灯火の行列

 闇に包まれた森の中、柔らかな明かりがあちこちに灯っている。
 Xの嗅覚を我々が共有することはできないが、おそらく植物特有の香りを捉えているに違いない。いつかは嗅覚も再現できるようになればいい、とは思うが、エンジニアの意向により後回しになり続けていることを思う。
 そんな暗い空間で、鳥のような頭の、しらじらとした二足歩行の生物が腕に当たる部分に不思議な光の入ったランプを提げ、ゆっくりと一方向に向けて歩いていく。その只中に『潜航』したXは、鳥頭の生物たちが歩いていく方向を見つめていた。
 すると、ディスプレイに映し出されているXの視界が少し下がる。見れば、一般的にさして高いとはいえないXの背丈よりも頭ひとつふたつほど低い背丈の鳥頭が、ひとつのランプをXに差し出していた。
「……私に?」
 Xの唇から、低い声が漏れたのがスピーカー越しに聞こえた。鳥頭は、意味の取れない音のようなものを立てて、ランプをぐいとXに押し付けてくる。熱は感じないらしく、Xは腹でランプを受け止めて、恐る恐るといった様子でそれを手にする。
 一体どのような仕組みで光っているのだろう、ディスプレイに映し出された情報だけで察することはできない。そして間近で見ているXにも判断できなかったに違いない、目の前にかざしてみたり、軽く振ってみたりするが、光は消えることなく柔らかく辺りを照らし続けている。
 Xは少し逡巡してから、ランプを片手に一歩を踏み出す。枝と下草を踏む音がスピーカーからわずかに響く。
 ざわざわと、人ではないものの声にならないざわめきに満ちた『異界』において、Xは一点に向けて歩き出す。鳥頭の生物たちが、向かう先へ。
 
 
 ――『異界』。
 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
 それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
 今日の『異界』は闇に包まれた深い森。完全な暗闇ではなく、辺りに灯る不思議な明かりが道を示している。Xも踏み固められたそこを歩き続ける。周囲の鳥頭の生物たちは歩くXを物珍しそうに見上げたり、もしくはXなど存在しないかのように他の鳥頭とぺちゃくちゃ知らない言葉で喋り続けていたりと、反応は様々だ。
 Xは周囲の歩幅に合わせるように、ゆっくりとしたペースで足を進める。森の景色はいたって単調で、辺りを取り巻く闇は深い。それでも、Xと鳥頭たちが手にしたランプの明かりが決して道を見失わせない。幾重にも重なり合う影が、足下で揺れているのをディスプレイ越しに見るともなしに眺める。
 ざわり、ざわり。Xを取り巻く鳥頭の行進は続いていく。どこまでも、どこまでも。Xの他に「ひと」らしきものは見えず、ただただ皆一様に見えるしらじらとした鳥頭だけが暗闇に揺れている。
 一体、この行進はいつまで続くのだろう。『異界』にいるXに我々の声は届かない。できることは、目には見えない命綱を手繰ってXを『こちら側』に引き上げることだけだ。故に、『異界』において全ての行動はXの判断に委ねられている。『潜航』の制限時間内は、Xが引き上げを合図しない限り――もしくはこちらで緊急事態だと判断しない限り、引き上げは行われない。そして、Xはまだこの行進を続ける気であるらしい。
 ゆっくりと、行列は動いていく。もしくは、動いているようで静止しているのか。そう錯覚するくらい、変わり映えのない風景。辺りを取り巻く鳥頭たちが皆同じ顔をしているのも、そう思わせる要因かもしれない。
 その時、不意にこちらを見上げていた鳥頭が、嘴を開いた。そこから零れ落ちるのは声と表現していいのかもわからない音の羅列。それに対して、Xはランプを翳したままぽつりと声を落とす。
「     」
 それは。
 私には、言葉とは到底思えない、音の羅列。
 次の瞬間、Xも自らが何を言ったのか気付いたのだろう。口を自らの手で押さえようとした……が、ディスプレイに映りこんだその手が妙にしらじらとした、そう、目の前でこちらを見上げる鳥頭と同じ指をしていたことに、気付く。
 Xの声が、スピーカー越しに響く。
「    、    」
 だが、それはどうにも意味をなさなくて、私の背筋にも冷たいものが伝う。
 ああ、そうだ、私もおかしいと思ったのだ。
 目の前の――そして周囲の鳥頭は、こんなに大きかっただろうか?
