01:傘
今日も今日とてリーダーは、サーバーマシンに繋がるディスプレイを睨む。
でっかい画面に映し出されているのは、雨の光景だ。降りしきる雨。英語で「猫や犬が降る」みたいな言い方があったと思うが、まさしく雨に混ざって何が降っていてもおかしくないような、激しい雨。
ディスプレイと同じように設置されたスピーカーからも、聞こえてくるのは雨の音ばかり。何も聞こえないよりは数百倍マシだが、視覚からも聴覚からも、雨が止む様子はまるでない。このまま延々と雨宿りを続けるようでは、観測も何もあったものではないな、と思う。リーダーの目つきがやや厳しいのも、そういうことだ。
俺が今見ているのは、研究室の中央に鎮座ましますサーバーマシン――の形をした異界潜航装置に繋がれている、異界潜航サンプルXが見ている光景だ。今、寝台に横たわっているXは肉体だけの存在であり、その意識は『異界』へ赴いている。そして、視覚はディスプレイに、聴覚はスピーカーに、それぞれ出力されるようになっている。
俺たちが直接『異界』に向かうことはない。「行きはよいよい帰りは怖い」は異界研究者の合言葉だ、帰ってこれなきゃ研究にならん。そして、使い捨ての生きた探査機として選ばれた死刑囚Xの目を通して『異界』を観測してきた結果、俺たちの認識はそう的外れでもないと思い知っている。Xが今もサンプルを続けているのは、「Xが優秀なサンプルだから」以外に理由がない。別の誰であっても、きっと、ここまで長続きはしないだろう。それは俺だけじゃなく、プロジェクトメンバーの総意だ。
リーダー、とにかく運がいいんだよな。初手の初手で、こんな使い勝手のいいサンプル引き当ててくるんだから。リーダー曰く、番号と顔写真、人物についてのごく簡単な所感、それから拘置所での素行について書かれた死刑囚のリストから選んだとのことだから、人柄も能力もわかってなかったろうに。
そのリーダーは、しらじらとした綺麗な横顔をディスプレイに向けたまま、小さく唸る。
「もどかしいわね、ずっと足止めを強いられるのも」
「けど、俺らが何できるわけでもないっすからね」
俺は軽く肩を竦める。
そう、ひとたび『潜航』が開始されれば、俺たちにできることは有事にXを『こちら側』に引き上げることだけで、Xと連絡を取ることすらできない。聴覚は共有しているため、X自身の発言でXの意図をこちらに伝えることはできるが、それだけだ。
当然、
「傘の差し入れでもできればいいのにね」
リーダーの言葉なんて、夢もまた夢なわけだ。
「そもそも、リーダー、今日傘持ってます? また忘れたとか言わないでくださいよ」
「まだ根に持ってる?」
リーダーが苦笑する。ちょっと前に、突然の雨に際して、リーダーが「傘を忘れた」と言い出したことで俺はとんでもない目に遭ったのだ。根に持ってる、とまでは言わないが、ちょっぴり棘が混ざるのは許してほしいと思う。
ともあれ、俺らがそんな叶わない話をしている間も、『異界』のXは不毛な雨宿りを続けていたわけだが――。
「雨ですね」
不意に、スピーカーから声が聞こえた。女の声。「そうですね」というXの声とともにディスプレイの景色が動く。ただ雨の降る光景から、Xの横、いつの間にかそこに立っていた紺のセーラー服姿の女子に。
いつからそこにいたのだろう? いたとして、Xはどうして気づかなかったのだろう?
そんな問いかけは、きっと無意味なのだろう。『異界』ではどのようなことも起こりうる。『こちら側』の常識など通用しない、ということは今までのXによる観測、そして俺自身の間接的な経験から明らかだ。
ディスプレイの中の女子は、どうやら折り畳み傘も持たないでほっつき歩くリーダーとは違い、随分準備がよかったらしい。雨宿りまでに既にずぶ濡れになっていたXに、鞄から取り出した真っ白のタオルを差し出してくる。
「使ってください」
「しかし、」
「持っていってもらって大丈夫ですよ。私の分は、別にありますから」
あいにくの天候とは裏腹に、晴れやかな笑顔。とびきりの美少女とまではいわないが、かわいい子だと思う。顔立ちもそうだが、何よりも屈託のない表情が。
Xは躊躇いながらも「ありがとうございます」と素直にタオルを受け取り、がしがしと顔と頭を拭き始める。当然頭だけじゃなくて全身濡れているはずだが、そりゃあ、人に見られながら拭くようなものでもないよな。Xの視界の中で、セーラー服の女子はじっとXを見つめ続けているし。
そして、Xが手を止めたところで、ぽつぽつと、本当にちょっとした話が交わされる。
Xは『潜航』に関しては右に出る者のないプロフェッショナルと言っていいが、数少ない欠点として、人とのコミュニケーションにやや難がある。自分から口を開くことは少なく、仮に会話をしても『異界』の住民から詳細に彼ら自身の話を聞きだす、ということはほとんどしない。ごく稀に、積極的な聞き込みをすることもあるが、それは「必要に駆られて」であり、得意じゃないのだろう、ということはわかる。
だから、今回もそう、『異界』についてわかったことといえば、ここが特に雨の多い土地であるということ、故に傘を持たないのは余所者くらいであるということ、そのくらい。
Xの視線が、女子の持つ空色の傘に向けられる。
ほとんど晴れないというこの『異界』において、「傘を差している間だけでも、空の青を思い出せればいい」とセーラー服の女子は朗らかに言う。
それに対して、Xはといえば。
「それは……、素敵です」
と、何とも素朴な感想を言葉にした。
「どれだけ激しい雨の中でも、傘を差せば、そこだけは晴天になるんですね」
Xは、いつだって、不器用ながらもごくごく素直な感性を滲ませる。これでどうして殺人鬼なんてやってられたんだ、と思うくらい、Xの言動はいたって真面目で、真っ直ぐだ。
セーラー服の女子はXの言葉に更に笑顔を深めて、傘を差した。鈍色の景色に鮮やかに映える空色を肩にかけ、Xに語り掛けてくる。
「ご一緒に、どうですか」
それは、Xにとっては――そして、観測する俺たちにとってもまたとない申し出だったはずだ。しかし、Xは首を横に振った。
「いえ。お気持ちだけ、受け取っておきます。行き先も、まだ、決めていないので」
Xの意図は俺にはわからない。ただ、そう言ったってことは、多分、こいつなりの理由があるんだろう。いつだって『異界』での判断はX任せだし、その判断は大概において外野の俺らよりよっぽど正しい。
いや、相合傘で痛い目に遭った俺を見て、Xなりに思うことがあった、と言われてもそれはそれで納得してしまうのだが。
「タオル、ありがとうございました」
「助けになったなら何よりです。それでは、さようなら、旅人さん」
「さようなら」
交わされる別れの言葉。そして、屋根の下から雨の中へと歩み出したセーラー服の背中が、ふわりと浮かぶ。空色の傘に導かれるように、高く、高く、昇っていく。
そう、『異界』では何が起こるのかわかったものではない。『こちら側』の何かと似た姿形をしていても、同じものとは、限らないのだ。
雨の中にぽっかりと浮かぶ空の青とセーラー服姿に切り取られた影。それが遠ざかり、雨の向こうに消えていくまで、ディスプレイから目を離すことができなかった。