廃品街の散歩者

 頬から頭に突き抜けた衝撃。
 それを痛みと認識するよりも先に、身体が地面に叩きつけられていた。
 朦朧とする頭の中に、鮮烈に焼きついたのは「構うな、火をつけろ」という声。そして、暗闇の世界のあちこちに放たれた炎の赤。
 止めろ、という声は届かない。伸ばした手も、ただ、空を切るばかり。
 廃品の山を飲み込みながら燃え上がっていく炎を、ヤスは、ただ地面に這い蹲って見つめているだけで――。
 
 
「いやー、派手にやられましたねー」
 気の抜けた声が降ってきて、中央隔壁外周治安維持部隊隊員、ヤスは反射的にそちらに視線を向けた。
 焼け焦げながらも形を残していた、積み上げられた物資輸送缶。その上に座っていたのは、ヤスと同い年か少し下と見られる黒髪の青年だった。ゴミ捨て場から拾ってきたのだろう、擦り切れ、薄汚れた襤褸を幾重にも纏い、煤けた眼鏡をかけた優男だ。
「エリック」
 ヤスが名前を呼ぶと、エリック青年は、軽々と缶の上から飛び降りてきた。ざ、とほとんど裏がはがれかけた靴が踏んだ地面は、黒い煤に覆われていた。
 今や、この区画の全ては煤と灰の中にあった。
 廃品街。中央隔壁――通称『裾の町』外周の一角に位置するそこは、呼び名通り、宿無したちが廃品を集めて作り上げた、一個の居住区だった。もちろん統治機関《鳥の塔》はそんな宿無したちの行動を認めてはいない。ただ、塔が積極的に外周の統治を行っていないが故に、そこはかりそめの場所とはいえ、宿無したちに一夜の安らぎをもたらしていた。
 そう……あの夜までは。
 ヤスが所属する外周治安維持部隊が、「疫病の発生源となりえる」「塔の許可も得ず住み着いた鼠に人権などない」などの諸々の適当な理由で、突然この区画を焼き払うまでは。
 人の気配も完全に失われたかつての廃品街を見渡して、エリックはヤスに微笑みかける。
「ご安心を、住民の避難は完了しておりますゆえ。死者、怪我人共にゼロですよ」
 その言葉は、ヤスも予想だにしていなかった。思わず目を見開いて、エリックを凝視してしまう。
 確かにあの時、夜間の焼き討ちとはいえ、逃げ出す者や悲鳴を上げる者が一人もいなかったことに、隊長や他の隊員たちも困惑していた。結局、その後ろくに現場を調査はしなかったから、人がそこにいたのどうかも確かめられていなかったのだが。
 ヤスは、あの時隊長に殴られた痛みを思い出し、未だに腫れている頬をさすりながら、言った。
「あの日焼き討ちがあるなんて、俺だって知らなかったんだ。どうしてお前がそれを?」
「それは、企業秘密ってことでお願いします」
 言って、唇の前に人差し指を立てる。
「まあ、徐々に人は戻ってくるでしょうし、ここも元通りになりますよ」
「戻ってきても……また、同じことが起こるだけだろ」
 そうだ。今回だけではない。
 これまでも、そしてこれからも。外周治安維持部隊は、外周の住民を顧みぬ「治安維持」を続けていくのだろう。
 塔の援助を受け、旧時代とさほど変わらぬ生活水準を維持している内周に対し、外周は塔からは半ば見捨てられた区画である。最低限の物資援助はあるが、外周に生きている人々全てを生かすには、到底足らない。故に、人々は肩を寄せ合い、時には奪い合いながら細々と生きるしかないのだ。
 当然、《鳥の塔》からそんな場所に派遣される外周治安維持部隊は、兵隊の間では極端に不人気な隊として知られる。それも当然だろう、誰が好き好んで汚らしい外周に派遣されたがるというのか。己から治安維持部隊への配属を願うのは、それこそヤスのような、外周出身の兵隊くらいだ。
 それで部隊を構成するのが外周出身の兵隊のみであれば、もう少し状況は変わったのかもしれないが……代々の治安維持部隊は、他の部隊に回せないような、しかしプライドだけは肥大した貴族出身の阿呆によって、外周出身の兵隊が抑圧される構図が一般的だ。
 その構図は、そう簡単には変わらないだろう。自分たち、外周出身の兵の声など、塔上層の貴族どもに届くはずもないのだから。
 ヤスは、今一度、あの阿呆極まりない隊長の姿を思い出し、腫れた頬を撫ぜた。先代隊長は無気力で知られたが、今の隊長は、とにかく外周そのものが憎いのか何なのか、時々発作のように、ほとんどの人間には凶行としか映らない行動に走る。
 不要なものは浄化されなければならない。この隔壁で息をしていいのは、塔に認められた者だけだ。そんな隊長のヒステリックな声が脳裏に蘇る。
「怒ってないのか、俺を」
 考えているうちに、言葉が、半ば無意識に唇から飛び出していた。すると、エリックは苦笑を浮かべて、諭すように言う。
「ヤスさんのせいじゃないでしょう。見ましたよ、隊長を止めようとしていたところ」
 一体どこから見ていたのか、と思ったが、この青年は神出鬼没に定評がある。あの瞬間に、誰からも気づかれない場所から一部始終を見届けていたところで、不思議はない。
「それでも、結局止められなかった。止められなきゃ、何も変わらねえよ」
「……そう、ですか」
