005:旅立ちの日

 ラビットは天文台の入り口前に車を着けた。
 車はおそらく二十四世紀型のものなのだろう、特徴的な流線を描いた鈍色の車体だった。
 車を降りて、一つ、溜息をつく。
 ラビットは、トワが『この星を見たい』と言った時、何も言葉を返すことができなかった。
 何しろ、『この星を見たい』と言われても、何を見せればいいかもわからない。
「それに、私も、何も知らない」
 ラビットは元々この星……地球の人間ではない。どこの出身かは彼自身が口を閉ざしているため、誰も知ることはないのだが。
 しかし、ラビットはトワの願いを聞き届けることにした。トワが何故政府に追われているのかはわからないし、何のためにこの星に来たのかも詳しく話そうとはしない。だが、このままこの天文台にトワを置いておいても、すぐに政府が嗅ぎ付けてトワを追ってくるだろう。そうなれば面倒なことは目に見えていた。
 何を見せればいいかわからないのなら、とりあえずどこかに行ってみよう、それから考えればいい。ラビットはそう思っていた。
「ラビット」
 声をかけられて、ラビットは声の聞こえた方向に目をやった。そこには少し大きめな真っ白のワンピースを着たトワが立っていた。
「どうした?」
「ううん、何でもない」
 そう言って、トワはラビットの横に歩いてきた。ラビットは車のドアを閉め、エンジンを点検し始めていた。
「……ラビット」
「何だ?」
「横にいていい?」
「ああ」
 そっけない返事をするラビットだったが、トワは嬉しそうに笑ってラビットの横に立った。ラビットは黙々と点検を進めている。
「……ラビット」
「何だ?」
「龍飛はどうするの?」
「………」
 龍飛。ラビットの住む天文台の管理をするメインコンピューター。……そして、彼女は機械でありながら酷い寂しがりやだった。
 ラビットが天文台に住み着く前……そこには一人の老人が住んでいたという。彼女は老人の話し相手として作られた存在だった。老人が死んだ時、彼女は寂しさのあまりに機能を全て凍結させ、自らの意識も凍結させたらしい。ラビットが住み着いてから、すぐに機能を解凍したらしいが。
 彼女の感情は、ほとんど人間と変わらないほど高度なものだ。それは、数年彼女と共に過ごしたラビットもよく知っていることである。
 トワは龍飛と何回か言葉を交わしているうちにいつの間にか仲良くなったらしい。だからラビットにこんなことを言ったのだろう。
「置いて行くしかないだろう? 彼女はこの天文台そのものなのだからな」
 ラビットは天文台を見上げた。トワは明らかに寂しそうな顔をした。
「独りは、寂しいんだよ?」
「………」
 再び、ラビットは黙り込むしかなくなっていた。少し考えて、ふと何かを思いついたかのように顔を上げた。
「少し、待っていろ」
 ラビットは手を止め、天文台に向かって歩き始めていた。トワは「待っていろ」と言われたので、その場に立って空を見上げた。
 少し灰色がかった白い空。空にはまだ昼間だと言うのに、青い星が浮かんでいた。
「青い、星」
 トワは、ポツリとつぶやいた。
「私と……同じ」
「――『青』」
 トワではない、ましてやラビットでもない声に、トワははっとして振り返った。そこには一人の人間が立っていた。黒いスーツを着て、金色……いや、むしろ黄色と言った方が正しいか……のウェーブがかった長い髪を乾いた風に靡かせ、青い色のレンズが入った眼鏡をかけている、どこか中性的な若い男だった。
「……誰?」
 トワは怯えをあらわにして問いかける。男は穏やかな表情を浮かべていた。しかし、この男は、トワが最も嫌うもの……軍の人間であることをトワは感覚的に察知していた。
「ん? ラビットの知り合いよ。ラビットは?」
