イリス
――ずっと、ここにいてね、イリス。
ゆるり、伸ばされた細い腕が、このかりそめの身体を抱きしめる。
その温もりを、今も、忘れられずにいる。
* * *
闇の中に溶け出していた自我がゆるゆると収束する。
目を覚ませ、という声なき声に従い、一つ、また一つ、元の形に組み立てられていくのを感じる。過去、積み重ねてきた記憶を一つずつ確かめながら、私は「私」を取り戻していく。
やがて、眠りの闇の中から全てを取り戻したのを確かめて――私は、目を開く。
その瞬間に目に入ったのは、小さな部屋の壁と天井一面に張り巡らされた、目が大きすぎる女の絵。そのどれもが目に眩しい極彩色の髪と目を持ち、扇情的な仕草と服装、表情でこちらを見下ろしている。少し視線を下ろすと、硝子の箱に入った、人の姿をそのまま小さくしたような人形が、やはり艶めかしい肢体をくねらせ、巨大な瞳でこちらをじっと見つめている。
何だ、ここは。
唖然としていると、扉の開く音と共に、鋭い声が聞こえた。
「そこに、誰かいるのです?」
はっとしてそちらを振り向くと、そこにいたのは――奇妙な眼鏡をかけ、統治機関《鳥の塔》の軍服を纏った長身痩躯の青年だった。青年は、明らかな警戒を整った面に張り付かせていたが、私の顔を見た瞬間に、警戒の表情は絶望に変わった。
「あ、え、ああああっ」
「……どうした」
青年は、じり、と一歩下がり、ほとんど泣きそうな顔で両手をぶんぶん振る。
「み、見ないで! こんな、こんなもの、見知らぬおねーさんに見られたと思ったら僕、もうお婿に行けない!」
「こんなもの? この、絵と人形のことか? よくできているとは思うが、目が大きすぎるな」
「みなまで言うなっ! ど、どなたかわからないけど、早くここから出て……」
言いかけたところで、どたどたと足音を立てて、同じく軍服の男が部屋を覗き込んできた。わあわあ喚いている青年よりもいくらか年上に見えたが、意外にも騒ぐ青年に向かって「隊長」と呼びかけた。
「隊長、どうしたんすか?」
「うわああん、ヤスううう、知らないおねーさんが僕の部屋にいるんだあああ」
「はっはっは、ガーランド隊長に限ってそんなことはありえな……いるー!」
……これは、どうすればいいのだろう。
我を忘れて騒ぎ続ける眼鏡の青年と、そんな青年を何とかなだめようと試みる推定部下。そんな二人を途方に暮れて眺めていると、推定部下の男が初めてこちらをまともに見て、言った。
「あーっと、綺麗なお嬢さん、俺らこう見えて軍のお巡りなんだけど、ちょっとお話を聞かせてもらっていいかな」
お巡り、が治安を守ることを職務にする人間であることは、過去の知識から判断できる。つまり、話を聞く、というのは人間社会で言うところの「取調べ」というやつだろう。
正直に言えば、人間の法を前にして、私の存在とここにいた理由をきちんと説明できるかどうかは怪しかったが――。
「……ああ。私も、落ち着いて、話がしたいと思っていたところだ」
まずは、今のこの状況を収拾できさえすればいい。そう思うことにした。
* * *
「先ほどは、見苦しいものをお見せして申し訳ありません。どうか、あの部屋のことは忘れてください。お願いします」
「……あ、ああ」
取調べをするための場所に移動し――どうやらこの建物そのものが、治安維持に関係するある種の施設らしい――必要ないと言う私の言葉を華麗に無視して茶と茶菓子を用意した青年は、私の正面に座って細長い指を組んだ。先ほどのうろたえようが嘘のような、落ち着き払った態度。
だが、背後に控える部下が、今にも吹き出しそうな顔をしているのは見逃さなかった。
