靴 / Unison - Cinderella's Whereabouts

 二三七〇年十月某日
 
 
 ここ一週間にかけて降り続いていた雨は、いつの間にか止んでいた。
 邪魔になっちまった傘を片手に、馴染みの酒場を後にする。昼間っから何飲んだくれてるんだ、と親父に嫌な顔をされたが、遠出の仕事を一件片付けた後なんだ、少しくらいは見逃して欲しいもんだ。
 微かにふらつく足で、水溜りを踏んで、酒場の裏手に足を踏み入れる。普段は、俺と同じような酔っ払いがごろごろしている路地も、毒混じりの雨が過ぎ去ったばかりだからだろう、人っ子一人見えない。
 いや、それは間違いだったと、一拍置いて気づく。
 薄汚れた裏路地の中で、一人だけ、やけに目に付く女がいた。
 突き出した屋根の下に並べられた、空き箱の一つの上に座った、黒い女。
 別に、俺が目を奪われるほどのいい女ってわけじゃあない。そりゃあ、外周の寂れた路地裏には似合わない、小奇麗な格好をしてはいるが、シルエットを見る限り圧倒的に艶っぽさが足らないし、細すぎる身体の線も好みじゃない。
 だが、どうしたって、そいつは俺の目を引いた。
 身体のラインをくっきりと浮き立たせる喪服に、幅広の黒い帽子に顔を隠した姿に反し、スカートから突き出しているのは、真っ白な裸足。そいつは、細くしなやかな足をぶらぶらと揺らしながら、陽気に鼻歌なんざ歌ってやがる。
 そりゃあ、俺でなくとも目を向けて当然だろう。
 そいつが歌っている歌は、俺もよく知っている。揺れるリズムの中に、微かな物悲しさを感じさせるメロディ。
 ――『私のお気に入り』。
 ぞくり、と。背筋に何やら冷たいものが走る。まさか、そんなはずはない。旧い歌とはいえスタンダード・ナンバーだ、どこで誰が歌ってたっておかしくはないはずだ。
 そう思いたがっているのに、どうしても、歌を紡ぎだす口元から目が離せない。顔の大半は見えていないが、俺は、あの唇を知っている気がする。うっすらと紅を引いた、整った形の唇。
 さあ、と雨上がりの冷たい風が、頬を撫でて。女は、帽子を押さえて、こちらに顔を向けた。
「……っ!」
 喉の奥で、呼吸が、詰まる。
 左の目を覆う、医療用の眼帯。その上にかかる、柔らかそうな白い髪。そして、こちらを真っ直ぐに見据える、片方だけの鮮やかな紫苑の瞳。
 写真でしか見たことはないが、見間違えるはずもない。こいつは、こいつは。
 固まって声も出せずにいた俺が不思議だったのか、女は目をぱちくりさせて。花が咲くように、にっこりと、笑ってみせた。
「こんにちは、雨が止んでよかった。そちらはお仕事帰り?」
 女の唇から飛び出したのは、鼻歌の延長上とも思える、馴れ馴れしい言葉。初対面の女に、そんなことを突然聞かれる覚えもない。だが、不思議と不快感はなかった。
 きっとそれは、この女と顔を合わせた瞬間、初めて顔を合わせた気がしなかったから。俺の行く手には、いつもこいつの名前や顔がちらついていたってこともあったが、それ以上に、上手く言葉では言い表せない感覚が、この女に対する警戒心を薄れさせていた。
 もし、顔を合わせたら、色々と聞き出したいこともあった。どうして、辺境から《鳥の塔》に招かれたのか。どうして、今まで姿を現さなかったのか。どうして、どこぞの誰かさんに荷物と手紙を託していたのか。
 けれど、実際にこうして出会ってみると、その言葉は全部無粋で馬鹿馬鹿しい質問に思えてくる。何より、この酔った頭では、上手い質問なんか思いつかないし、話を聞いたところでろくに覚えてなんかいられないだろう。
 だから、酒の勢いも手伝って、舞台に引きずり出された大根役者を気取り、女の座る箱に体重を預ける。
「ま、そんなとこだ。お前さんは?」
「わたしは、お墓参りの帰り。でも、靴が壊れちゃって」
 ほら、と女が指差す先には、石畳の上に転がった、一足の黒い靴があった。こいつの言うとおり、片方はヒールが根元から完全に折れちまってる。確かにこれじゃあ、まともに歩けやしないだろう。
 裸足の爪先に、靴を引っ掛ける。ぷらんと揺れた靴は、すぐに石畳の上に落ち、毒混じりの水溜りに波紋を広げた。
「だから、ここで雨宿りしてたんだけど、これからどうしようかなって思ってたとこ」
