夢幻遊園地にて

 気づけば、目の前に見知らぬ光景が広がっていた。
 雨はいつの間にか止んでいて、夜霧の中に浮かぶのは、色とりどりの霧払いの灯に照らされた巨大な門。その向こう側には暗い霧に霞んで見えないが、いやに明るい場所であるということだけはわかる。ほとんど光の塊にしか見えないそれが何なのかわからないまま、私はぼんやりと門の前に立ちつくしていた。
「お客さま、入場券はお持ちですか?」
 不意に声をかけられて視線をやると、今時劇場でしか見ないような、派手かつ古風な服に身を包んだ人物がこちらに向かって手を差し伸べていた。服装ははっきりと見えるのに、不思議なことに顔立ちは霧がかかったかのように曖昧で、声も男のものなのか女のものなのか判然としなかった。
 それにしても、入場券など持っているはずもなかったから、首を横に振る。手に取ることが許されているのは、それこそ誰かの目を通した後の手紙くらいで……。そう、そもそも私がこんな見知らぬ場所にいること自体何かがおかしいのだ、と気づくのと同時に霧のような人物が「おや」と声を上げた。
「当日券をお持ちではないですか」
 その言葉に、私はほとんど反射的に自分の手元に視線を向けていた。
 確かに、その人物の言うとおり、私の手は何かを握っていて……、恐る恐る手を開いてみれば、風船を手にした一人の少女の影を描いた入場券が握られていた。
 次の瞬間、ひょい、と私の手から入場券を取り上げられたかと思うと、忽然と私のそばにいたはずの人物は姿を消していた。代わりに、音もなく門が開き……、途端に、色とりどりの光と賑やかな音の洪水が溢れ出してきた。
 呆然とする私の耳に、音の中でもよく通る声が、響く。
 