 それとも、『Xが縮んでいる』のか?
 Xは足を止めた。すると、同時に鳥頭たちの行列も足を止める。そして、今までこちらに無関心であったはずの無機質な目が、一斉にXに向けられるのを、見た。見てしまった。
 ざわり。Xを取り巻く輪が、一歩、狭まる。その間にも、Xの目の前に翳した手が形を変えていく。もしくは、Xの全身が、姿を――。
「……っ、『引き上げて』、『ください』!」
 それは、今度こそ私たちにもはっきりとわかる言葉で放たれた、Xの合図だった。
 私は場のスタッフたちを見渡して、準備が完了していることを確かめて命じる。
「すぐに引き上げて!」
 目には見えない命綱が巻き上げられる。ディスプレイとスピーカーにノイズが走る。
「引き上げシーケンス、クリア」
「意識体、肉体への帰還を確認」
 スタッフの声が聞こえるのとほとんど同時に、寝台に横たわっているXの体がびくりと跳ね、ぱくぱくと口を開いて二、三回深く呼吸をしたところでやっと我に返ったのだろう、ゆっくりと瞼を開く。
 繋がれていたコードが外され、スタッフたちの視線を受けながら、Xはもう一度深呼吸をして上体を起こす。手錠に繋がれた両手を握って、開いて。その手の感触を確かめているように、見えた。
「大丈夫?」
 イエスとノーで答えられる質問に対しては、Xは首の一振りで答えられるが、私の問いかけに対してXはどちらとも答えはしなかった。ただ、寝台の上に腰かけてぼんやりと自分の手を見つめ続けている。
「X」
 彼のサンプルとしての記号を呼びかけたところで、Xはやっと顔を上げた。
「発言を許可するわ。何があったの?」
「……はい。と言っても、私にも、何が起こったのかは、わかりません。『見ての通り』だとしか、言いようがなく」
 見ての通り。
 確かに私もディスプレイの上で、Xの形が変わろうとしていたのを目にした。意識体とはいえ、Xにとっては自らの肉体が変容するのと同じ感覚を伴っていたに違いない。故に、『こちら側』の肉体と意識が合一した今、その感覚の差異に戸惑っているようにも見えた。
「そう。私たちは得られたデータの解析を行うわ。その間、あなたはゆっくり休んで」
 他のサンプルを選出してもよいが、Xほどの従順なサンプルはそういない、というのが我々プロジェクトメンバーの共通見解だ。故に、Xが我を失うようなことは、可能な限り避けたいところだった。
 Xはひとつ頷くと寝台から下りようとして、足を床についたところで激しい音を立てて倒れ込んだ。X自身、自分が何故倒れたのかわからなかったのか、目を見開いてぱちぱちと激しく瞬きしている。
 まだ、意識と肉体との感覚が一致していないのかもしれない。私はXの前に膝をつき、手錠に繋がれた手に触れる。
「……大丈夫じゃなさそうね。立てる?」
 Xの手が、探るように、確かめるように、私の手を握る。その手が思ったよりもずっと温かくて、思わずXを見つめてしまう。Xは私の手を頼りに立ち上がろうとするが、思ったように動けないのかもぞもぞと床の上を這うばかり。
「リーダー、ここは俺たちが」
 スタッフが二人がかりでXの体を支えたことで、Xの手が私から離れた。Xは不思議そうに目を瞬かせていたが、やっと足の感覚を取り戻したのか、自分の足で立ち上がることができたようで、頼りない足取りながらも一歩ずつ歩みを進める。
 そして、研究室の入口で待っていた刑務官が、Xの腕をほとんど捻るように取り上げる。Xは慣れ切ってしまっているのか、顔色一つ変えなかったけれど。
「行くぞ」
 Xは刑務官に引きずられるようにして、研究室を後にする。その際に、何か言葉を残すことはしなかった。元より、許可されなければ口の一つも利こうとしないのだから、当然とも言えたが。
 私は、つい、先ほどXに触れた手を握って、開く。Xがそうしていたように。
 そうすることで、何が変わるわけでもない。そういえば、自分からXの体に触れたのはこれが初めてだったのだと、気付いただけで。