SD0361-Rからの手紙
その手紙は、『ホリィへ』という、多少癖はあるけれど読みやすい、丸みを帯びた文字で始まっていた。
ホリィ。それは、環境適応班が造り上げた人造人間の第三番に与えられた通称だったはずだ。『制圧者』ホリィ・ガーランド……塔へ反抗する者をことごとく打 ち倒してきた修羅の噂は、この塔だけでなく、外周の荒事屋にまで届いていると聞く。ただ、かの『制圧者』がまだ表情に幼さを残す、若干十四歳の少年である という事実は、意外と知られていない、はずだ。
つまり、これはある少女から、ある少年に向けたごく個人的な手紙だった。
見てはいけないものを覗き見る罪悪感と背徳感、そしてそれらに勝る好奇心を持って、ゆっくりと、独特な筆致で綴られる文章を追い始める。
『こんにちは、お久しぶりだね。
ホリィにお手紙を出すのは初めてかな。字、汚くてごめんなさい。綴りもいくつか間違ってるかもしれないけど、最後まで読んでくれると嬉しいな。
どうして手紙なんか、ってホリィは思うかもしれないね。でも、どうしてもホリィに伝えたいことがあって、お手紙を書いてみたの。わたしの担当の研究員さん は、最初はお手紙を書くのもダメって言ってたけど、一生懸命お願いしたら、一回だけならいいよって言ってくれたんだ。研究員さんには悪いことをしちゃった かな、って思うけど。でも、折角いいって言ってもらえたから、書きたいこと、全部詰めこんでおきたいと思うよ。
でも、いざ書こうって思うと、何から書いていいかわからなくなっちゃうな。
えっと、ホリィは、元気にしてるかな。また、危ないお仕事をしてたりするのかな。ホリィは兵隊さんだから、危険なことがお仕事なのかもしれないけど、わたしはいつも、ホリィのことを心配してるの。
ホリィはきっと「大丈夫」とか「仕事だから」って言うんだろうけど、無理だけはしないでほしいよ。ホリィに何かがあったら、わたしはきっと、とても悲しくなっちゃうから。
お返事が聞けたらよいのだけど、返事をもらうのは難しい、って研究員さんに言われちゃったから、わたしがこう思ってる、ってことだけホリィに伝わればいいなって思うことにするよ。それ以上のことは望まない。望まないよ。
わたしのこと、聞いてくれるかな。
わたしは今、塔の高いところにいるみたい。塔のどの辺りなのかはわからないけど、すごく綺麗な研究区画。もしかしたら、ホリィも知ってるのかな。ホリィも、色々と実験を受けたって言ってたもんね。
そうだ、実験。実験は少し苦しいね。ホリィの言ったとおりだった。でも、思ったほど怖くなくて、安心もしたの。研究員さんはみんな優しくしてくれるし、研究員さんの中に、お友達になってくれる子がいたの。
その子は、わたしよりも小さな女の子。ニコラっていうの、ホリィは知ってるかな? ニコラ・アトリー。ふわふわの金髪に、橄欖石みたいな、透き通った緑色 の瞳をしてるの。とってもかわいくて、お人形さんみたいな子だよ。ホリィに教えてあげたおとぎ話、今はニコラに教えてあげてるんだ。ホリィは、覚えててく れてるかな。竜巻に飛ばされて、魔法の国に辿り着いたドロシーのお話。どんなお願いでも叶えてくれるっていう、大魔法使いで大ペテン師のオズのお話。
そうそう、わたしのお願いも、わがままみたいなものばかりなのに、みんな、きちんと叶えてくれるんだね。実験のない日は、担当の研究員さんが読みたい本を 何でも持ってきてくれるし、孤児院にも、きちんとお金と手紙を届けてくれてるみたい。みんなのお返事をもらうのがいつも楽しみなんだ。
そういえば、孤児院からのお返事はちゃんと届けてくれるのに、ホリィからお返事をもらうのは難しいって、どういうことだろう? ホリィはいつもお仕事で忙 しいみたいだから、お返事を書く暇をつくるのが難しいってことだったのかな。もしそうだったら、ごめんなさいだね。こんな長いお手紙、読んでもらうだけで も大変だったりするのかもしれない。
うん、長々と書いてたらきっとホリィも困っちゃうだろうし、本当に書きたかったこと、書くね。
わたし、ホリィとジェイに、一番大切なことが言えてなかったって、ずっと、ずっと、それだけが心残りだったの。塔まで連れて来てくれたお礼は言ったかもしれないけど、どうしても、もう一つだけ言いたいことがあって。
でも、その時には、言ってはいけないことだって、思っちゃったの。
ホリィとジェイは、とっても危ない思いをして、わたしとここまで運んできてくれた。あの頃のことは、とってもよく覚えてる。初めてホリィたちと出会った日 のこと、ホリィと一緒にプラネタリウムを見たこと、二人の怖いお兄さんのこと、子供たちのヒーローになろうとしてた博士のこと、不思議な旅人さんたちのこ と、第十七隔壁のこと……何もかも、何もかも、わたしの大切な思い出だもん、忘れることなんてできないよ。