「ようこそ、『夢幻遊園地』へ。一夜の夢を、お楽しみください」
 
 ――ああ、これは、夢なのだ。
 一拍遅れて、私は自分が置かれている状況を理解した。
 何しろ、私の身体は『雨の塔』にあるはずで、二度とあの雨降る場所から離れられるはずもなくて。このような、賑やかな場所とはとんと無縁であるはずだった。
 だから、これは夢なのだ。夢の中の遊園地。遊園地、というものを現実に体験したことのない私の、想像が生み出した何かなのだと、夢の中にしてはいやに明晰な思考で判断する。
 本物と見まごう馬や馬車が動きながら巡っていく回転木馬に、線路の上を走っていくきらびやかな車。奥に見える、空に向かって回る巨大な輪のようなものは、観覧車だろうか。一度遠目に見たことのある移動遊園地のことを思い出しながら、ぼんやりとその場に立ちつくす。
 ……残念ながら、遊園地を前にしてはしゃぐような時代はとうに過ぎ去ってしまっていて、それらをどう楽しめばいいのかもわからない。それこそ、迷子になってしまったような心持ちで、門の方を振り返った、その時だった。
「……叔父さま?」
 凛、と響く声。未だに耳慣れているとはいえない呼び声に視線を向ければ、風船を手にした少女がこちらに駆け寄ってくるところだった。
「やっぱり叔父さまだ。どうしてこんなところに?」
「アレクシア」
 そうだ、アレクシア・エピデンドラム。私の姪。彼以外に唯一、私に会いに来たと『雨の塔』を訪れた少女。夢の中でも身間違えようのない彼女は、かつての私によく似た顔で私を見上げる。
「どうして、……と言われても困るな。気づいたらここにいたんだ。ここがどこなのか、どうやって迷い込んだのかもわからない」
 いつの間にか手にしていた入場券、どこにあるのかもわからない遊園地。けれど、私がここにいるのも、彼女がここにいるのも、夢の中の出来事だというなら、そういうものだと思うしかない。
 夢のアレクシアはそんな私の答えをどう捉えたのだろう。猫のように笑いながら言うのだ。
「なら、わたくしめが案内して進ぜよう。さあ、お手をどうぞ、叔父さま」
 今、アレクシアと私の間に鉄格子はなく。夜霧に灯る明かりの下、|芍薬《ピオニー》のような色と質感の服を纏った少女は、私にむかってしらじらとした手を差し伸べる。
 果たしてその手を取ってもよいのだろうか。
『雨の塔』では、誰かに触れることは許されていなかった。時に刑務官の手が私に触れることはあっても、この手を伸ばして誰かの手を掴むということは一度もなかったと記憶している。
 だから、一瞬、躊躇った。その手を取ってしまえば、……私は、二度と『雨の塔』に戻れなくなってしまうのではないか、と。
 けれど、私の逡巡など知ったことはないアレクシアは、差し出しかけた私の手を取る。絡められる指先に温度はなくて、人の肌に触れているという感覚も薄かった。これもまた、夢の中だから、なのかもしれなかった。
 片手の風船を揺らすアレクシアに手を取られて、歩き出す。あたりを行き過ぎる人々は皆のっぺらとした影のようで、きちんとした人の形を持っているのは、この世界に私とアレクシアだけであるかのような錯覚を覚える。
「叔父さまは遊園地は初めてかな」
 アレクシアはゆっくりと歩みながら言う。あちこちの明かりに照らされているからだろう、地面に落ちた影が複雑に重なり合い、不思議な形を描いている。二人分の足が、その影を踏みながら奥へ奥へと進んでいく。
「そうだね。遠目に眺めたことがあるだけだ。遊園地が各地を巡る頃には、とっくに大人になってしまっていたからね」
「そうか。叔父さまが学生の頃は、まだ戦中だったか」
 そう、私が物心ついた頃に理解したのは、この国が長き戦争に厭いているということだった。結局、諸々の出来事が重なった結果なし崩し的に終戦を迎えることになったが、それまで娯楽らしい娯楽はほとんど許されていなかったと言っていい。
 だから、各地を巡業する移動遊園地を見るようになったのも、私の感覚ではつい最近のことだ。私の時間の感覚がどれだけ正しいかは怪しいものだが。
「仮に今の私が幼子だったとしても、果たして遊園地に赴いていたかどうか。そんな自由が、あったかどうか」
 夢の中にありながら、唯一まるで本物らしく存在するアレクシアは、青い双眸で私を見上げる。
「……叔父さまは、自由になりたかったのかい?」
「いや」
 その言葉には、ほとんど反射的に否定していた。
「そもそも、自由というものがわからなかったよ。だから、別に自由を願うこともなかった。何となく言葉の意味がわかるようになったのは、それこそ、『雨の塔』に来てからだね」
 かつてそう言ったとき、私の友は衝撃を受けたようで、酷く傷ついた顔で私を見たのだと思い出す。別に彼が悪いわけではない。気づいていなかったのは私で、だからこれはどこまでも私自身の問題でしかない。
 果たしてアレクシアは不思議そうに首を傾げるだけだった。多分、アレクシアにはわからないだろうし、わからなくてよいのだと思っている。これがそもそも「わからなくてよい」と思っている私の夢である、と言ってしまえばそれまでなのだが。
 とにかく、私が語れることはあまりにも少なくて、だから話を変えることにする。
「アレクシアは、遊園地というものをよく知っているのかな」
「いや、わたしも現実に遊園地に行ったことは一度だけだよ」
 意外なことに、アレクシアは首を横に振ってそう言ったのだった。
「近くに移動遊園地の巡業がやってきてね。ニアが行きたがっていたところを、爺やが内緒で連れ出してくれたんだ。あれは楽しかったな」
 ――という設定、なのだろうか。私の魂魄が作り出した夢にしては妙に細かなところまで決まっているものだと感心する。感心したという事実も、目覚めた頃にはすっかりぼやけた輪郭になっているのだろうけれど。
 アレクシアはぱっと顔を上げると、ひんやりとした手で私の手を引く。
「叔父さま、あれに乗ってみないか?」
 アレクシアの視線の先には、先ほども遠目に見えていた回転木馬があった。馬は近くで見れば見るほど本物じみて、今にも動き出しそうに見える。それもまた、夢だからなのかもしれないけれど。
 回転木馬はアレクシアを待っているかのように、今は動きを止めている。そこに迷わず駆け寄っていくアレクシアについていきながら、ふと、ずっと聞きそびれていたことを聞いてみることにした。これが夢だと、つまりは私の自己満足でしかないと、わかっていながら。
「アレクシア。君は、私のことが恐ろしくはないのかい」
「叔父さまのことが?」
 アレクシアは足を止めて振り向く。意外なことを聞かれた、という顔だった。
 それから、鉄格子越しにも見た猫のような笑みを浮かべてみせる。
「最初はどういう人なのかと思っていたが、まるで恐ろしくはないな」
 ただ、と。言葉を切って、真っ直ぐに、私の、ひとつしかない目を見上げて。
「どうして、あんなことをしでかしたのか、と不思議に思うだけで」
 そう、言うのだ。
 そして、アレクシアは別に私の答えを欲していたわけではないのだと思う。ひときわ大きな木馬に跨ると、私を手招く。戸惑いながらも、アレクシアが望んでいるらしいのだからいいのだろうと思うことにして、アレクシアの後ろに跨って彼女の体を支える。アレクシアの体は思ったよりもずっと小さくて細く、そして冷たい。
 アレクシアは私の胸に体重を預けながら、ぽつりと呟いた。
「叔父さまは、あたたかいのだな」
 そうだ。私には、まだかろうじて、血が通っている。
 その事実を思い出すと同時に、アレクシアの体の冷たさが無性に不安になってくる。全て、私が勝手に思い描いている夢だというのに、奇妙な話ではあるが――不安になったのは本当だ。
「アレクシア、」
 呼びかけた声は、突如として流れ始めた音楽に遮られる。華やかな音楽に乗せて回転木馬が動き出す。アレクシアが、今ばかりは無邪気な少女の横顔を見せていて、無粋な問いかけは喉の奥に飲み込まれたままになる。
 腕の中に少女のかたちを抱えた私を乗せて、木馬は回る。
 ――雨の降らない夜は、まだ始まったばかりだ。