「さて、あなたのことをお尋ねする前に、まずは自己紹介を。私はヒース・ガーランドと申します。ヒースがファースト・ネームですが、ファミリー・ネームで呼んでいただければと思います」
「……ガーランド」
花冠、を意味する言葉だ。ヒース、という名前もある種の花を示す。
花。この世界から失われて久しいもの。私の長すぎる記憶の片隅に揺れる、鮮やかなもの。
「はい、ガーランドです。で、こちらが部下のヤス。我々は中央隔壁外周治安維持部隊といいまして、不肖ながら私が隊長を勤めさせていただいておりますが……ご存知ない、でしょうか」
「外周治安維持部隊の存在は知っていたが、実際にお目にかかるのは始めてだな」
「なるほど。では、これよりお見知りおきを」
青年改めガーランドは、どこまでも人懐こそうな笑みを浮かべている。本当に、さっき見たあれは何だったのだろう、と思うほどに。ただ、よくわからない形をした眼鏡で目元が覆われているから、本当に笑っているのかどうかはわからなかったが。
「さて、あなたについてお伺いしてもよろしいでしょうか。あなたは何者なのか、何故、鍵のかかっていたはずの、私の自室にいたのか」
それは、聞かれてしかるべき問いだ。
にわかに信じてもらえるとは思えなかったが、それでも、聞かれたからには正しく答える義務がある。私は腕を組み、己の定義を言葉にする。
「私は、指輪の精霊だ」
「……せ、精霊?」
当然ながら、ガーランドは突拍子の無い声を上げた。背後のヤスも、呆れた顔を浮かべている。私と初めて出会った人間は、誰もがこういう表情をするものだ。
「どうして、隊長に関わる女の子って、いつもことごとく斜め上なんすかね……」
「ヤスは黙っててください」
ガーランドは、部下の呟きを一言で退け、私の顔を真っ直ぐに見つめてくる。と言っても、やはりその視線は濃い色のついた眼鏡のレンズに遮られて、こちらから見通すことはできなかったけれど。
それ以上何も言わなかったからには、私の言葉を待っているのだろう。私は、軽く咳払いをして、言葉を続ける。
「貴殿は、指輪を持っているはずだ」
「ああ――これ、ですか? この前、拾ったものですが」
ガーランドは、戸惑いつつも、胸ポケットから指輪を取り出す。
間違いない。白金に、虹色のきらめきを宿した石がはめ込まれた指輪。最初の主が、「私」という自我を創り、強大な力と共に埋め込んだ指輪。
「そう、それが私のよりしろだ。私は、それを持つ者の願いを一つだけ、叶える義務とその能力を持つ。故に、私は今の所持者である貴殿の部屋に導かれた。そういうことだ」
ガーランドはかくりと首を傾げる。さっぱりわかっていない、という顔だ。もちろん、こんな説明で納得してくれる所持者など、今まで一人もいなかった。まずは一度、私の力を見せてやるべきだろうか、と思いかけたところでガーランドが口を開いた。
「ええと……千夜一夜物語に登場する、指輪やランプの魔人のようなものでしょうか」
この反応は、正直に言えば、意外だった。
千夜一夜物語。随分旧い書物を知っているものだ。世界が崩壊して後、旧時代の知識を持つ人間は一握りになってしまったというのに。けれど、それを知っているというならば、説明は格段に楽になる。
「そう考えてもらって結構だ。もっとも、あれほど絶対的な力を振るえるわけではないが、できうる限り、貴殿の望みを聞き届けよう」
「と、突然言われても、困っちゃいますねえ……」
どうしましょう、とガーランドはヤスを見上げ、ヤスも「俺に聞かないでください」と肩を竦める。ヤスの顔には半信半疑どころか完全に私の言葉を疑っている、という表情がありありと表れていたが、不思議なことに、ガーランドには、私の言葉を疑っている様子がほとんど見えない。
