眼球 / Minor Third - The Multitude of Colors
二三六五年二月某日
俺は、頼まれた荷物を携え、巨大な屋敷の前に立った。
荷物――小ぶりのトランクには、『取扱注意』などと書かれたステッカーが所狭しと貼られていて、妙に不気味だ。中身を詳細に確認していない以上、尚更だ。
だが、目の前の屋敷も、ところどころ窓が破れ、壁のほとんどが黴とも何ともつかない黒いもので覆われている辺り、不気味さ、という意味ではいい勝負かもしれない。
中で待ち構えているものがある程度予測つく分、この屋敷の方が、幾分マシだとは思っているが。
門に取り付けられた呼び鈴を鳴らし、返答を待つ。すると、門の上にちょこんと乗せられていた、鳥の嘴みたいな変な形をしたスピーカーから『あー、ハヤトいらっしゃーい。鍵は開いてるから奥までどうぞ』という気の抜けた女の声が降ってきた。鍵開いてんのかよ、このご時勢に無用心にもほどがある、と思いかけてやめた。
聞こえたわけじゃないが、無数の、刺さるような視線を感じたのだ。当たりをつけてそちらを見れば、ごくごく小さな写真機がじっとこちらを見つめていた。きっと、同じようなものがいくつも、屋敷の周りや中に設置されてんだろう。
もし、少しでも怪しげな動きをすれば、どこかに隠された家主謹製の玩具が、情け容赦なく俺を切り刻んでくれるに違いない。そして、無残な姿になった俺を見下ろして、玩具が思い通りの働きをしたことを、無邪気に喜ぶんだろう。
ウィン――《赤き天才》ウィニフレッド・ビアスとは、そういう女だ。
前に訪れた時よりも遥かに汚くなっている廊下を抜け、研究室に入る。用途不明のガラクタと、それを無理やり押し分けて作った片隅のスペースに置かれた大きな机と小さな椅子。その椅子に、白衣を纏った赤毛の女が、俺に背を向けて座っていた。
ガラクタが圧倒的に増えていること以外は、前に来た時と、何も変わらないように見える。だが、言葉にならない明らかな違和感が、そこにあった。思わず眉を顰めてしまうが、振り向いたウィンはそれに気づかなかったのか、童顔にぱっと笑みを浮かべた。
「いらっしゃい、ハヤト。何ヶ月ぶりかなあ」
「ほぼ一年ぶりだと思うけど」
「そっかあ、あたし、しばらく塔に篭りっきりだったもんねえ」
唇に人差し指を当てて、とろんとした目を瞬かせる様子は、どう見ても二十歳そこそこの娘にしか見えない。だが、俺が物心ついたころから、この女は何一つ変わっていない。塔は、その頭脳をもてはやすより先に、こいつが老化に真っ向から逆らっている不思議を追究すべきなんじゃなかろうか。
机の横に置かれた、無数のコードと細かな機械仕掛けの箱、妙な存在感を誇る球体で構成されたガラクタを何となく眺めながら言う。
「そっちは、塔の仕事はいいのか?」
「うん。最近、長期休暇貰っちゃったんだあ」
いいでしょう、とばかりにウィンは胸を張る。大きな胸の上で、白と黒の鍵を模したペンダントが揺れていた。
「長期休暇って、上はいい顔しなかっただろ」
「うん、今抱えてるプロジェクトどうするんだ、って言われたから、ミシェルとハルトに押し付けちゃったあ」
ハルトには悪いことしちゃったかなあ、とのたまうウィンだが、その顔に悪びれた様子は全くない。あと、軽く言ってくれるが、ミシェル・ロードとハルト・ガーランドといえば、それぞれ塔の研究者の二大勢力、環境改善班、環境適応班のトップだ。そんな偉い奴に仕事押し付けてのうのうと休暇を満喫しているとか、普通の神経じゃ到底無理だろう。
正直、ミシェル・ロードに関しては「ざまあ見ろ」と言いたいところだが。
「でも、上の人が指示する仕事ばかりしてるのも、飽きちゃったから。たまには、好きなことを好きなだけやる時間が欲しかったんだよう」
「塔でも、好き勝手やってるくせによく言うぜ」
「ばれたか」
てへ、と唇を出すウィンに、俺はただ、溜息を返すことしかできない。