 女のような口調で喋る男に、無言でトワは天文台を指差す。男は「そう」と答えて、しばらく天文台とトワを交互に見つめていた。しかし、この前にトワを捕まえようとした軍人たちとは違って、どこか物珍しそうにトワを見つめるだけで、何をするわけでもなかった。
「あの……」
「何?」
「貴方は、軍の人ですよね?」
「ええ、そうよ」
「何故、わたしを捕まえないんですか?」
 男はその質問を受けて、一瞬虚を付かれたような顔をしたが、すぐにくすくすと笑いをこぼした。
「そんなことを言ったらミラージュ姫だってそうでしょう? 彼女もああ見えてれっきとした軍の学者さんだし。ま、あたしはラビットに用があるだけで貴女に用はないわ。だから捕まえたりはしないわよ、安心して」
 声こそ男のものだったが、その仕草は妙に女性的だ。しかしながらそれがよく似合っていた。元々外見が少し女性に近いということもあるのだろうが。
 そして、彼の言う「ミラージュ姫」がトワに接触を求めたクロウ・ミラージュの通称であることにトワが気づいたのは、一呼吸後のことだった。
「クロウを知っているの?」
「知っているも何も、ミラージュ姫は軍の中でも有名人よ」
 そんなことを話していると、玄関のドアが開き、ラビットが顔を出した。そして、トワと話している男を見て、絶句した。
「………!」
「お久しぶり、兎さん。元気してた?」
「何故、貴方がここに?」
 男は驚くラビットの顔を、下から覗き込んだ。
「決まってるじゃない。姫から貴方がこの子をかくまってるって聞いて飛んできたの。もちろん本部には知られないようにね」
「本部……軍はまだこちらの事を知らないのか?」
「表面上はね。まだうちの戦乙女さまが気づいていないから、もしかしたら全く気づいてないかもね。その逆もありえるかもしれないけど」
 結局のところどうとでも取れるということだ。適当なことを軽く言う男に、ラビットは嘆息した。
「仕方ないな……私はとりあえずここを出る」
「ええ、その様子じゃそうでしょうね。でも、気をつけて」
 男は初めて、笑みを抑えて少し真面目な表情になった。
「……レイ・セプターが彼女を追ってる」
「………!」
 ラビットの表情が一気に険しくなった。トワは怯えた表情でラビットにしがみついている。
「あの男が?」
「彼が、この子の身柄を保護する権利をうちの戦乙女さまからいただいてきたの。何考えてるかは知らないけどね。もし厄介事に巻き込まれたくないなら、今のうちに彼女から手を引いたほうがいいわよ?」
 言葉だけ聞くとどうも軽く聞こえてしまうが、そのトーンは低く、この男なりには本気なのだろうと言うことが何とか伝わってきた。トワはそれを察したらしく、悲しそうな顔を浮かべてラビットを見上げた。
 ラビットはしばし目を伏せていたが、ふと、真っ直ぐ男を見据えた。
「もう厄介事には十分なっているだろう。レイ・セプターは何とか撒いてみせる。彼女が満足いくまでは、とりあえず彼女に付き合うつもりだ」
 男は、ラビットの言葉を聞いて長い長い溜息をついた。
「ええ、アンタならそう言うと思ったわ。わかってる。ごめんね、わざわざこんなこと聞いて」
 そう言いながら、男は左手にはめていた金属製の籠手のような物をはずし、ラビットに向かって投げる。ラビットはそれを受け止めながら、サングラスの下の瞳を丸くした。
「……いいのか? こんなものを軍の人間でもない私に渡しても」
「構わないわ。今のあたしには必要ないけど、アンタには絶対に必要だもの」
 言って、男は微笑む。そして、まだどこか不安げな表情でラビットにしがみついているトワの青銀の髪に軽く触れた。
「ごめんね、不安な思いさせて。大丈夫よ、ラビットなら貴女を裏切ったりはしないわ。あたしと違って……ね」
 少し、自嘲気味な笑みが、男の表情に混じったような気がした。トワは不安げな表情こそ崩さなかったが、男への緊張は解けたらしく、ラビットから離れて男を見た。