まあ、信じてもらえようともらえなかろうと、私には関係ない。私は私が生み出した最初の主の命令に従うだけ。私、という存在の定義に従うだけなのだ。
「とにかく、貴殿が望みを見つけるまで、私はここにいることになる。所有者の望みを叶えない限り、次の所有者のもとに渡ることもできないと定められているからな」
「え、えええええっ!? そ、そんなっ」
「……何か、問題があるだろうか」
「う、うち、ほら男所帯ですし! あなたのような麗しい女性が、色々と、こう」
「心配は無用だ。私は食事も睡眠も必要はないし、貴殿が望めば、姿を消すこともできる。何も問題は無いだろう。そう、貴殿の部屋の片隅を貸してくれればそれでいい」
「それだけは やめて ください」
それだけは、ダメなのか。この青年の考えることは、よくわからない。
「それが嫌なのであれば、貴殿の望みを言えばいい。そうすることで、私は再度の眠りにつき、貴殿は指輪を手放すことができる」
うー、とガーランドは頭を抱えてしばし悩んでいたが、やがて顔を上げて言った。
「すみません、すぐには思いつきそうにありません……」
「そうか。ならば、しばし貴殿につき従おう」
どうしよう、と助けを求めるようにガーランドはヤスを見るが、ヤスは肩を竦めるだけ。この二人は、本当に上司と部下という関係性なのだろうか。見ていてもさっぱりわからない。
ガーランドはおろおろと他に助けを求めようとしていたようだったが、他の隊員たちの姿は視界の中には見えない。おそらく、見回りに出払っているのだろう。ここ中央隔壁……通称『裾の町』の外周は、《鳥の塔》の直接的な管理の外にある。故に、彼ら治安維持部隊が必要とされる事件も多いのだろう。
そう、以前の主が巻き込まれた、事件のような――。
「そうだ、あなたのお名前を、まだ聞いていませんでした」
一瞬、過去の記憶に絡め取られそうになった私の意識を、ガーランドの声が引き上げた。私は軽く瞬きをして、新たな所有者が現れた時に必ず言うことになる台詞を放つ。
「名前は、いつも所持者が決めるものだ。好きに呼べ」
「こ、困りましたね……私、ネーミングセンス皆無なんですよ。あ、それじゃあ」
ぽん、と手を打って、ガーランドはとびきりの笑顔と共に問うてきた。
「以前の持ち主には、どう呼ばれていたのです?」
刹那、頭の中に響く、懐かしい声。
身体を抱きしめる、腕の温かさ。
胸の中にこみ上げてくる熱い感情を押し殺して、その名前を、言葉にする。
「イリス」
――君、虹みたいな瞳をしてるんだね。
「イリス、と、呼ばれていた」
「素敵な名前です。虹の女神の名前でしたよね。それでは、私もイリスと呼ばせていただきましょう。よろしく、イリス」
イリス。その声の優しさが、どうしても、かつての主と重なって聞こえて。私は、そっと胸を押さえた。新たな主には、気づかれないように。
* * *
「イリス」
「イリス?」
「君の名前だよ。君の瞳の色から取ったんだ、気に入ってくれるといいけど」
私が小さく頷くと、主はにっこりと笑った。その笑みに、本来人並みの心を持っていないはずの私の胸にも、ほのかに輝く何かが宿る。
「それでね、僕の望みだけど……」
そっと、細い指先でこの手を包む。血の通わない、温かくもないはずの私の手を、いとおしそうに撫でて。主は囁くように、言ったのだ。
「ずっと、僕のそばにいて。本当に、それだけでいいんだ」
――そんなやり取りを、思い出す。
かつての主との、記憶。
もう、その望みは叶ったのだから、思い出す理由もないというのに。
叶った?
