分野に興味があるんだと。あと、カーム・リーワード先生の作品の大ファンだってな」
 大ファン。その言葉にコリンは露骨に眉を顰めずにはいられません。あの先生は、今となってはかなりの知名度を誇っている割に、自分にファンがいるなど欠片も思っていないし、ファンだという人間は「ストーカーでは?」などと切り捨てる始末。そんな先生に果たして純粋に先生の作品を好んでくれている新人を会わせていいのか、という疑念はありました、が。
「一応、俺もアレの背景はわかってるつもりだし、アレが一番よくわかってんだろうよ。このままじゃいけないってことはさ」
「そう、ですね」
「その新人、この前顔合わせしたが、なかなか骨のありそうな奴でな。頭の回転は速いし、受け答えもしっかりしてる。うちの入社基準としては文句なしだし、アレもそれなりに面白がるとは思うぜ。何よりも」
「何よりも?」
 言葉を鸚鵡返しにしたコリンに、ジュードは白い歯を見せてにたりと笑ってみせます。
「大ファンだっていう若人に迫られてたじたじになっているアレが見てみたい」
「悪趣味ですね」
 そう言いながらも、コリンもつい笑ってしまっていました。
 本当に、あの先生には困ったものなのです。だからこそ、あの先生が困った顔を見てみたい、という気持ちはコリンにもよくわかるのです。むしろ、コリンだって、常々そう思っています。
 だから……、コリンは、改めて手元のファイルを見つめます。明るく利発そうな少年の写真の横に書かれている名前を、見つめます。
 
 ――ネイト・ソレイル。
 
 果たして、君は上手くやってくれるだろうか。
 あの、人の中にいてなお「孤独」であり続ける先生を「見て」くれるだろうか。
 そんなことを、思うのです。