 そう言った女の手元に、何かが丸められていることに今更気づく。それから、数拍数える間に、それが「何」であるのかを悟ってしまった。
「靴はともかく、タイツまで脱ぐなよな」
「タイツって、濡れると窮屈なんだよ」
 ぺろり、と女は悪びれた様子もなく舌を出す。果たしていつ脱いだんだろうか。ここで脱いだとなれば、いくら人目がなかったとはいえ、剛の者だ。俺の好みではないといえ、その場面だけは是非見たかった。
 すると、女は身を乗り出して、俺の顔を覗き込んできた。紫苑の片目に、少しだけ歪んだ形で俺の顔が映りこむ。少しだけ眉を寄せたその眉も、目を縁取る睫毛すら、微かに紅色が混ざった綺麗な白だ。写真で見た印象よりも、遥かに鮮やかに目に焼き付く、白。
「もしかして、何かえっちなこと考えてる?」
「考えさせるようなことを言うお前さんが悪い」
 別に弁解する理由もないから、きっぱりと言い切る。女は唇を尖らせて、しばし俺を睨んでいたが、やがて「ま、いっか」と笑顔を取り戻す。
「さてと、そろそろ帰らなきゃ、怒られちゃうな」
「裸足で帰る気かよ」
「この子はもう履けないしね。少しくらいだいじょぶだよ」
 言って、水溜りの上に飛び降りようとするものだから、慌てて声を上げる。
「ちょっと待て! そこで待て、動くな」
「えっ」
 この国の雨に毒が混ざっていることなんて常識だ。いくら少しくらい濡れても問題ないとはいえ、裸足で水溜りに突っ込むなんて、どう考えてもまともじゃない。
 実際、頭の螺子がちょいと緩んでるっぽい女は、疑問符を浮かべ、小首を傾げてこちらを見ているが、構わず靴を拾い上げる。
「靴、借りるぞ」
「う、うん?」
 まだわからないのか、本当に頭が弱いのかもしれない。馬鹿な女は嫌いじゃないが、それはあくまで俺の好みだった場合で、そうでなければ単に厄介なだけだ。これ以上関わり合いにならないためにも、とっとと用件を済ませちまうことにする。
 通りを抜けて、用件を済ませて戻ってきた時、女は何だかんだで俺の言葉を守って、同じ場所に座っていた。ただ、歌っている歌は、先ほどとは違った。
 ――全ての山に登れ、全ての川を渡り、全ての虹を追え……。
 確か、これも映画『サウンド・オブ・ミュージック』の歌だったな。本当に、好きなんだろうな。黒いスカートから細い足を突き出し、背筋をぴんと伸ばして、今度は小声ながらもきちんと歌詞を載せて歌っていた。
 少しだけ上ずってはいるが、極めて絶対に近い音程。相対的な音の幅は完璧だから、聞いていて不愉快ではない。相当耳と喉がいいんだろうな、俺だって音感はあっても歌は歌えないってのに。
 とはいえ、気持ちよく歌ってるところ悪いが、俺の役目はそいつの歌を聴くことじゃない。
「ほら、これやるよ」
 ぽん、と石畳に投げ出したものを見て、そいつは歌うのを止めて、俺とそれとを交互に見やる。
「え、その、いいの?」
「雨水が掃けるまで、そこにいるつもりかよ。いいから履けって」
 俺が仕入れてきたのは、当然、新しい靴だ。ちょうど、この路地には行き着けの靴屋があったから、ちょうど同じサイズの靴を見立ててもらった。とはいえ、靴屋にあったものから選ぶしかなかったから、喪服には到底似合わない真っ赤な靴だったが。
 それでも、女はぱっと笑顔になって。
「嬉しい、ありがとう!」
 どこまでも、真っ直ぐな感謝の気持ちを、投げかけてくる。その言葉のこそばゆさに、鳥肌の立つ感覚に襲われて、つい目を逸らしてしまう。
 ああ、そうだ、こいつはガキと一緒だ。嘘もごまかしもない、ただただ剥き出しの思いを、言葉と音でぶつけてくる。それがプラスでもマイナスでも、どうにも刺激が強すぎて、目を逸らさずにはいられない。
 とはいえ、女は俺がどう思ってるかなんて、知ったこっちゃないのだろう。鼻歌混じりに赤い靴に真っ白な爪先を滑りこませ、石畳の上に立ち上がる。薄く広がった水溜りに、波紋が広がる。
 踊るように、その場でくるりと回った女は、俺に笑いかけてくる。
「ぴったりだよ」
「そりゃそうだ、こっちの靴と同じサイズなんだから」
「本当の本当に、貰っていいの?」
「しつこいな。いいって言ってんだから、素直に貰っとけ」