「あたしが伝えたかったのはこれだけ。後はアンタだけでどうにかしなさいよ」
「ああ、わかっている、元々貴方の力だって借りるつもりはなかったが……しかし、ありがたくいただいておく」
 ラビットは男から渡された籠手のようなものを左手にはめた。ラビットがはめるにはサイズが大きかったが、抜けるというほどでもなかった。
「貴方の動きは気づかれていないのか?」
「あたしの行動が基本的にノーマークなのは知ってるでしょう?」
「それはそう、だが……」
「それじゃあ、あたしはこれで。……お願いだから、無茶だけは、しないでね」
 男は、そう言って歩いてその場から立ち去った。とりあえずラビットは視界から男が消えるまでは見送ったが、視界から男が消えるなり足元に置いてあった黒い一辺が二十センチメートルくらいの箱を手に取った。
 何、これ?とでも言いたげな表情のトワに、ラビットは少し笑顔を見せた。
「すぐにわかる」
 一言だけ言うとラビットは再び車へと向かい、手にした箱を車の機関部に取り付け始めた。再び沈黙が流れ、トワはせわしなく動くラビットの手を覗き込んでいた。
「ねえ、ラビット」
「何だ?」
「さっきの人、誰?」
 ラビットは手を休めることもなく答える。
「私が軍人だったころにいろいろと世話になった。変なやつではあるが信頼には値する」
「……あの人」
 トワは深い海の青を映し出した瞳でラビットを見た。
「今まで出会った人の中で一番血の匂いがした」
 ラビットはその言葉に一瞬手を止め、まじまじとトワを見つめる。トワは眉を寄せ、心配そうな顔を浮かべていた。
「怖かった」
「不思議だな。私はそんな匂いなんて感じなかったが」
「匂い……じゃないのかもしれない。でも、わかったの。あれは血の匂い」
 ラビットは思わず止めてしまっていた作業を再開し、目も機関部の黒い箱に戻す。
「そうか。……あの男は、昔、軍の中で一番力のある軍人だった」
「力のある?」
「いや、わかりやすい表現をすると、『一番人を殺した』軍人か」
 ラビットはそこで言葉を切り、息をつく。手は止まらずに作業を続けている。
「ただ、事故に巻き込まれてな。身体が使い物にならなくなって、一線から退くことになった。だから今は軍の中では情報収集を主な仕事としている。……仕事というか半分以上趣味だがな」
 言葉とともに手を止め、ラビットは「できたぞ」と言って黒い箱のスイッチを入れた。すると、車内に設置された立体映像投影機に一人の女性の姿が映し出された。……龍飛だ。
「龍飛」
 トワが嬉しそうに呼びかける。龍飛もトワに向かって笑いかけた。
「メイン人格をコピーして移し変えた。あくまでコピーだが、主電脳ともリンクさせてあるからいいだろう、龍飛」
『ええ、十分です、ラビット』
 龍飛は人口音声で言った。声に抑揚は少なかったが、喜んでいるのだろう。
「さて……準備もできたな。……行くか」
 ラビットは天文台の扉に全て鍵をかけた。
 ――こことも、もうお別れだ。
 ふと、天文台から覗く巨大な望遠鏡に目が行く。古びた、何世紀も前の望遠鏡。
 ――もう、帰れないだろう。
 トワの存在も、トワを追う軍人も、さっきの男の忠告も、これからの旅の過酷さを物語っているようだった。しかし、彼がトワを見捨てるなんて事は、できるはずもなかった。
 彼自身がお人よしであるということもあるが、それ以前に……トワが、自分に近い存在であるように感じてしまっていたから。
「十二翼の堕天使」
 ラビットは、トワにも聞こえないくらいの声で呟いた。
「貴方の片翼、確かに譲り受けた」
 左手にはめた籠手のようなものを見据え、ラビットは続ける。
「……しかし、貴方の翼でも手に余る」
 目を、空に向ける。太陽と一緒に輝く青の星。
「あと、一年もない時間で、私たちはどこまで行けるだろう?」
 
 その答えは、今はまだ誰も知らない。