あれは、叶ったと言っていいのだろうか。私にはわからない。ただ、主の望みがもはや自分を縛ってはいないということだけは、確かだった。それは理解を超えた、精霊としての本能なのだと思う。
だから、今は新たな主とその望みにこの身を捧げるべきだ。そんな内側からの声を聞きながら、目を開く。すると、ちょうどガーランドが自室から顔を出したところだった。目は相変わらず奇妙な眼鏡で覆われていて表情が判じづらかったが、大きく口を開けて欠伸をした後、私が見ていたことに気づいたのか、慌てて笑みを浮かべてみせる。
「ふあ……っとと、おはようございます、イリス」
「あ、ああ、おはよう、ガーランド」
「どうしました、浮かない顔をしているようですが」
「いや、何でもない。貴殿は随分眠そうだな。きちんと眠れていないのか」
「あー、い、いえ、その……何というかー……ええと、あなたのような美しい女性と一つ屋根の下、って考えるだけで、ですねえ……」
耳まで赤くして、もごもごと、ほとんど聞き取れないような声でガーランドは言うが、言いたいことはわからないでもない。今までの経験を通して、男というものは得てして似たような反応を示すものだったから。
「つまり、劣情と倫理感の狭間で夜通し葛藤を繰り広げていた、ということだろうか」
「そ、そうはっきり言わないでいただきたいですねえ……」
「貴殿が望めば夜の相手くらいはするが。そのくらいは望みのうちにも入らんぞ」
「やめてください!」
突然飛び出した激しい拒絶の言葉に、ぎょっとして身を引くと、ガーランドは口を抑えて視線を斜め横に落とした。そして、再び聞き取りづらい喋り方に戻って言った。
「……す、すみません。しかし、そのようなことは、みだりに口に出すものではありませんよ」
「そうか。悪かった」
どうも、私の言動で不愉快な思いをさせてしまったようだ。この新たな主の思考は、まだ読めない。ガーランドはしばし沈黙してこちらの様子を窺っていたようだが、瞬きの間に、表情を明るいものに切り替えて言った。
「それより、朝食はいかがですか? 食事は必要ないということでしたが、食べられない、というわけではありませんよね」
「ああ。必要ないだけで、可能ではある」
「よかった。昨日はばたばたしてしまって、うちの隊員にあなたを紹介できませんでしたから。折角ですから、食事の場で皆さんに紹介しようかな、と思いまして……ってうおおおおい!?」
突然叫びだしたガーランドに驚いて振り向くと、いつの間にか、廊下の辺りに黒い軍服の男たちが積み重なってこちらの様子を窺っていた。ぼそぼそと呟く声が、こちらまで漏れ聞こえてくる。
「隊長が女を連れて来たって、ヤスの法螺じゃなかったんか……」
「すっげえ美人じゃねえか。隊長のくせに」
「まあ、隊長も見た目だけは美形だからな。残念だけど」
「はあはあ、つやつや黒髪はあはあ」
「お前それ、ガーランド隊長が来た時にも言ってたよな」
「ちょっとそこ、聞き捨てならないですよ。男はノーサンキューだっていつも言ってるじゃないですか」
ガーランドはほとんど蒼白になって部下に向き直る。部下たちはにやにやと笑いながら囃し立てる。そのたびにガーランドが何かを言い返すが、さっぱり聞き届けてはもらえない。とはいえ、ガーランドも本気で憤っているわけではなく……これが、彼らの「普段どおり」のやり取りなのだというのは、その口元に浮かんだ笑みから察する。
この賑やかさは、新鮮だ。今までも、人を従えていた主はいた。けれど、他愛のない、じゃれあいのような言葉を交わせる仲間に囲まれた主を持った記憶がない。騒々しい、けれど、決して不快ではない騒がしさに囲まれて。
ふと、いつも一人だった、かつての主の小さな背中を思い出していた。
* * *
――かつて、世界は滅びた。
それは、子供だって知っている話だ。所有者の手に渡り、願いを叶えるまでの間しか自我を保つことのできない私ですら、その事実は事実として把握している。