どんなに阿呆なことを言っていても、どんなにただのガキにしか見えなくても、目の前の女は、《鳥の塔》の最重要人物の一人。旧時代にも成しえなかった科学技術の発展を、たった一人で担っていると言ってもおかしくない、至高の「頭脳」だ。
高度な人工知能の作成、超能力の仕組みの解明、大型食糧プラントの開発に、情報網の整備と拡張現実との融合。ちいさな枠組みに囚われることない、自由奔放な発想から生み出される新たな技術は、ただ終わり行くのを待つばかりと思われていたこの国にいくつもの希望をもたらしている。
俺が今、こうして仕事をしていられるのだって、この女のおかげだ。
だからこそ、こういう時には、逆らうこともできないのだが。
「で、でででっ! 例のものは持ってきてくれたかな?」
椅子から跳び上がって、俺の目の前に顔を寄せるウィン。化粧っ気はないし、決して美女とも言えないが、小動物のような愛嬌のある大きな目が、こちらを覗き込んでくる。居心地の悪さに目を逸らしてしまいながらも、片手に持ったままだったトランクを押し付ける。
「ほらよ。扱いには気をつけろ、って人形屋の爺に散々言われたよ」
「うんうん、そうだろうねえ。ありがと、ハヤト」
いいこいいこしてあげよう、と丸っこい手を伸ばしてきたのを思わず避ける。そりゃあこいつの頭ん中ではガキのままなのかもしれんが、現実にはもう二十代も後半だ。いつまでも子ども扱いされてちゃたまらない。だから、伸ばしてきた手に、代わりにポケットから取り出した契約書を握らせる。
「荷物の中身をご確認のうえ、書面へのサインと支払いをお願いします」
「はいはい」
ウィンは苦笑して、トランクを開ける。中身は『ウィンの発明品の材料』としか聞かされておらず、一応詰め込むところは確認させてもらったが、新聞紙やら何やらで厳重に包まれていて、結局何なのかはわからないままだったのだ。
「あー、俺は、中身見ないほうがいいか?」
念のため聞いてみたところ、ウィンは「どうして?」とばかりに首を傾げて言った。
「見てていいよ。隠すようなものでもないしねえ」
一つの包みを持ち上げたウィンは、机の上で紐を解いて、紙を丁寧に剥がす。
紙の中から現れたのは、口の広い硝子の瓶だった。中には液体が満たされているようで、そこに沈められているものを確認したところで、思わず、己の目を疑った。
「……それ、何だ?」
「見ての通りだよ。眼球。つくりものだけどね」
それは、わかる。つくりものだってことは、わかる。それでも、聞かずにはいられなかったのだ。
瓶の中に入っていたのは、紛れもなく人間の眼球だった。きっと、材質は硝子か何かだろうが、細い血管まできっちり再現されていて、今まさに人間の顔から抉り出したかのような不気味さを湛えている。
だが、ウィンにとっては、こんなもの不気味でも何でもないんだろう。瓶を明かりに翳し、嬉しそうに歌っている。
「色々あるよ、あか、あお、みどり。あっ、この色も綺麗。ほらほら」
嫌々、ウィンが指した方を見ると、瓶の中の眼球と目が合った。どこぞの新米『新聞記者』と同じ、紫苑の瞳をした、眼球と。
一瞬頭の中に浮かびかかった、ぽっかりと穴の空いた目でこちらを振り向く幼馴染のイメージを追い払い、正直な感想を言葉にする。
「悪趣味だ」
「そうかなあ」
ウィンは俺がどうしてそう思ったのかもわかっていないらしく、不思議そうに首を傾げている。
「で、こいつを何に使う気なんだ。あの変態爺よろしく、人形作りにでも目覚めたのか?」
「うん、大体そんな感じで間違ってないよ」
ぺたぺたとスリッパを鳴らして、ウィンは部屋の真ん中に置かれている作業台に向かう。向かいながら、俺が聞いているかどうかなんて関係なく、話を続ける。
「この目は、元々等身大の人形に使う人工眼球なんだけど、これを少し弄くって、この子に取り付けたいんだあ」
言って、ウィンは作業台の上にかかっていた布を外す。その上に横たわっているものを見て、俺は思わず「うえ」と嫌な声を上げてしまった。
――人間だ。
作業台に横たわっていたのは、青白い肌を持つ人間だった。身体を覆うものは何もなく、体毛も、男の象徴も、女らしい凹凸もない身体を晒している。頭部は丸ごとくりぬかれていて、鋼の頭蓋骨の内側がいやに目に付く。頭蓋骨には、無数の針や金属の紐のようなものが仕掛けられていた。