 エリックは、溜息と共に言葉を落とし、視線を焼け跡に戻した。
 しばしの沈黙。風が、辺りの焼け残ったものたちの間を通り抜けて、悲しい音を立てる。その静寂に耐え切れなくて、ヤスはエリックの横顔を見て問うた。
「エリック、お前はどうするつもりだ。お前も、帰る場所無くなったんだろ」
 一瞬、エリックはきょとんと首を傾げたが、「はは」と小さく笑う。
「まあ、何とでもなりますよ。では、また」
 襤褸を翻し、たん、と軽く地面を踏む。それだけで、決して小さなものではないエリックの身体は軽々と宙に浮き、焦げた廃品を足場に灰色の空に駆け上ったかと思うと、瞬く間に立ち並ぶ建物の向こうに消えていった。
 まるで、獣のようだ。青年の姿が消えた辺りを呆然と眺めながら、ヤスは思った。だが、エリックがどこか人間離れした挙動をするのも、いつものことで。そこまで深く考えることもせず、詰め所に帰ろうと踵を返した、その時だった。
 頭に、何かがぶつけられて、はっとそちらを見る。
 すると、焼け跡に隠れるように、数人の子供がこちらを睨みつけていた。そのうちの一人……ヤスの足下に転がる石を投げたであろう少年が、甲高い声で叫ぶ。
「裏切り者!」
 その声に合わせて、子供たちは口々に、兵隊の格好をしたヤスを「裏切り者」と罵りながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
 ヤスは、そんな少年たちの後姿を見送った後、拾い上げた石を、きつく握り締めて。
 ただ、白い息を吐き出すことしかできなかった。
 
 
「あっはは、浮かない顔ですねえ、ヤスさん?」
 ある日、非番をいいことに特に目的もなく路地を歩いていたヤスに、何とも奇妙な格好をしたエリックが気さくに笑いかけてきた。
 着ているのが襤褸であるのは相変わらずだが、それらは赤っぽい色と薄汚れた白に統一されていて、変な形の帽子を被り、何かでぱんぱんになったずだ袋を背負っている。そんな怪人が、子供たちに囲まれて何やら騒いでいるのだ。それは「何やってんだ」と聞きたくもなる。
「めりーくりすます、というやつですよ。知りませんか?」
 どうやら、サンタクロースのつもりらしい。旧時代の文化や宗教が廃れて久しいこのご時勢だが、流石にこの年末の祭くらいは、外周にも風習として残ってはいる。
「知っちゃいるが……あー、何だ。お前は浮かれてんなあ」
「お祭は騒いでナンボ、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら以下略ですよ。ねえ?」
 どこで覚えたのかさっぱりわからない言葉を引用し、エリックはけたけたと笑い声を立てる。子供たちも何かがつぼに入ったのかどっと笑ったが、そのうちの何人かは、ヤスに恨めしげな視線を向け、エリックにすがり付いている。
 それで、気づいた。そこにいたのは、廃品街の焼け跡でヤスに石を投げつけてきた少年たち。それに、子供たちの中には他にも何人か、廃品街に住んでいたはずの子供の姿が見える。彼らも、エリックに導かれてこの地域に避難してきた住民たちなのだろう。
 ヤスは、何とも居心地の悪い気分になる。部隊の所業を謝罪すべきだ、とは思う。思うが、謝ったところで、それ以上彼らに何をしてやれるというのだろう。
 言葉を失い、立ち尽くすヤス。なおも無言で睨みつけてくる子供たち。
 そこに、エリックのやけに能天気な声が割って入った。
「こらこら、今日はお祭なんですから。子供も大人も兵隊もありません、日ごろのことなんて忘れて、ぱーっと騒ぎましょう?」
 それと同時に、背中に担いでいた袋を下ろして、中身をぶちまける。
 中に入っていたのは、どこから掠め取ってきたのか、色とりどりの、見ているだけで歯が痛くなりそうな菓子類だった。それを見た子供たちの目が輝き……遠巻きにして見ていた大人たちも、興味を引かれて寄ってくる。
 ともすれば奪い合いになりかねない、とヤスは危惧したが、エリックはその都度的確に声をかけ、その場にいる人間の衝突を抑えこんでみせた。
 そんな中で、ヤスの存在はすっかり忘れ去られたようだった。一通り菓子がその場にいる人間に行き渡ったことを確認し、小さく息をつくエリックの横に歩み寄る。
「……ありがとな、エリック」
「いえいえ」
 にっとエリックは笑う。それにつられるように、ヤスも、少しだけ笑った。
 エリック・オルグレンを名乗るこの優男が、いつ廃品街に現れたのか、ヤスは知らない。
 記憶が正しければ、噂を聞くようになったのが、あの近辺で路上生活をしていたアル――異能の天才児アルベルト・クルティスが塔に招かれたのとほぼ同時期だったはずだから、既に数年は前だったと思う。
 逆に言えば、それより前には名を聞かなかったということになるから、元は外周の住民ではない、とも言われている。外周訛りの少ない丁寧な言葉遣いや、やけに洗練された身のこなしを見るに、野に下った貴族の子供ではないか、という噂もある。