世界が滅びた後、かろうじて生き延びた人類は、統治機関《鳥の塔》を中心に、枯れた大地の上で生きる術を模索している。過酷な気候と外敵を阻む、背の高い隔壁に囲まれたこの街は、その一つの形といえよう。
だが、《鳥の塔》の足元に広がる中央隔壁……裾の町は、決して理想の世界とは言いがたいものだった。塔の真下、「内周」と呼ばれる区画は崩壊以前と何ら変わらぬ暮らしを送る者たちで賑わっているが、それが外側の隔壁に近づくにつれ、荒廃の様相を呈してくる。光あるところには闇もある、その、誰もが眼を背ける闇の部分がこの「外周」地区であったといえた。
それ故に、外周治安維持部隊隊長ガーランドの仕事は、多忙を極めていた。
のんびりと、形だけの「取調べ」なんぞを行ってみせたものだから、それこそ普段の仕事も形だけだと思われたが――ガーランドとその部下たちは、詰め所で暇を持て余す私の存在も忘れてしまったかのように、外周のあちこちを飛び回る。
今日も、ガーランドは眼下に広がる蜘蛛の巣のような道を、通信機で部下に指示を飛ばしながら駆ける。街中の通信機関は発達しているのだから己で出向くこともないだろうに、若き隊長は必ず己の足で事件の現場に赴く。
ここ一週間見ていてわかったことだが、ガーランドは見かけによらず優秀な指揮官だった。普段はどこか頼りなげな態度を取るが、いざ任務に赴けばその印象は一変する。表面上の穏やかな物腰はそのままに、しかしどこまでも冷徹な狩人と化す。ガーランド自身が直接手を下すのではなく、部下と連携することによって、じわじわと獲物を追い詰めるのだ。
見下ろせば、まさしく今、治安維持部隊の隊員たちが、数人の男たちに手錠をかけるところだった。詳しい罪状はわからないが、男たちが凶器である銃を取り落としたところは、見えた。
ガーランドはそんな部下と男たちを、奇怪な眼鏡の下からじっと見据えていたようだったが――不意に、空を……否、私が腰掛ける建物の屋根を見上げた。
「イリス、そんなところで何をしているのです? 危ないですよ」
灰色の世界に響く、柔らかな声。穏やかな、どこまでも穏やかな表情で、ガーランドは微笑んでみせる。その表情を見るたびに、胸のどこかが微かに軋む。
それを隠すように、脚を大きく揺らして、眼下のガーランドにも届くように声を張る。
「問題ない。私には本来、肉体などないのだから」
「それでも……私が不安なのですよ、イリス」
――僕が不安になるんだよ、イリス。
同じようにこちらを見上げていた、小さな影を思い出して。私は軽く首を振って、建物から飛び降りた。ガーランドの「あっ」という声が聞こえた気もしたが、その時には、私の身体も意識も、遠くへと運ばれた後だった。
――まだ、ガーランドの望みは、わからないままだ。
* * *
「……ガーランド隊長の望み?」
ガーランドによりしろを拾われてから、二週間。
何だかんだと望みを先延ばしにされた挙句の、二週間。
ガーランドはどこまでも曖昧な態度を崩さないため、とりあえず、ガーランドをよく知るはずの部下たちに話を聞いてみることにした。
「彼女が欲しい、じゃねえの?」
「でも隊長のことだから、今はもう、あの状態で満足しちまってるんじゃねえのか」
「ああ……まあ、嫁には事欠かないっすからねえ、あの人」
嫁……嫁?
「ガーランドは結婚しているのか」
「違う違う」
けたけたと、部下の一人が笑う。
「イリスちゃん、あいつの部屋見たでしょ? あそこにいたのが、全部あいつの嫁」
ガーランドの部屋。実のことを言えば、初めて訪れて以来一度も足を踏み入れてはいない。姿を消して忍び込むことはわけないが、ガーランドが泣いて嫌がったのだから仕方ない。
ただ、異様な部屋だったことは鮮明に覚えている。やけに目の大きな女たちの絵や人形が、所狭しと並んでいたはずだ。
あれが、ガーランドの嫁?