流石に、これも眼球と同じつくりものだってことくらいは、すぐにわかった。だが、皮膚の細かな皺や、手足の爪とその付け根まで人と変わらないのだから、その精緻さに舌を巻くと同時に、嫌なものを見てしまったと思わずにはいられない。
どうしてかは上手く説明できないが、人と同じ形をしているものってのは、どうも好きになれそうにない。
だから、その死体じみた人型のものから目を離し、ウィンを見る。ウィンは俺の不愉快な感情なんかさっぱり理解しちゃいねえんだろう、大きな胸を張って言う。
「よく出来てるでしょ? この子を造るために、わざわざお休み貰ったんだから」
「ああ、まあ、確かによく出来てんな。こいつ、動くのか?」
「それが、まだ動かないの」
俺の問いに、ウィンは打って変わってしゅんと俯いてしまった。
「神経の接続が、なかなか上手く行かなくてね。でも、あと少しだと思うんだよ。それが成功すれば、この眼球も、きっと役に立ってくれるんだけど。ただ、そのためには一旦回路を切断して、別の領域から仮に……」
いつの間にか、ウィンは眼球の浮かぶ瓶を撫で撫で、俺ではなく自分自身との会話を始めてしまった。この女にはよくあることなので、別段不思議でも何でもない。ただ、会話の相手がいきなりいなくなると、目の前に広がる光景の不気味さと、ずっと感じている違和感を意識せずにはいられない。
背中がちりちりする、嫌な感覚。別に目に見えてさえいれば、もしくは「何も感じなければ」こうも意識する必要はないのだろうけれど。
流石に、耐え切れなくなって、虚空と会話を続けていたウィンに向かって、声を上げる。
「さっきから、気になってんだが」
「ん? どしたん?」
「この部屋、誰か隠れてんじゃねえか」
俺の言葉に、ウィンはただでさえ大きな目を、零れ落ちそうなくらい見開いた。
「どうして?」
「二人分聞こえんだよ。聞きなれねえ音だ」
それが、違和感の正体だった。だが、最初は、それが「この部屋にいるだろうもう一人の音」であることも分析しきれずにいた。言葉を切って、黙って音の出所を探って、初めてここまでわかったのだ。
確かな違和感を感じさせつつも、その音は、それこそ空調の立てる音や、風が窓を叩く音とそう変わらない自然さで、部屋の雰囲気に溶け込んでしまっていたから。普通、人が立てる音というのは、もっと主張が激しいものなんだが、この部屋に流れ続けている音は丁寧な息遣いで奏でられる、静かなCの音色。
すると、ウィンは、すぐに声を上げて笑い出した。
「あはは、やっぱりハヤトは鋭いなあ。仕掛け、聞きたい? ねえ、聞きたい?」
にやにやと笑顔を浮かべて、迫ってくるウィン。「聞きたい」と聞かれたら「聞きたくない」と答えたくなるのが人情ってもんだが……。
「このまま隠れて見られてるなんて、気色悪ぃからな。聞かせてくれ」
「別に隠れてなんていないんだよぅ。ずっと、ここにいるんだからね」
ここ、と言われても。
俺の視界に入るのは、用途のわからないガラクタと、強いて言えば作業台に横たわる人の形をしたつくりもの。だが、音の出所がそれでないことくらいは、わかる。目の前の人型細工は、死体と同じようにただそこに在るだけの「もの」に過ぎない。
ただ、いくら耳を澄ませても、音がどこから聞こえているのかは、さっぱりわからないのだ。隠れていない、というウィンの言葉も引っかかる。思わず眉を顰めてしまうと、ウィンはこつこつと、俺のすぐ側に置かれていた装置を指先で叩いた。
機械の箱が繋がれた、鋼の球体。ガラクタの中でも、妙な存在感があると思ったそれに意識を向ければ、確かに、音が聞こえてくる。柔らかく広がる、Cの音が。
唇と喉が渇く。握った手に冷たい汗が滲む。こんな感覚は、初めてだった。人の形をしていないものから、音色が聞こえてくる、なんて。
視覚と聴覚の決定的な齟齬に混乱しながらも、かろうじて、問いを投げかける。
「――それ、何だ?」