 ただ、それ以上のことは何もわからない。どこに住んでいるかも、普段何をしているのかも不明。唐突に廃品街に現れては、住民と他愛ないやり取りをして去っていく。中には、この前ヤスが思ったのと同じように、エリックを狸や狐だとか言う奴もいる。
 エリック自身はそんな噂など気にした様子もなく、いつだって飄々としたものだが。
 旧い歌を歌い出す子供たち、そんな子供たちに合わせて手を叩く大人たちを穏やかな瞳で見つめていたエリックは、不意に呟いた。
「僕、こういうお祭騒ぎに、憧れてたんです」
「……今まで、やったことなかったのか」
 それにしては、随分と手際がよかったが。それを指摘すると、エリックは嬉しそうに笑った。
「何をしていいかわからなかったから、色んな人に、話を聞いて。必要なものを揃えたり、手はずを整えたり。何だか、そういうのって、とってもわくわくするんです」
 わくわく、か。ヤスは、子供のような無邪気さを見せるエリックを、眩しく思わずにはいられなかった。そういう感情を、いつから忘れてしまっていただろう。家族を養うために、塔の兵隊になって。だが、兵隊になってからというもの、ろくな仕事は与えられず、鬱屈とした思いだけが溜まっていく。
 そんな日々の中で、「わくわく」なんて感情が生まれるわけもない。
「ヤスさん?」
 ひょい、と。ヤスの視界を覆うように、エリックが顔を覗き込んでくる。薄汚れた眼鏡の下で判じづらい、長い睫毛に縁取られた黒い双眸も、はっきりと見えるほどの近距離。改めて見ると、本当に美しい造形をしている。まるで、つくりものか何かのような……。
 妙にぼうっとした心持ちで、エリックの顔を見つめていたその時。
 エリックははっと息を飲んで、振り向いた。ヤスも視線を追うが、そちらにはただ路地が続いているだけで、何が見えるわけでもない。だが、エリックははっきりと、こう言った。
「悲鳴――」
 悲鳴? ヤスの耳は、悲鳴らしき声を捉えてはいない。だが、異変は即座に、波紋のように広がってきた。逃げ惑う人々の姿、そして、聞きなれた罵声が響いてくる。
「何だあ、その目は! 誰のお陰でここに住まわせてもらってると思ってるんだ、ああ?」
 それは――外周治安維持部隊隊長の声。それに唱和するように、隊長の腰巾着連中の下卑た笑い声も聞こえてくる。彼らは、どうやらこちらに向かって来ているようだ。
 気づいた子供たちが泣き出し、大人は子供をつれて逃げ出そうとする。にわかに緊張の走る空間で、ヤスは反射的に飛び出していた。強く歯を噛み、拳を握り締めて。
 己の立場なんて、もはやどうだっていい。こんな重苦しい気分を抱えながら生きていくくらいなら、隊長を一発ぶん殴って、兵隊なんて辞めてやる。
 強い思いと共に踏み出した足は、しかし、それよりも強い力で引き止められた。肩に走った痛みに思わず振り向くと、エリックが、非力そうな見た目に反した力でヤスの肩を握っていた。
「エリック」
「これ以上の騒ぎは、僕が望みません。どうか、あれが過ぎ去るまでは隠れていてください」
 普段の彼らしからぬ、有無を言わさぬ口調に、一旦は焼け付きかけていた意識が冷えていく。それを確認してから、エリックは場に集っていた住人たちに向き直って、穏やかではあるが、場の喧騒を貫く声で言う。
「皆さんも、この場から出来る限り離れてください。時間は僕が稼ぎます」
「エリック……お前」
「別に、正義の味方ぶるつもりはありませんよ。ただ」
 とん、と。ヤスの肩を突き放すように離し、エリックはうっすらと凍れる微笑みを口元に浮かべながら、
「大切な一日を邪魔する、無粋な奴に物申したいだけです」
 そう、言い放った。
 その間にも、大人たちは子供を連れ、やってくる隊長の目が届かないであろう場所に隠れようとしていた。ヤスも、仕方なしに、物陰に隠れた。それでも、エリックに何かあれば、すぐにでも飛び出せるように。
 やがて、路地に隊長と腰巾着の姿が現れた。隊長は、塔上層の貴族らしくでっぷりと太った身体を揺らし、いやらしいきんきん声で取り巻きと笑い合っていたが……逃げ切れていない者たちを庇うように、道を塞いで立つエリックの姿を認めて眉を顰めた。
「何だ、貴様?」
「この方をどなたと心得る。貴様のような下賎な――」
 腰巾着が口々に言うのを遮って、エリックは背筋を伸ばし、いつになく強い語調で言葉を放つ。
「エリック・オルグレンと申します。そして、あなたは中央隔壁外周治安維持部隊隊長のゴードン・レンブラント氏とお見受けいたしますが、間違いありませんね?」
 ただ、明らかな不快の感情を込めながらも、エリックの言葉はあくまで丁重なものだった。故に、取り巻きどもは戸惑いと共にお互いの顔を見合わせる。果たして、目の前の男が自分たちの思う「下賎な外周住民」であるかをはかりかねたに違いない。
 しかし、隊長だけは相変わらず自慢の髭をなでつけながら、ねちっこい笑みを浮かべて言う。