「……現実に存在し得ない見た目をしていたが」
「あっはっは、相変わらず面白いな、イリスちゃんは」
部下たちは声をそろえて笑う。そんなに、私は奇妙なことを言っていただろうか。首を捻っていると、ガーランドの第一の部下であるヤスが、溜め息混じりに言う。
「あの人、昔っから現実の女の子より、漫画とかゲームの中に出てくる、架空の女の子にしか興味ないから」
「架空の女の子?」
「そ。どういう理由かわからないけど、どうも、現実の女の子が苦手みたいなんだよ、あの人」
「やたらもてるのに、もったいないよなー」
「ま、休みのたびに部屋に篭って、独りで怪しげな息を立ててるような男は……」
「ヤースゥー?」
地の底から響くような声に、背すじが泡立ち、ヤスに至っては椅子から飛び上がりかけた。見れば、階段からガーランドが顔を覗かせている。口元は笑顔だが、背中から立ちのぼる気配は、かなりおどろおどろしいものだ。
隊員たちは、ヤスを除き、何事もなかったかのように各々の会話に戻っている。さすがはガーランドの部下、素晴らしいチームワークだと思う。
私は、震え上がるヤスをよそにガーランドを見上げて。
「……ガーランドは、現実の嫁が欲しいのか」
「違います!」
きっぱりと、否定されてしまった。
ならば、何が望みだというのか。私をずっと、ここに置いておくことが望み、ということはあるまい。……そうでなければいい、という、身勝手な思いでしかないけれど。
ガーランドを見ていると、胸に痛みが走るのを抑えきれない。もう、忘れておかなければならない記憶が溢れるのを、とどめることができない。ガーランドの声が、仕草が、微笑みが、どうしても、どうしても私の記憶の扉を叩いて仕方ないのだ。
こんな気持ちのまま、ガーランドの側にいることは、辛い。
今の主であるガーランドにも、悪いではないか――。
そんなことをぐるぐる思っていると、ガーランドは、ふわりと微笑んで、言った。
「イリス。少しだけ――付き合っていただけませんか」
「何?」
「私の望みを、お伝えしようと思います」
* * *
外周の路地は灰色だ。
かつては鮮やかな色に塗装されていたのであろう屋根は、風雨にさらされ、どこもかしこも煤けた色に変わってしまっている。
そんな道に、二人分の足音が響く。前を歩くガーランドの背中は、意外と広かった。
「……イリス。色々考えたのですが」
ぽつり、と。ガーランドは私に背を向けたまま言った。
「私には、今すぐにでも叶えたい望みがある。けれど、それは、私自身で叶えないと意味がないことだって、思ってもいます」
それならば、何故、私を連れて来たのだろう。訝しみながらガーランドの背中を見つめていると、ガーランドはくつくつと笑い声を零しながら、言った。
「あと……私の望みは、きっとこう使うべきなんだろう、って思いましてね」
言って、外套のポケットから指輪を取り出す。私は少しだけ足を速めて、ガーランドの横に並んだ。雲に覆われた空の下では、指輪の輝きもくすんで見える。この空が晴れることは、おそらく、二度とないのだろうけれど。
ただ、私にはガーランドの言葉の意味がさっぱりわからなくて。ガーランドの横顔を見れば――ガーランドは、笑っていた。いつになく、無邪気な笑顔を口元に浮かべていた。
「ほら、つきましたよ」
そこは、外周に立ち並ぶどの建物とそう変わった様子もない、灰色の建物だった。ガーランドはそれ以上何も言わず、建物の中に足を踏み入れていく。その後を追うと、そこがどのような施設であるのかを知ることになった。