「うん」
 もう一度、ありがとう、と今度は小さな声で囁いて。女は、そっと手を差し伸べてきた。
 真っ白な、触っただけで壊れちまいそうな、枯れ枝のような指先。本当は俺も手袋を外すべきなのかもしれないが、そのまま、差し出された手を軽く握る。すると、女は両方の手で俺の右手を包み込んできた。
 その瞬間、微かな違和感が手袋を通して伝わったが、その正体を知る前に、女の手が離れた。
 女は、晴れやかな笑顔を浮かべて、俺を見つめる。眼帯で覆われていない、紫苑の瞳が俺を見ている。遠くの喧騒と、お互いの呼吸の音だけが支配する静寂に、俺にしか聞こえないノイズが――。
 途端、ぐらり、視界が揺らぐ。気づいた。気づいてしまった。
 歌と螺子の外れた言動に気を取られて意識が及んでいなかった、この女の、音色に。
「……なあ、お前」
 言いさした俺の唇に、女の指先が当てられる。その指先の冷たさに、俺の疑惑は確信に変わる。
 女は初めて、俺のよく知った表情で、にやりと笑って。
「それじゃ、またね、隼」
 ごく正しい発音で、俺の名前を呼んで。
 背を向けた女は、喪服の裾を翻し、赤い靴を鳴らして駆けていく。俺は思わず手を挙げて呼び止めようとしたが、すぐに、そいつの背中は路地を折れて消えてしまった。
 伸ばした手が、力なく、落ちて。
 俺は、一瞬前まで女が座っていた箱に、へたり込むように座っていた。
「ああ……、くそっ」
 悪態だけが、唇をついて出る。
 どうして、どうして今この瞬間まで、気づかなかったんだ。聞こえていた音色は、どこまでも、「いつも通り」だったというのに。
 耳の奥の奥にまで響き渡る、柔らかな音色。いつだって、ほとんど音色を変えることのない、ノイズというにもはあまりにも透き通ったファゴットが奏でるCの音律と、丁寧な呼吸の気配。
 その呼吸を真似て、肺の奥深くまで息を吸い込んで、吐き出す。
 俺は、あの女を知らない。名前と、姿形を知っているだけで。家族と歌と絵本を愛していることを、知っているだけで。そんな女は知らない、俺には関係ない、と何度も繰り返していたというのに、心のどこかで知った気になっていた。
 そいつを抱きしめたときの温度も、鼓膜の奥に響く音色も、知らないくせに。
「シンデレラの行方は、誰も知らない――か」
 誰かさんの言葉を借りて、足下に転がった靴を軽く蹴飛ばす。靴は軽くバウンドして、地面に溜まった水が一緒に跳ねる。
 それでも、靴は何も語らない。魔法使いが用意した魔法の衣装なら、不思議な力で何か語ってくれたのかもしれないが、確か硝子の靴だけは魔法でなく本物だった。だからきっと、シンデレラの行方なんざ、教えちゃくれない。ここにある靴だって、同じだ。
 その代わり、十二時の鐘が鳴っても、決して消えやしない。
 奴は、どういうつもりで、俺の前に姿を現したのだろう。そして、言葉を交わそうなんて思ったのだろう。
 少しだけ考えかけたが、やめた。
 考えたって、わかるはずがない。俺が、結局のところ九条鈴蘭のことを何一つ知らなかったように。どこぞの誰かさんのことを、その音色でしか判断できないように。そして、いつだって、俺には判断しきれないように。
「全く、わけわかんねえ奴」
 吐き捨てるように呟いて、立ち上がる。
 酔いはすっかり醒めてしまった。いい気持ちで眠るためにも、もう一件寄ってから帰った方がよさそうだ。
 あの女の抜け殻みたいな靴に背を向け、一歩を踏み出して、立ち止まる。
『それじゃ、またね、隼』
 頭の中でリフレインする、震えるリードの音色と歌うような声。
 そうか、確かに奴は、「またね」って言ってたな。
 自然と口の端が歪み、あの女がいた場所を振り向いて――。
 
 
 以来、助手席の椅子の下に、あの靴を置いたままにしてある。
 それ自体に意味があるわけでもない。俺が女物の靴を履くわけがないし、そもそも踵の折れた靴なんて、使い物にもならん。
 だが、それが、どこぞの誰かさんへの、ささやかな意趣返しになると信じて。
 俺は、今日も愛車にキィを差し込む。


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