「その通り、私こそがゴードン・レンブラントだ。して……オルグレンと言ったな。我らの前に立つということは、我々外周治安維持部隊に何か用があるということかな?」
「ええ。近頃の治安維持部隊の度重なる蛮行に際し、それを指揮する方がどれほど愚鈍にして無知蒙昧な方なのか、一度お目にかかってみたいと思いまして」
 あまりにもど直球な暴言に、一瞬前まで余裕の笑みを浮かべていた隊長も、笑みのまま固まった。多分、何を言われたのか、その瞬間はわからなかったのだと、思う。だから、先に金縛りから解かれたのは、腰巾着三人だった。
「貴様……っ!」
「いやあ、噂に違わぬ阿呆面ですねえ、あなただけでなく、そちらの方々も。これでは、外周のルールなど説いたところで理解できるとは思えません」
「はっ、ただ地べたを這い蹲って生きているだけの連中にルールなどあるまい?」
「それが見えていないから、見ようともしないから、愚鈍だと言っているのですよ」
 どのような言葉を投げかけられても、エリックは一歩も退こうとはしない。それどころか、一歩踏み込んで隊長に迫ろうとする。隊長を庇うように前に出る取り巻きたちを見据えて、エリックはなおも言葉を紡ぎ続ける。
「守られるべき暗黙のルールがなければ、外周は立ち行きません。塔の庇護なんざ、これっぽっちも届いちゃいないんですから。全く、統治機関が聞いて呆れます。それでも外周が外周足りえているのは、ひとえにここに住む住人たちの力と意識によるものです。あなたがた、塔の人間の力ではありません!」
 何とはなしに、エリックの怒りの矛先は、目の前の「愚鈍な」男たちではなく、全く別の方向に向けられているような気がした。そう、それは……同じ隔壁の中にありながら、内周の住民だけを手厚く庇護し、外周地域を顧みようとしない《鳥の塔》という機関そのものに。
 当然、そんな機微など、頭に血が上った兵隊たちには理解できなかったのだろう。特に血の気の多い一人が、拳を振り上げ、エリックの頬を殴り飛ばした。エリックは、たたらを踏むが倒れはせず、挑戦的に兵隊たちを睨む。
 そして……壮絶な笑みを、血の滲んだ口元に浮かべてみせるのだ。
「構いませんよ、殴ればよいでしょう。それで、あなた方の気が晴れるのであれば」
 抵抗はしませんよ、と両腕を広げるエリックに、流石の取り巻きたちも不気味なものを感じたのか、じり、と下がりかかる。だが、そこにすかさず隊長のきぃきぃ声が響き渡る。
「貴様ら、侮辱されたまま引き下がるのか! やれ、私が許す!」
 誰が許すようなものでもあるまいに、その声を聞いて、取り巻きたちが寄ってたかってエリックを地面に引き倒した。抵抗しない、という言葉通り、エリックは手も足も出さずに大人しく殴られるがままになっている。
 見ていられない。ヤスは身を浮かせ、今度こそ隊長たちの前に飛び出そうとした。
 その時、エリックが、ちらりとヤスの隠れている方に視線をやる。それが――黙って隠れていろ、という合図だ、ということだけはわかった。
 こんな状況でも、こちらの行動まで見抜いた上で、動くなというのか。唇を噛み、何とか息を殺す。かなり激しく殴られ、蹴りを入れられているようだが、エリックは悲鳴一つ上げずに頭を抱え、地面の上に横たわっている。赤と白の服が、見る見るうちに泥に塗れていくのを、ただ見ているだけしかできないヤスは、己の爪が掌に食い込む痛みを味わっていた。
 やがて……その行為が不毛であることに、やっと気づいたのだろう。取り巻きの一人が、とどめとばかりにエリックの腹に一撃蹴りを入れて、肩で息をしながら背後の隊長を窺う。隊長は、ぼろ雑巾のように地面の上に転がるエリックを認め、「もういいだろう」と満足げに頷いた。
「これに懲りたら、二度と我々の前に姿を現すな。行くぞ」
 隊長の言葉に従い、兵隊たちはちらりとエリックを見下ろした後、隊長についてその場を立ち去った。
 黒い兵隊たちの姿が完全に消えたのを確認すると、ヤスは隠れていた場所から飛び出して、転がったままのエリックに駆け寄った。
「おい、エリック、大丈夫か?」
 すると、エリックはぴょこん、と上半身を起こして、小さな咳と共に口の中に溜まった血を吐き出した。それから、ぼろぼろながらも気の抜けた笑顔を見せる。
「いやー、あはは、流石にこれは堪えますねえ」
 言いながらも、何事もなかったかのように立ち上がる。ふわっとした印象に似合わず、存外にタフだ。骨や筋に異常がないか確かめるように身体を軽く動かし、すっかり割れてフレームも曲がってしまった眼鏡を外して、苦笑を浮かべる。
「眼鏡も割れちゃいましたね」
「無くても見えるのかよ?」
「伊達なんで、度は入ってませんよ。目がちょっと弱いのは、本当なんですけどね」
 もったいないなあ、とのん気なことを言いながら、懐に割れた眼鏡を収める。何だか心配するのも馬鹿馬鹿しくなるくらい、いつも通りのエリック・オルグレンだ。しかし、先ほどまで命の危険を感じるほどの暴行を加えられていたのは、事実としてヤスの目にも焼きついている。
「なあ……エリック」
「何です?」