白衣の男と女が忙しそうに行きかい、苦しげな表情の人々を診て回っている。怪我、病気、もしくはそのどちらも。病院。そうだ、ここは病院だ。
だが、何故、ガーランドがここに? ガーランドが病を患っているようには見えない。それとも、私が……頭のおかしい人間だとでも、思っていたのだろうか。早足に歩いていくガーランドの背中に、名前をぶつけようとしたその時、ガーランドは一室の扉を開け放ち――。
「イリス!」
声が、飛び込んでくる。
記憶の扉を破る、声。
目を向ければ、ちいさな寝台の上に、見覚えのある姿があった。
ちいさな、ちいさな、私のかつての主が。満面の笑顔で、私を見つめていた。
言葉を失っていると、かつての主は寝台の側に近づいたガーランドの手を握って、ぶんぶんと振った。
「ありがとう、お巡りさん! 本当に、イリスを連れて来てくれたんだね!」
「ええ……それと、こちらもお返ししますね。もう、なくしてはダメですよ」
ガーランドは、私のよりしろを――かつての主の手に、そっと、握らせた。
一体、何が起こっているのか、わからない。
あの日、主は私の前から姿を消したはずだ。
もう、二度と会えない形で。
「……どういうことだ、ガーランド」
「どうもこうも、見たとおりですけど」
ガーランドは口元に笑みを浮かべたまま、しれっとした様子で答える。そんなガーランドの言葉を、かつての主が引き継ぐ。
「助けて、って言ったら、このお巡りさんが助けてくれたんだよ」
「本当は――もう少し、早く助けに行ければ、よかったのですが」
よく見れば、主の片腕は二の腕から先がなかった。あの日、私が最後に見た赤い記憶は、全てが間違っていたわけではなかったのだ。
そう、あの日、願いを叶える指輪の噂を聞きつけたらしい者たちが、突然主を襲った。偶然指輪を拾っただけの主は抵抗の余地もなく殺され、よりしろを奪われた。そう、思っていたのだ。ずっと。ずっと。何故、そのよりしろがガーランドに渡っているのかは、わからないままに。
けれど、事実はまるで違ったのだ。主はここで、確かに生きている。おそらく、私の意識が途絶えた後、すぐにガーランドたちが駆けつけたに違いなかった。
主は、にっとすきっ歯を見せて、ガーランドを見上げる。
「でもでも、お巡りさんのお陰で、またイリスに会えたんだもん。だから、ありがとう、お巡りさん」
「……そう言っていただけると、救われる思いですね」
ガーランドが微笑む。救われる、と言ったが、まさしくガーランドの表情は救済された者のそれだった。今まで、私が望みを叶えてきた誰よりも、安らかな顔をしているように、見えた。
だが――。
私は、妙な息苦しさを覚えながらも、ガーランドに問いかける。
「だが、まだ、貴殿の望みを聞いていない。それを手渡したところで、私の主は貴殿のままだ」
「そうですね。だから、私はあなたに望みます、イリス」
イリス。私の名を呼んだガーランドは、背筋を伸ばし、凛と響く声で宣言した。
「あなたがた二人が、永久に幸せであれ、と」
その瞬間に、私を縛っていた楔が、外れて。
* * *
気づけば、駆け出していた。
ガーランドの望みは叶えられた。本来、願いを叶えれば再び眠りにつくはずだが、ガーランドの望んだ内容は、私に眠ることを許さなかった。それは、私も望むところだ。望むところだが――!
