画廊にて

 町には、小さな画廊があった。
 かつてこの町に暮らしていた画家ロイド・イングラムの絵を展示する、ただそれだけの目的で存在する画廊は、いつからか町の住人からも忘れ去られた場所となっていた。
 煤けた入り口に目を留めることも無く、通りを行く人の波。それを、硝子の扉越しに画廊の中から見つめる女の姿があった。
 椅子に深く腰掛けた女は受付の机に腕を乗せ、気だるげに扉の外を見ている。実際には、見ているというよりもただそちらに視線を向けているだけ、という方が正しかった。かつ、かつと時計が秒を刻む音が「時間」という概念を女に思い出させ……また、忘れてゆく。めまぐるしく動く通りの風景と対照的に、画廊の内側は時間すら滞っているように見えた。
 無数の絵に囲まれた女は、ゆっくりと目蓋を伏せようとした、
 その時、硝子の扉に一つの黒い影が映った。
 女が重たい頭を上げて扉を見ると、きぃと微かな音を鳴らして扉が開き、乾いた外の空気と共に聞き覚えの無い声が流れ込んできた。
「すまない、こちらがロイド・イングラム氏の画廊でよろしいだろうか」
「ええ」
 と応えて女は入ってきた影を見上げ、思わず戸惑いを顔に浮かべた。
 それは、何とも奇妙な客人だった。禿頭に羽の刺青を刻んだ、いやに白い肌をした青年だ。顔の上半分を分厚いミラーシェードで覆い、ぴったりとした革の繋ぎの上に黒い外套を羽織るその出で立ちは、明らかに、通りを早足に行く町の人々とは一線を画した存在であることを意味している。
 客人もすぐに女の戸惑いを察したのだろう、丁寧に一礼し、言った。
「突然の訪問申し訳ない。私はシスル、首都で諸々の依頼を請け負う仕事をしている」
 首都――この国の全てを担う『塔』。その根元に存在する町を指す言葉だ。随分と離れた場所からやってきたことになる。そして、曖昧な表現をしてみせたが、要するにこのシスルという客人は依頼を受ければどのような汚れ仕事でもこなす、所謂『荒事屋』なのだろう。
 刹那、脳裏に閃いた灰色の記憶に背筋が震えるが、客人に悟られぬよう、それ以上に自分自身で記憶に蓋をするために、無理やりに笑みを浮かべ、背筋を伸ばしてみせる。
「初めまして、私はメイア・エヴァンジェリスティ。この画廊を管理する者です。それで、こちらにはどのようなご用件で?」
 ただ絵を見に来ただけではあるまい、と言外に告げれば、黒服の青年も小さく頷いて、携えていた四角い鞄を机の上に置く。
「イングラム氏の絵を、こちらに納めるために」
 シスルの声は、メイアが思っていたよりもずっと穏やかで。メイアは少しだけほっとして、それから「普段通り」の対応をする。
「……なるほど、わかりました。確認させていただいてよろしいですか?」
「是非確認いただきたい」
 シスルは鞄を開け、柔らかな布に包まれていたそれをメイアの前に示す。
 それは、一枚の絵だった。
 こぼれんばかりの星を湛えた闇夜に浮かぶ、三日月の船。地上から船に向かって伸びるのは、柔らかな弧を描く三日月とは対照的に、定規で引いたかの如き直線だけで構成された青白い梯子だ。桟橋かもしれない。
 メイアは、この絵を知っていた。
 この絵を描きながら、いつか月まで連れてくよ、と無邪気に笑っていたロイド・イングラムを、知っていた。
 ぎゅっと、胸が締め付けられるような錯覚。それが錯覚ということはわかっているのに――
「ええ、確かに」
 そっと、そっと。カンバスの縁に手を触れて。
「これは、あの人の……ロイドの絵です」
 絵と密接に結びついた彼の記憶を、確かに、「思い出して」いた。
 すぐにメイアは、シスルと名乗った客人を画廊の奥に招いた。わざわざ首都から来た客人を、ただ用件だけ済ませて帰すのは失礼に過ぎるというものだ。それに――何故、シスルが彼の絵を持ってきたのか、気になったということもある。
「どうぞ、その椅子に座ってくださいな。お茶とお菓子をご用意しますね」
「いや、気遣いには及ばない。それにしても、イングラム氏は素晴らしい画家だったんだな」
 私には批評家のように絵の良し悪しがわかるわけではないが、と言い置きながら、椅子に腰掛けたシスルは眩しそうな表情で壁にかけられた絵を見渡して感嘆の息を付く。
「失われた空は、きっとこんな色をしていたのだろうな」
 ロイド・イングラム。画家としての彼は、いつも空の絵を描いていた。世界が壊れたあの日から、二度と戻ってこない青い空と無限の星空の絵。かつて現実にそこにあったはずの幻想を、彼はその銀の瞳で見てきたかのように鮮やかに描き出していた。
 メイアにとっては当たり前の光景だが、彼の絵を知らなかったであろうシスルには、とても新鮮に映ったかもしれない。ロイドの絵もそうだが、色とりどりの空に囲まれているという、この画廊という「世界」そのものが。
 新たに画廊に加わることになる三日月の絵をシスルと自分から見える位置に置き、メイアもシスルと向かい合うように椅子に腰掛ける。そして、唇を開いた。
「もし、よろしければ。この絵を手に入れた経緯を教えてはいただけませんでしょうか」
 シスルは「もちろん」とメイアに顔を戻した。ミラーシェードの奥の瞳がどのような色をしているかはメイアからはわからなかったが、初めて見た瞬間の恐怖に似た雰囲気はもはや感じられなかった。