「何で、あんなことを言ったんだ?」
「いえ、何かこう、むかっ腹が立ったんで」
 極めて簡潔な答えだ。これ以上ないまでに。唖然とするヤスに対し、エリックは見るに耐えない痣だらけの顔を向けて、淡々と言う。
「ヤスさんも、今日は早めに詰め所に帰ったほうがいいでしょう。この辺りの方々には、僕から経緯をお話ししておきますので」
 骨には異常ないかな、と一通り全身を確かめて呟くエリックに、ヤスは思い切って声をかける。
「エリック、お前、さっき言ってたよな」
「……何をです?」
「外周が外周足りえてるのは、外周の人間の力で、塔の力じゃないって」
「言いましたね」
「それって結局、俺たちなんていらねえ、ってことだよな」
 中央隔壁外周治安維持部隊は、あくまで塔が組織する武装集団だ。先ほどのエリックの言葉は、外周におけるヤスたちの存在を、全否定するものに他ならなかった。最低でも、そうヤスには聞こえた。
 だが、エリックは小さく首を横に振って、言った。
「勘違いしないでいただきたいのですが……僕、治安維持部隊の存在は、絶対に必要だとは思っているんです」
 ならば、どうしてあんなことを言ったのか。その問いをヤスが言葉にする前に、エリックの唇は動いていた。
「外周の不文律に縛られない外部からの抑止力は、決して無駄ではありません。それが、正しく働く限りではありますが」
「正しく働く……か」
「ええ。もちろん、マニュアル通りって意味じゃないですよ。相手は人ですからね。それぞれがそれぞれの思惑を持っていて、放っておくとてんでばらばらに動くわけです。そんな人々の思いを守りながらも、何もかもがばらばらにならないように上手く取り計らうのが、治安維持部隊のお仕事なんじゃないかなあ、って僕は思ってます」
 決して簡単なことじゃありませんけどね、とエリックは苦笑する。そう、それもまたただの理想と言ってしまえばそれまでだ。だが……追求するのは、決して、間違いではないと思う。そうだ、間違いなんかでは、ないのだ。
 そう思った瞬間に、胸に詰まっていた言葉が、自然とこぼれ落ちていた。
「この前さ、同僚と……俺と同じ、外周出身の同僚たちと話してたんだよ。俺らのやってることって、何の意味があんのかなって」
 そうだ、塔に上ろうと決意した時には、もっと明るい感情を抱いていたはずだ。ただ家族を養うためなら、違う仕事に就いたってよかった。だが、わざわざ兵隊を志したのは、その先に何かを求めていたからではないか。
 未来への希望を。それこそ、エリックが無邪気に言ってみせたような、「わくわく」を。
「現実はそんな甘くねえってのは、わかるよ。だけど、これだけは絶対に違うんだ。違うってわかってるのに、どうにもできないままなんて……!」
 それ以上は、言葉にならなかった。
 拳を握り締めたまま、俯くヤスに対し。エリックは、数秒ほど沈思して……不意に、やたら明るい声を上げた。
「オーケイ、聞き届けました」
「は?」
 思わず顔を上げると、エリックは、いつになく凛とした目をして、ヤスをじっと見つめていた。
「それが、あなたの……あなた方の望みならば。僕は、全力でそれに応えてみせましょう」
「エリック?」
「それでは、しばしのお別れです」
 きっぱりと言い切り、全身を殴打された痛みなど、全く感じさせない動きで、跳躍した。音もなく塀の上に立った泥だらけの青年は、恭しい仕草で一礼する。
「次にお会いする時は、また別のかたちで」
 その言葉の意味を、ヤスが理解するよりも先に。
「めりー、くりすまーす!」
 わけのわからない奇声を上げながら、エリックは、塀の向こうへと飛び降りていった。その瞬間にわあっ、という歓声が上がったから、多分向こう側に避難していた子供たちの声だろう。
「わっかんねえなあ、あいつ……」
 歓声と歌声に紛れて――ヤスの呟きは、エリックには届かなかった、はずだ。
 
 
 その日を境に、エリックは姿を消した。
 廃品街跡地に赴いても、避難民たちの集落に向かっても。あの、陽気な変人の姿を見つけることはできなかった。誰に聞いても、今日は来ていないと首を振るばかり。
 それから年が明けて、数日が経過して。
 事件は、起きた。
 
 
 最初に異変に気づいたのは、ヤスだったのかもしれない。
 普段より少しばかり遅く目が覚めて、詰め所に与えられている自室から、特に意識もせず窓の外に目をやって……息を飲む。
 詰め所の入り口に、数人の男が立っていた。黒い外套は、遠目からでもわかる、塔から支給されるものだ。つまり、見知らぬ兵隊が数人。だが、その先頭に立つ男が放った声だけは、ヤスがよく知るものだった。
「おはようございます、中央隔壁治安維持部隊の皆様。朝早くからお騒がせして申し訳ありませんが、隊長のゴードン・レンブラントさんはいらっしゃいますか?」
「……エリック……?」
 朝の冷たい空気によく通る声は、聞き間違えようもなく、エリックのものだった。まさか、という思いと共に、急いで着替えて部屋を飛び出す。同じように飛び出してきた外周出身の同僚が「どういうことだ」とヤスに問う。そんなこと、聞かれたところでヤスにもわかるはずもない。
