02:透明
透明人間、という言葉が相応しい。
何かといえば今日の『異界』におけるXのことだ。
ディスプレイに映るのは、『こちら側』とほとんど変わらない風景だ。人で賑わう、ちょっとレトロな風情の商店街。道行く人々の姿格好も、俺が街中で見かけるものと相違なく、Xの視覚と聴覚を通して観測しても何ら不思議なものには見えない。画像情報を検索にかけても『こちら側』に対応する場所が特定できそうにない、という点を除けば、本当に、どこにでもあるような光景だ。
だから、唯一おかしいのは、X自身に起こっている現象ってことになる。
そもそも俺らの行う『潜航』は、サンプルの肉体ごと『異界』に送り込むものではない。現にXの肉体は、俺の目の前に置かれてる寝台の上に横たわっている。
ただし、俺の目に映っているXはあくまで抜け殻である。
意識だけを一時的に切り離して『異界』に送り込む、それが我らが変態――もとい天才エンジニアの作り上げた異界潜航装置の仕組みだ。そうすることで治療にあらゆるコストがかかる肉体へのダメージを避け、また意識と肉体との間にある目には見えないリンクを通して有事の際に『異界』から『こちら側』に一気に引き戻すことも可能になっている。要するに、命綱みたいなもんだ。
もちろん、『異界』で行動するには実体を持たない意識だけではどうにもならない。そんなわけで異界潜航装置には「切り離した意識にかりそめの肉体を与える」という機能がある、はずなのだが――。
「うーん? 意識体の生成機能は正常に動いてんのよね、ログ見る限りは」
Xの視界を映すディスプレイとは別に、異界潜航装置そのものを監視するコンソールと睨めっこしているエンジニアが、しきりに首をひねっている。
だが、ディスプレイ越しに観測できるXの視界に、X自身の体が映らないのだ。もちろんXの視界なのだから全身を確認できないのは当然なのだが、手や腕は映らないし、下を向いても地面は映るが足や胴が視界に入ることもない。落ち着きなくあちこちに揺れる画面を見る限り、X自身も自分に起こっている現象を理解できていないようだ。
道行く人々はそれぞれの行き先を見ていて、道の真ん中に突っ立って通行の邪魔になっているXの存在に気づく様子もない。
しかし、姿は見えていないのに「通行の邪魔になっている」のは確かなようで、時折、立ち尽くすXにぶつかった通行人が不審げに辺りを見回したり、偶然近くを通りがかった別の通行人に突っかかったりしていて、なかなか愉快な現象が繰り広げられている。
つまり、Xは確かに実体をもってそこにいるが、姿だけが透明である――リーダーはそう結論づけた。
「こういう現象は初めてね。意識体の外見が変容することは今までもあったけど、『視認されない』というのは新しいわ」
同時に、声も聞こえなくなっているのでしょうね、とリーダーは付け加える。スピーカーからXの声どころか息遣いひとつ聞こえてこない、というのは確かに異常だ。しかも、普段の『潜航』におけるXは、視覚や聴覚では捉えられないものを、意識して声に出して俺たちに伝えてくる。それがここに至るまで全くないというのは、発声、もしくはX自身の声を判断する機能になんらかの異常が発生していると考えてしかるべきだろう。
ともあれ、現象の理由はわからずとも、意味するところがわかってしまえば、そこからは普段の『潜航』と何も変わりない。Xも最初こそ動揺していたようだったが、すぐに視線を前に戻して観測の姿勢になる。X自身の姿は見えず、声も聞こえないとはいえ、『異界』の景色と音色は捉えられている。観測に支障がない、と判断したに違いなかった。
まずはこれ以上人の邪魔にならないよう、道の端に避けようと思ったのだろう、ディスプレイ越しの視界が横に向けられた……、その時だった。
「返して!」
Xの聴覚と接続したスピーカーから突如として響く金切り声。Xは自然と声の聞こえてきた方向を見る。
すると、人ごみをかき分けるように、否、いっそ跳ね飛ばさんばかりの勢いで駆けてくる大柄な男が一人。