「人間の中身。もちろん、生きてるよ」
今は眠ってるみたいだけどねえ、と、球体に繋がった積層モニタに浮かぶ波線を眺めながら、ウィンはうっとりと微笑む。
なるほど、寝てるから静かなのか、ってそういう問題じゃない。両腕で抱えられる程度の大きさの球体の中身を、見通すことはできない。だが、そこに詰まっている、皺のよった肉の塊を否応なく想像して吐き気を催す。
中身。そう、中身だ。俺が音を聞き取れるということは、そいつは人並みに思考と感情を持つ中身に違いない。
「こいつ、何者なんだ?」
「えへへ、それはハヤトにも秘密ぅー」
「中身って、身体はどうしたんだよ」
「なくなっちゃったの。ばーんってやられて、ばらばらになっちゃったんだよ」
簡単に言ってくれるが、普通はそれで即死だろう。ウィンは両手を広げて、「ばーん」と「ばらばら」の様子をわざわざ丁寧なジェスチャーで伝えてくれながら、やがてその片手を頭に持っていった。
「でも、奇跡的に脳は無傷だったから、ちょうどいいやって、実験に使わせてもらうことにしたの」
このアマ、ちょうどいいや、って言いやがったぞ。あまりにあんまりな物言いだが、塔の研究員ってのは大抵こんなもんだ。俺のお得意様なんかよりは、ウィンの子供じみた感覚の方がまだマシだと思っちまう辺り、俺も相当塔の連中の倫理観に毒されちまっているのかもしれない。
ウィンはにこにこ笑って、軽く球形の装置を指先でつつき、その指をそのまま、真っ白な人型細工に向けた。
「この子をね、こっちの子に移植するんだよ」
なるほど、だから頭蓋骨が開いてたのか。この球体の中身を、あの金属製の頭ん中に移し変えるのだろう。ただ、四肢を機械仕掛けにした奴の話は知ってるが、脳味噌以外全てを機械で代用する「全身義体」ってやつは塔の上層にたむろするエリートどもでも、未だ実用段階には持ち込めていないはずだ。
それを、この《赤き天才》は、たった一人で実現させようとしている。
そして、きっと実現させちまうだろう、という妙な確信がある。この女は、いつだってそうだった。今にも眠っちまいそうな目つきで夢物語を語れば、その翌日には夢だったはずのそれを、現実にしちまう。
だから、この不気味な人形細工が動き出すのも、そう遠い話じゃないんだろう。
――しかし。
「無断で実験に使われるそいつは、たまったもんじゃねえだろうな」
頭ん中を勝手に持ち出されて、変な女に脳味噌弄繰り回された挙句、自分のものではないつくりものの身体にぶち込まれる。俺なら、いっそ一思いに殺してほしいと思うだろう。そうまでして、生きていたい理由も特に無い。
だが、ウィンはきょとんと首を傾げて、とんでもないことを言い出した。
「無断じゃなくて、きちんと許可は取ったよ。今も話し合いしながら進めてるし」
「……そいつ、意識、あんのか?」
「もちろん。ちょっと話してみる? ちょうど、お目覚めの時間だし」
ウィンの言葉に反応したのか、それとも偶然か、積層モニタに描かれていた破線が微かに乱れ、今までよりも大きな波を描き始めた。それと同時に、俺の頭の中に響いていた音も、少しだけ音量を増した。静かなダブルリードの音色は、そのままに。
ウィンは、球体に顔を近づけて、「おはよう」と声をかける。
「気分はどう?」
『おはよう。気分はすこぶる良好』
装置に取り付けられたスピーカーから、ノイズ交じりの声がした。声変わり前の子供のような音程の、けれど、妙に落ち着き払った声が。
『誰かそこにいる?』
どういう仕組みかはわからないが、この装置の中に詰まっている脳味噌は、ウィンの声をはじめとした、周囲の音を把握することができるらしい。ウィンは、ちいさな子供に語りかけるような、優しい声で言う。
「お客さんがいるの。お友達のフジミ・ハヤトくん」
『私は、喋ってよかった?』
「いいよ。ハヤトは、ここで見聞きしたことを言いふらすような子じゃないから」
「随分信用されてんだな、俺は」
だが、ウィンの言葉はある意味では正しい。俺はきっと、今日ここで見聞きしたことを誰に語ることもないだろう。きっと、三日もすれば、曖昧な記憶になっちまっているだろうから。