「ガーランド!」
いつの間にか、病院から姿を消していたガーランドの背中に、今度こそ名前をぶつける。長い足を止めたガーランドは、静かな声で言った。
「……彼についていなくて、よいのですか?」
「どうして、望みを、こんなことに使ったんだ。それでは、貴殿には何の得もない」
望みを叶える機会を、自分以外の誰かのために使うが、本当にいるとは思っていなかった。ましてや、望みを叶える者である自分の幸福を望む者など、考えたこともなかったのだ。
だが、ガーランドはあくまで穏やかに、諭すように言葉を紡ぐ。
「こんなこと、なんて言わないでください。私は、心からあなたの幸せを望んだ。それだけです」
「だが……っ」
「なーんて、綺麗な話で済めばいいんですけどね」
私の言葉を遮って振り向いたガーランドは、微かに口の端を歪めた。皮肉げに。
「強いて言えば、代償行為、ですかね」
「代償行為?」
「あなたは、私が愛した女性にそっくりなのですよ」
――愛した、女性。
「……ええと、嫁?」
「違います」
違うのか。いや、あの部屋にいた誰とも似ていない自信はあるが。
「私にも、現実の女性を愛した時期はあったんですよ。でも、幸せにしたかったはずの人を無自覚に傷つけ続けた結果、こっぴどく振られてしまいましてね。以来、リアルの恋はしないって決めたんです。お互いいいことありませんもんね」
それでも、と。
ガーランドははにかむように笑うのだ。柔らかそうな黒髪をがしがしと掻きながら。
「あなたを見ているうちに、つい、幸せになってほしい、って思っちゃったんですよ。あの人にできなかったことを、今度こそ、叶えたいって思ったんです」
幸せに。
その言葉は、私の心の中に光を灯す。かつて、主から名前を与えられた時と同じ、温かな光だ。
「ま、大きなお世話かもしれませんけどね。誰かさんの代わりなんて、嫌でしょう?」
「いや」
私もまた、ガーランドに、かつての主の姿を重ねていた。その点ではガーランドと何も変わりはしない。それに、誰かの代わりでも何でも、ガーランドが今ここにいる我々の幸福を心から願ってくれたのは、事実。
だから、私は。
精一杯の微笑みをもって、ガーランドの望みに応える。
「それでも、嬉しい。ありがとう、ガーランド」
すると、ガーランドは、顔を赤くして視線を逸らした。どうして、そんな顔をするのだろう。さっぱり理解ができない。どうした、と顔を覗き込んでみるが、ガーランドは器用に首をあちこちに動かして私と視線を合わせようとしない。
……全く、変な奴だ。
しばしの間、無言の攻防が続いたが――顔を横に向けたまま、ガーランドが不意に問うてきた。
「そうだ、一つだけ聞かせてください。あの指輪についていた石って、何だったのです?」
「は?」
「ヤスが、意地悪して教えてくれないんですよ。ルビーやサファイアではない、ということは何となくわかるんですが」
あまりにも今更すぎる質問だ。ずっと、知らないままに指輪を持ち歩いていたのだろうか。不思議に思いながらも、聞かれたからには答える。
「オパールだ。私の目の色と同じ」
「蛋白石。遊色効果を持つ珪酸鉱物ですね。ああ、きっと、とても美しい色をしているのでしょうね。虹を閉じ込めた石、虹を閉じ込めた瞳」
その言葉に引っかかるものを感じ、ガーランドを見上げる。ガーランドの視線は相変わらず変な眼鏡に隠されていて、私からは彼がどこを見ているのか、正確に見て取ることができない。
できない、けれど。
私の考えを察したのか、ガーランドはこちらに顔を戻し、口元に人差し指を寄せた。言う必要はない、ということなのだろう。それは、私の想像が正しいということでもあった。
「イリス。本当の意味で、あなたにはぴったりの名前だった、というわけですね」
「ああ――きっとな」
私の答えにガーランドはくすりと笑い、そして手を振った。
「それでは、また。いずれ、どこかで会うこともあるでしょう」
「そうだな。では、また」
あまりにもあっさりとした別れの言葉を交わして、ガーランドは私に背を向けた。大きな背中が、ゆっくりと遠ざかっていくのを、ただただ、見送る。
ガーランドは、また、あの心地よい騒がしさの中に帰っていくのだろう。それが、彼の日常であったから。
そして、私も、新しい世界へと旅立っていく。今この瞬間から、誰かの望みに縛られることのない、私と主の二人で歩む日々が始まるのだ。
だが、また、いつか――そうだ、主が退院できたら、もう一度、あの詰め所に顔を出してはどうだろう。きっと、主も喜ぶに違いない。
虹を知らない青年の背中が雑踏の中に消えたのを見送って、私もまた、歩みだす。
主の下へ。
これから始まる、幸せな日々に向かって。