「ひったくりよ、捕まえて!」
女の声が響き渡る。確かに、男の手には、どうにも不釣り合いな女物の高級そうなハンドバッグが握られている。
しかし、捕まえて、という女の声と裏腹に、関わりたくないとばかりに人の波が引き、男の前には真っ直ぐに道が開けてしまう始末。
まあ、それは、普通はそうだ。同じ場に居合わせたら俺だってそうする。全速力で駆けてくる、しかも見るからに屈強そうな男を捕まえようなどという猛者はそうそういない。
そうそういないはずなのだから、本当に、このひったくりは運がない。
「なっ!?」
ディスプレイの中で、つんのめるようにして足を止めるひったくり。それも一瞬のことで、次の瞬間にはその大きな身体が宙を舞い、受け身すら取れないまま地面に叩きつけられる。声にならない声を上げて、ひったくりは全身を襲う苦痛に悶絶する。
いつものことながら、その瞬間ディスプレイを見てるだけでは、何が起こってるのかさっぱりわかんないな。かろうじて、今まで観測してきたXの行動から、きっと目の前に来たひったくりを軽々と投げ飛ばしたんだろう、と推測できるだけで。
Xはそういう奴なのだ。人一倍正義感が強く、曲がったことは見過ごせず、他の誰が見て見ぬふりを決め込むような場面であっても、迷わず行動に移す。……本当にこいつ片手の指で数えられない程度の事件を起こした殺人鬼なの? 俺はいつも疑問に思うのだが、Xは殺人鬼であることを肯定しているし、現実に死刑を宣告されているのだから、事実ではあるんだろう。事実だからといって、納得できているわけではないが。
ともあれ、Xはひったくりが我を失ってのたうち回っているのを一瞥し、放り出されたハンドバッグを取り上げる。……と言っても、Xの視界に映るのは持ち上がるハンドバッグだけで、X自身の手はもちろんディスプレイには映ってはいない。
辺りの通行人たちは、ひったくりに何が起こったのか、そして、今、何が起こっているのかもさっぱりわかっていないのだろう、ひったくりの呻き声だけが響く中、足を止めて互いの顔を見合わせている。
そんな、「静止した」という錯覚すら感じさせる奇妙な静けさの中、一人だけ人ごみを縫って駆けてきた女がいる。小柄で年かさの、しかし見るからに金持ちだとわかる身なりの女。どうやらこの女がハンドバッグの持ち主らしい。
とはいえ、女も当然何が起こったのかなどわかりようもなく、倒れているひったくりを見て目を丸くする。
「一体、何が……、あら?」
女の視線が持ち上げられる。その視線の先にあるのは、Xの手の中にある――つまり、きっと宙に浮かんで見えるのだろうハンドバッグ。
女がハンドバッグに手を伸ばす。Xはきっと、丁寧な所作でその手にバッグを握らせたに違いない。ディスプレイからは、女の細い指がハンドバッグを握ったという事実しか伝わらないのだが、あいつならきっとそうする、俺はそう思っている。きっと、リーダーも、他の面々も、俺とそうかけ離れたことは考えてないだろう。
Xは、女が確かにバッグを受け取って胸の前に抱えたのを見届けて、背を向ける。視界の端から、通報を受けたのだろう警官が駆けつけるのがわかったが、Xはもうそちらを振り向きはしなかった。警官が来たとわかった通行人たちも、硬直を解いてそれぞれの目的のために再び動き出す。この調子ならすぐに先ほどまでの賑やかな商店街に戻るだろう。
――ただ。
「ありがとうございます、旅の方」
ざわめきの中、ぽつりと聞こえた感謝の声。
聞こえていなかったはずはないだろう。スピーカーから聞こえてきた以上、Xが知覚しているはずの声だ。しかし、Xは振り返らなかった。
あの女には、もしかしてXが見えていたのだろうか? そして、仮に見えていたとして、Xがここではない場所から来た「旅人」であると、どう判断したのだろうか?
いつだって『異界』は俺たちの物差しでは測れない。それを当事者として一番よく知る異界潜航サンプルたるXは、今度こそ道の端を選び、人とぶつからないように歩を進める。
今日の観測は、始まったばかりだ。