 階下では、名指しにされた隊長が「何者だ」やら「何様のつもりだ」やら、ぎゃあぎゃあと喚いている。これには、普段隊長の腰巾着をやっている貴族出身のぼんくらどもも、困った顔を見合わせるばかり。
 その間にも、エリックとよく似た男の声が、響く。
「もし質問に対する返答がいただけなければ、私たちとしても、強硬手段に出ざるを得なくなります。その許可は既に上からいただいておりますゆえ」
 上、という言葉を聞いた瞬間に、隊長のゴム鞠みたいな身体がびくんと跳ねた。そして、意を決したように、取り巻きをつれて外に出る。ヤスたちも慌ててそれに続いた。
 かくして、外周治安維持部隊の構成員たちは、詰め所の入り口に現れた兵隊たちと対峙することと相成った。
 そして……彼らを待ち受けていたのは、黒髪に長身の青年、エリック・オルグレンその人だった。
 だが――妙に仰々しい装置で目を隠し、漆黒の軍服の上に《鳥の塔》のエンブレムを刺繍した軍用外套を羽織るその姿は、ヤスの知らないものだった。
 エリックが外周の住人でない、ということは薄々感じてはいたが、まさか塔の兵隊だとは思いもしなかった。しかも……高位の兵隊に許されたピンを襟に飾るような立場だとは、到底思いも及ばない。
 集団の先頭に立つエリックは、目を隠す装置を押し上げ、朗々と言い放つ。
「『初めまして』、中央隔壁外周治安維持部隊隊長ゴードン・レンブラントさん」
 いつものエリックの話し方と何一つ変わらない、訛りのほとんどない、明るい響きの共通語。だが、そこにはいつになく剣呑な響きが混ざっている。それは……ヤスや他の外周出身の連中のように、今までエリックと接してきた人間でなければ気づけない程度の響きではあったが。
 口元だけで朗らかな笑顔を浮かべたエリックを睨み付けた隊長は、何とか肩を怒らせて虚勢を張ろうとしているが、何しろ一度暴行を加えた相手が、今度は軍服姿で現れたのだ。まともな対応ができるはずもなく、震える声を上げるばかり。
「貴様……この前会った……」
「ああ、申し遅れました。私、《鳥の塔》諜報部に所属するヒース・ガーランドと申します。後ろは、同じく諜報部に所属する者です」
「ガーランド、だと?」
 隊長の声が更に上ずり、後ろでそれを聞いていたヤスも、背筋がぞわりと泡立つのを抑えられなかった。
 ガーランド。外周でただ生きているだけならば、まず耳にしないで生涯を終えるであろう名前。そして、兵隊という形で《鳥の塔》に関われば、嫌でも耳にすることになる名前だ。
 ――フラスコの中の小人。
 この世界に適応すべく、人間の潜在能力を引き出された新たなる人類。塔上層の無菌室で生まれ、産声を上げた瞬間から「特別」を運命付けられたエリートたち。
 それが、『花冠』の名を持つ超人だ……ということを、知らない兵隊はいない。塔に逆らうもの全てを殺戮する『制圧者』、『第三の花冠』ホリィ・ガーランドの名は、今でも畏怖を持って語り継がれているのだから。
 そして、ヤスの知らない名前を持つ花冠の青年は、場違いな微笑みを浮かべて言った。
「皆様には『第四の花冠』と言った方が通りがいいですかね? 私、今までホリィみたいに表舞台に立ったことがないので、知名度がいまいちなんですよねえ」
 だが、知名度はなかったとしても、確かに四番目が存在する、ということだけは判明している。ガーランドと呼ばれる子供たちは、公式の発表を信じる限り、九人いるはずなのだから。
 エリック――諜報員ガーランドは、口をぱくぱくさせる隊長に向かって、事務的な口調で言葉を重ねていく。
「外周住民からの度重なる陳情がありまして、ここ一年ほど、外周にて治安維持部隊の職務内容を秘密裏に観測しておりました。また、特に名前が挙がっていた隊長他数名の行動を重点的に調査させていただきました」
 そこまで言って、ガーランドはにっと笑みを浮かべる。目の前で泡を食っている隊長ではなく、その後ろに立ち尽くしていた、ヤスに向けて。それを受け止めたヤスも、思わず頬を緩めて笑ってしまった。
 ああ……こいつは、本当にやってくれやがった、と。
「そして、調査の結果がこちらになります」
 ガーランドは手にした鞄から、紙束を取り出す。それが、調査結果を印字したものであることは、見なくとも明らかだった。それをわざとらしく、一枚一枚広げながら、隊長と取り巻き三人の罪状を澄んだ声で読み上げていく。
「恐喝、暴行、不正搾取、果てには強姦に殺人と。本当に、ろくな人生歩んでませんねあなた方」
「な……違う、そんなこと……っ、どこに、証拠が」
 真っ赤な顔で、言葉にならない反論を叫んだ隊長を、ガーランドはどこまでも冷たい表情で見下す。こいつに、こんな顔が出来たのかとヤスまでもがぞっとする。