ホリィは、わたしに、色々なことを教えてもらったって言ってたね。だけど、それはわたしも一緒。ホリィがいなかったら、わたしはきっと、辺境以外の景色を 知らないままだった。この世界が、物語の中みたいに鮮やかなんだって、知らないままだった。
ホリィが色んなものを見せてくれて、ここまで連れて来てくれたから、わたしはここで一生懸命自分にできることをやって、大切な人に、恩返しをしていける。 ホリィたちがやってきたことが、無駄じゃなかったって証明できる。それが嬉しかったのも、本当に本当だよ。
だからこそ。
ホリィとお別れするとき。
まず最初に湧き上がってきた気持ちが、言えなかったんだ。
今も本当は言っちゃいけないって思ってる。でも、知っておいてほしいって気持ちの方が大きくなっちゃったから、ここで言うね。
わたしね、すごく嬉しかったんだ。ホリィが、引き止めてくれたこと。一緒にいたいって言って、手を握ってくれたこと。ホリィの手、すごくあったかくて、それだけでぎゅっと胸が締め付けられて、涙が出そうになったの。
でも、ここで泣いたら負けだと思ったの。ホリィの手を取ったままじゃダメだって思ったの。自分がここに来た理由、ホリィたちがここまで連れて来た理由。そういう大事なものを、全部全部、否定しちゃうって思ったから。
だから、笑ってお別れしたけど、本当は寂しかった。今も寂しい。
寂しい。寂しいの。
同じ塔の中にいるのに、顔も見られないなんて寂しいよ。独りきりってわけじゃないのに、それでもどうしてもホリィのことを思い出しちゃうの。ホリィと一緒にいたときのこと、思い出しちゃうの。そうすると、胸の奥の奥がきゅうってなるの。
寂しいよ。
この手紙を読んでくれるだけでいい、それ以上は望まないなんて書いたけど、嘘だ。わたし、ホリィのお返事が欲しい。お手紙なんかじゃない、ホリィの声が聞 きたい。ホリィの顔が見たい。ホリィの手を、もう一度握りたいよ。ここから連れ出して欲しいわけじゃない、ただ、望むならもう一度だけでいいから、ホリィ に会いたい。会いたいの。
それで、ホリィに、名前を呼んでもらいたい。わたしの名前を。
『SD0361-R』じゃなくて、あの頃、ホリィが呼んでくれたのと同じように。
それだけ、それだけなのに。どうして叶わないんだろうって、思っちゃうの。
――ごめんなさい。何だか、変なことばかり書いちゃった。
ホリィの迷惑になってないかな、それだけが心配。わがままな子って思われちゃったかな、それとも今更だったりするのかな。わたし、あの旅でもとってもわがままだったもんね。
大丈夫だよ、わたし、ここに来て後悔はしてないもの。これからも、楽しく毎日を過ごせると思う。そこにホリィがいてくれたらもっと嬉しいなって、本当に、それだけのお話。
それじゃあ、お手紙はこの辺で。ジェイと一緒に、お仕事頑張ってね。
最後まで読んでくれてありがとう。
大好きだよ、ホリィ』
手紙の末尾に書かれていたのは、特殊な綴り――共通語のそれとは異なる、おそらく旧日本語――の名前だった。
現在は『SD0361-R』と呼ばれている実験体の少女は、今日も白い壁の向こうで、過酷な実験を課せられているはずだ。彼女は手紙の中で『少し』と書いていたけれど、私の目から見る限り、あれはまともな人間が耐えられるようなものではない。
それでも、彼女は今日も、旧い時代のミュージカル・ナンバーを口ずさみながら、遠い遠い、本に描かれたおとぎ話の世界に思いを馳せているに違いない。人懐こい笑顔すら浮かべながら。
その笑顔の奥に秘めたものは、誰にも見せないまま。
もう一度。手紙に視線を落とし、それから一つの決意を篭めて、手紙を監視カメラに捉えられないように気をつけながら、ポケットの中に落とす。その代わり、 丁度よく机の上にあった、他の処分すべき手紙をシュレッダーにかけるところだけは、まざまざとカメラに見せ付けてやる。
その瞬間に扉が開き、同僚が顔を出した。
「手紙の検閲、終わったか?」
「ああ。結局渡せるようなものじゃなかったから、処分していたところだ」
「そうか。まあ、そもそもあんな危険な連中の間で手紙のやり取りなんて、許可できるはずもないからな」
そう、本来ならばこの手紙は即座に破棄すべきものだ。手紙を渡すというのは、力を持つ子供……《種子》である彼女を安心させるための方便に過ぎない。一騎 当千の力を持つガーランドの子供と、奇跡に等しい力を操るという《種子》の間を取り持つなど、本来はあってはならないことなのだ。この研究所に押し込まれ るまでの間に、どのような関係を結んでいたとしても。
どうせ二度と会うことはないのだ、どうとでも誤魔化せるだろう。それが上の判断だった。
だが――。
「そうだな」
そう応えながらも、このポケットの中には確かに手紙がある。ただの少女からただの少年に向けた、拙くも心の篭った手紙が。
さあ、この手紙をどう、ガーランドの第三番に渡してくれようか。
そんな算段を立てるのは、いつになく愉快なことだった。