「元々、この絵はイングラム氏が存命の頃、首都の或る金持ちが買い取ったものだとされているが、それに間違いは無いだろうか」
 メイアは首肯する。ロイドは絵のことばかり考えてとにかく金に頓着しない、ある意味では芸術家らしい芸術家だった。だからこそ、ロイドの絵を評価し、人に売るのは幼馴染たるメイアの役目であった。
 今となっては、それを後悔しないわけでもなかったけれど。
「その後、この絵は首都の好事家の間を転々としたようだ」
「転々と……?」
「ああ。この絵を手に入れた者は例外なく変死を遂げたということでな。それで、今の持ち主が恐れをなして私に返却を依頼した」
 シスルはメイアの反応を見るように一旦言葉を止めたが、メイアは全く驚かなかった。それが全く不思議のことでないと、知っていたから。
「やはり、そういうことだと思っていました」
「心当たりがあるんだな」
「はい。彼の絵を買い取っていった人が奇妙な死に方をする、ということはこれまでもありましたから。きっと、皆、足場もないはずの空から落ちて死んでいたのでしょう?」
 シスルはひゅっと息を飲んだ。それは、何よりも如実な肯定だった。
 メイアは三日月の絵に視線を向ける。星空にかかる梯子、というモティーフは神と天使による救済にも似ている。きっと、この絵を求めた好事家たちも、存在するはずのない「救い」のイメージに縋っていたのかもしれない。そんなことを思いながら、目を細める。
「私、あの人の描く絵が好きで、ずっとあの人の側にいました。だから、何もかも、何もかも知っているんです。あの人の絵には魔法がかかっていることも」
「……魔法?」
 表情こそ動かさなかったが、シスルの声には訝しげな響きが混ざった。崩壊以前より超常的な能力が「超常」から「常」なるものに近づきはしたが、それでも一般的ではないのは確かなのだから、当然といえば当然の反応だ。
 メイアはその疑いも全て受け止めた上で、淡々と言葉を紡ぐ。
「ええ。ロイド・イングラムは魔法使いでした。生まれた時から見えないものが見えて、言葉が無くとも人の心を理解して、誰かの望みに応えて奇跡を使う。そういう、魔法使いでした」
 シスルは無言で先を促す。その表情に驚きも疑いも浮かばぬままであったことがむしろメイアにとって意外ですらあった。
「だから、当然あの人の絵には魔法が宿りました。あの光を遮る分厚い雲を突き抜けて、色とりどりの空を見るという子供のような夢が、そのまま魔法として絵に宿っているのです」
「空を飛ぶ魔法、か」
「はい。けれど、魔法というのは儚いものです。ロイドは自分の力を信じていましたし、私も彼が魔法使いであることを疑っていませんでしたから、間違いはありませんでした。
 しかし、魔法を信じられない人に絵が渡ったら、どうなるでしょう。空を飛ぶ夢を見ているときに、それが本来叶うはずのない『夢』であると気づいてしまったら」
「……夢は覚める。天使の梯子は崩れ落ちる」
「そういうことです。もちろん、信じる信じないはあなたの自由ですけどね」
 そうだろうな、と言ってシスルは立ち上がる。メイアは慌てて立ち上がる。こんなおかしな話をして、気分を損ねられたのかという不安があった。
「すみません、おかしな話をして。もう、行ってしまわれるのですか?」
「用は済んだからな。それに、ここにいると」
 言葉を切って、黒衣の客人はふと口の端を笑みにした。それは、シスルが初めて見せる笑みであり……メイアが思っていたよりもずっとずっと、優しいもので。
「私まで、飛ばされてしまいそうだ」
 笑みと共に放たれたその言葉だけが、妙に、メイアの記憶に焼きついた。
 かくして客人は去り、またメイア一人だけの時間が訪れる。
 一つ「彼の記憶」を増やした空間に残された女は、黒衣の客人が去っていった硝子の扉を見つめて、小さく息をつく。
 変わらない時間、変わらない自分。無邪気に笑う魔法使いが消えてから、何一つ変わることのない何もかもが、ここにある。そして、これからも変わることがないだろう。ここの主であった、魔法使いが望んだように。
 何人もの人間を「飛ばした」夜空の絵に指先で触れて。
「いっそ、私も連れて行ってくれればよかったのに――ねえ、ロイド」
 呟く声は、もはや誰にも、届かない。
 
「魔法……か」
 画廊を後にした禿頭の青年は、口の中で呟いた。
 建物と建物の間に、まるで蜃気楼のように存在した空の画廊。目も眩むような光景と、その只中に生きていた女の姿を思い出し、外套のポケットの中から一枚の紙切れを取り出す。
「あながち、嘘ではないのかもな」
 紙切れ、否、古い新聞の切り抜きに書かれていたのは、この町でかつて起こった小さな事件。一人の絵描きと絵描きの恋人が突如現れた灰色の服の暴漢に殺されたという「事実」。
 絵描きの名はロイド・イングラム、恋人の名はメイア・エヴァンジェリスティ。
 果たして、最後の最後に、想像の空を描く魔法使いは何を願ったのか。三日月にかかる梯子のように、存在し得ないものを現実に描き出したのか。それが今もこの場所に残り続けているのか……
 シスルは、一瞬前まで自分がいた場所を振り返る。画廊の入り口は、何も語らない。
「まあ、私の知ったことではないか」
 失われた花の名を持つ青年は、仕事を終えれば町を去るのみだ。
 いつも、そうしているように。
 
 ――町には、小さな画廊がある。誰にも気づかれないままに、今も、そこに。