「外周には外周のルールがある、と言ったでしょう? 相互監視のシステムは、内周や塔よりもずっと優秀ですよ。塔の監視カメラや盗聴器がないからって何をしてもいいとお思いで? 最も目と耳がよいのは人間だということを、肝に銘じた方がよろしいかと」
 ま、手遅れですけどね、ときっぱり告げたガーランドは、紙束と、もう一枚……塔の印が押された紙を隊長たちの前に示してみせる。それが塔への召喚状であることは、一目でわかる。
「あなた方が兵隊以前の犯罪者であることは、この通りはっきりしております。塔の上層部は、調査結果を元にあなた方を軍法会議にかけるという決定を下しました。同行いただけますね?」
 質問の形で聞かれてはいるが、これは隊長たちに決定権のあるものではない。逆らえば、その時点でガーランドたちは強制的に隊長たちを取り押さえることが可能だ。それに対し、隊長は今にも卒倒しそうなほどに顔を赤くしてヒースを睨んでいたが、やがて、同じように顔色を変えて立ち尽くしていた己が部下に指示を飛ばす。
「ええい、何ぼうっとしている! このままでは、私もお前らも破滅だ! 行け! 行くんだよ!」
 その声に操られるように、己が罪を明かされた腰巾着三人が警棒を引き抜き、ガーランドに向かって殺到する。
 これには、流石にガーランドの後ろに控えていた、同僚と思しき兵隊も動揺したのか、鋭く声を上げる。
「ヒース」
「構いません」
 冷たく言ったガーランドは、ふと、唇だけで微笑んだ。目こそ謎の装置に覆われているが、その顔は、驚くほどに整っていた。
「彼らの実力は把握済みゆえ。私一人で十分です」
 仲間を下がらせ、流れるような動きで引き抜いたのは飛び出し式の警棒だ。飛び掛ってくる兵隊たちや、ヤスが持たされているものと、何一つ変わらないように見える。実際、何一つ変わらないのだろう。武器そのものは。
 だが、踏み込んでくる一人目の手首をすれ違いざまに打って武器を落とさせ、そのまま振り向いた勢いで肘を鳩尾に叩き込むことで、一息もつかせずに継戦能力を奪い去る。
 背面を見せたことでもう一人が脳天目掛けて警棒を振り下ろすのを、そちらを見もせずに回し蹴りで吹き飛ばす。
 三人目もそのまま打ちかかっていくかと思われたが、そこまでの馬鹿でもなかったらしい。二人が一瞬で地に伏したのを見て、一度は手にした警棒を落として膝をつき、降伏した。
 さすがは人を超えた人、といったところか。それは、ヤスの目から見る限りまともな動きではなかった。
 ヤスをはじめ、外周出身の隊員は、そんなガーランドの動きをただ呆然と見つめていることしかできなかった。しかし、不意にかちりという不吉な音が響いて、ヤスの意識はそちらに持っていかれる。
 今までただ喚いていただけの隊長が、いつの間にか、腰から抜いた拳銃をガーランドの頭に向けていたのだ。流石に、その動きはガーランドも気づいていないのか、己が倒した相手に視線を向けたままで。
「……っ、させるかあっ!」
 今度こそ、ヤスを止める者はいなかった。隊長の目は完全にガーランドに奪われていたからだろう、その声を聞いても、即座に反応はできなかった。
 だから。
 積年の恨みを篭めて、握り締めた拳を振り抜く。
 隊長は、ぶよぶよした頬を殴り飛ばされて、地面に伏す。短い指からこぼれ落ちた拳銃を、しっかりと同僚が確保したのを視界の片隅で確認する。持つべきものはいい仲間だ。
 地に伏せたままの隊長は、顔を押さえてヤスを睨む。
「きっ、貴様っ、上官に何をっ」
「上官? 犯罪者の間違いだろ。俺たち治安維持部隊の役割は、外周住民の安全を乱す輩を取り締まること……だよなあ、お前ら?」
 ヤスが仲間たちを見れば、それはそうだ、という風に全員が頷き、積年の恨みを篭めた視線で隊長を見下ろす。今にも、飛び出しかねない空気が流れるが、その前に、確かめなければならないことが一つ。
「おい、エリック!」
「はい?」
 顔を上げたガーランドは、不敵に笑っていた。既に、ヤスが何を言おうとしているかは、伝わっていたのだろう。
「見逃してくれるな?」
「そうですね、ヒース・ガーランドによる調査任務は、既に終わっておりますので。この場で起きることに関しては何一つ上に報告しないとお約束しましょう」
 言って、人差し指を唇の前に立てる。ガーランドが引き連れていた諜報員たちは呆れた顔をしていたが、しかしガーランドの決定に異議を唱える者もいなかった。
「そうこなくっちゃ、なあ!」
 ヤスは、いつになく晴れやかな気分で、笑った。
 一体、どこからどこまでが諜報員ヒース・ガーランドの「仕事」であったかは、ヤスにはわからない。ヤスは、廃品街に現れた浮浪者としてのエリック・オルグレンの姿しか知らないから。
 だが、最低でも、エリックのあり方は何一つ、演技などではなかった。それが、今の言葉ではっきりした。
 共犯者の表情で、諜報員と外周治安維持部隊の面々は頷き合って……そこから先は、もはや、誰の目にも見えきったシナリオだった。
 結局、二度と戻ってくることはないであろう隊長と腰巾着が、諜報員たちの手によって引きずられていったのは、隊員たちの気が済むまで蛸殴りにされた後のことだった。
「はは、ちょーっとやりすぎですかねえ」
 唯一、その場に残ったヒース・ガーランドだけが、引きずられていく隊長たちを眺めて、愉快そうに笑っていた。隊長たちを追い詰めた瞬間に見せた冷たい仮面は既に剥がれ、ヤスのよく知っている笑い方で。
 隊員たちも一緒になって笑っていたが、ヤスだけは、胸に何か引っかかるものを感じて、途中で笑うのをやめた。そして、目を隠したガーランドの横顔を見やる。
「お前……本当は、すごい奴だったんだな」
「あっはは、そうは見えないでしょう? 僕も、柄じゃないって思ってるんですよ」
「その、お前が、どうして……俺の言葉なんて、聞き届けてくれたんだ」
 あの時、エリックは確かに言っていた。
『それが、あなたの……あなた方の望みならば。僕は、全力でそれに応えましょう』
 そして、その言葉を違えることなく、とびきりの不意打ちで果たしてみせた。だからこそ、不思議なのだ。本来、外周の人間なんかに目をかけるはずもない雲上人たるガーランドが、ここまでヤスや外周の住民を案じていたことが。
 すると、ガーランドは顔を上げた。相変わらず視線は装置の下で、どこを見ているのかは判じがたかったが、道の先に広がる外周の町並みを見ていたのかもしれない。
「僕、この町が好きなんです」
 町、というのは裾の町のことであり……それ以上に、ここ、外周を示しているのだということは、何となくヤスにもわかった。
「無菌室に篭ってるだけじゃ、絶対にわからない……『精一杯生きていく』ってこと。それを、教えてもらった場所ですから。そんな、この町を生きる人たちの人生を、己の権力や立場を振りかざして侮辱する輩が許せなかった。それだけです」
 己の立場を振りかざしたのは、自分も同じですけどね、と。つくられた青年は力なく笑った。
「僕は、ガーランドとしては半端者でして。この名を恨めしく思ったことも、一度や二度じゃありません。でも今回ばかりは、ガーランドでよかったと、心から思いました」
 その、気弱な笑顔の中に、柔らかな光が宿る。それは、あの時「わくわく」をヤスに語った時と同じ、子供のような無邪気さを残した表情だった。
「守りたいもののためだから、でしょうね。何だって利用しようって気分になれたんです。僕の名前も、身体も、与えられた立場も全て」
「……そう、か」
 ガーランドの思いは、ヤスにはわからない。そういう立場に置かれたこともないのだ、ガーランドが今までどれだけ己が立場に悩まされたのかなんて、わかるはずもない。
 ただ、今、この瞬間に、ガーランドが晴れ晴れとした表情を浮かべているならば、それでいいのだろうと思うことにする。
 そんな中、同僚の一人が手を挙げて、問いを投げかけた。
「でも、隊長引っ張られちゃったけど、これからうち、どうなるんだ?」
 その言葉に、全員が固まった。
 基本的に、治安維持部隊隊長は、閑職とはいえ「隊長」の名を冠されるだけはあり、軍の中でもそれなりの階級が必要になる役職だ。ここで隊長が捕まったからと言って、次の隊長がまともな奴であるとも限らないわけで……。
 その点については、何か話を聞かされているのだろうか、と塔の代理人たるガーランドを恐る恐る見やると、ガーランドは思い出したようにぽんと手を打った。
「そうそう、上に判断を仰いだところ、ひとまず私、ヒース・ガーランドがしばらくこの隊を率いてみてはどうだ、と言われまして」
『はあ?』
 疑問符を唱和させる隊員たちに対し、もちろん証拠もありますよ、と綺麗に折りたたまれた紙を取り出し、開いてみせる。確かに、塔の印が入った辞令には、確かにヒース・ガーランドを本日付で中央隔壁外周治安維持部隊隊長に任ずる旨が書かれていた。が。
「お前さあ、これ、かなーり無理言ったんじゃねえ?」
「ふふっ、『無理が通れば道理が引っ込む』っていい言葉ですよね」
「多分ちょっと意味違うぞ、それ」
 とにかく、相当な無理を通したんだな、とヤスは呆れ顔を浮かべる。
 この町が好き、と豪語するこの変わり者のエリートは、かわいい顔と丁寧な言葉遣いに似合わず、相当押しの強い野郎なのかもしれない。
 かくして、黒い外套を揺らし、隊員たちに向き直ったガーランドは、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、ぺこりと頭を下げた。
「そんなわけで……これからよろしくお願いしますね、皆さん」
 正直に言えば、この男について判明していることは、ガーランドの名を持つ超人の一人であり、そしてその肩書きに似合わぬ愉快な思想の持ち主ということだけだ。果たしてこれで、治安維持部隊が変わっていけるのかは、今のところ何一つわからない。
 わからない、けれど。
 ヤスは、敬礼のポーズを取る。今日この時より己の上司となる、若き隊長に向けて。
 
「よろしく、ガーランド隊長」
 
 きっと、明日は昨日よりは、ずっとマシな日になる。
 そんな気はしていた。