俺自身に何ら関係のないことを、わざわざ覚えておく理由もない。そういうことだ。
俺は、恐る恐る装置を覗き込む。装置から俺の姿は見えていないのか、一拍の後に装置のスピーカーが声を放った。
『はじめまして。ミスター・フジミ、でいいのかな』
「ミスター、なんてこそばゆいからやめてくれ。『運送屋』の藤見隼だ、隼でいい」
『どういう字を書く?』
「苗字は花の『藤』に、見る、の『見』。名前はハヤブサとも読む『隼』で一文字」
『隼、空高く飛ぶ鳥の名前。素敵な名前だ』
素敵、なんて言われると体中が痒くなってくるから、正直やめてほしい。こいつ、見かけからしておかしいが、脳味噌の中身も相当変わった構造をしているんじゃなかろうか。
これ以上、一方的にこっちの話をしてやる義理もないので、とっとと問い返す。
「お前は?」
『昔の名前と肩書きは、体と一緒に置いてきた。だから、今は誰とも言えないな』
妙に芝居がかった口調と言葉の選び方に、こそばゆさと同時に苛立ちすら湧いてくる。気障な野郎は好きじゃない。反射的に装置をはたきそうになって、なんとか堪える。相手は脳味噌だけでかろうじて生きてる半死人だ。これが原因で死なれたら、ちょいと寝覚めが悪い。
俺のこの寛大な心に気づいてもいないであろう脳味噌野郎は、少しだけ間を置いて、ぽつりと言った。
『ただ、呼び名という話なら、ウィンは私のことを「シスル」と呼ぶ』
「……シスル?」
耳慣れない単語だ。シスル、と名乗った相手もそれは承知しているのか、すぐに言葉を付け加えた。
『綴りはT-H-I-S-T-L-E。刺のある花の名前』
旧時代の植物か。なら、知らなくて当然だ。旧時代の植物を実際に目にすることなんて、一般人では皆無に等しい。ただ、かつての緑溢れる時代に思いを馳せる連中が、子供に花の名前をつけることは少なくない。
まあ、ウィンがそんなノスタルジーを持ち合わせているとは、到底思えなかったが。
そのウィンが、眼球の入った瓶を人形の横に置いて、歌うように言う。
「シスル、今日はハヤトに、君の新しい目を持ってきてもらったんだよ。シスルは何色が好きかな?」
シスルは、少しだけ間を置いて、それから言った。
『少しだけ、考えさせてくれるかな』
「もちろん、構わないよ。あ、ちょっと待ってて。折角起きたんだし、今のうちに、次の実験の準備しちゃうね」
俺がここにいることを、この女は本気で忘れてるんじゃなかろうか。眼球の瓶を置いたまま、ぱたぱたとスリッパを鳴らして、隣の部屋に消えていってしまった。ぽつんと、喋る脳味噌の前に取り残された俺は、どうしていいかわからずただ呆然としていたが、ふと、シスルが完璧な発音で俺の名前を呼んだ。
『隼』
「あ?」
『すまない、驚かせてしまったよな』
「ああ。いろんな連中を見てきたが、脳味噌だけで喋ってる奴は初めて見たよ」
多分、これから先もお目にかかることはないだろう。お目にかからないほうが、俺の精神衛生上いいに決まっている。
「ほんと、物好きな奴だな。そんなになってまで、生きたいって思うのかね。俺にはさっぱり理解できねえや」
『私にも、正直、よくわからない』
シスルは、あくまで静かな音色を奏でたまま、言った。
『何もかもを失って、そうまでして生きる理由があるのかと問われたら、上手く答えられる気がしない。ただ、何もかもを失っても、「生きたい」って思いだけは残ってたから。その思いは、大切にしたいと思ってる』
「……そういうもんか」
生きたい。それは、脳味噌一つになっても、生きた音色を奏でる力を残すくらいの、強い望みだったに違いない。ただ、こいつの奏でる音色は、そんな貪欲で強烈な思いとは裏腹に、どこまでも静かだった。
『だから、ウィンには感謝してるんだ。あの人は、私の声を聞き届けてくれた。私の望みを魔法のように叶えてくれて、新しい生き方まで用意してくれようとしている』
「あの女は魔法使いだからな。不可能なんか、何一つねえよ」
もちろん、魔法使いってのは比喩だ。《赤き天才》ウィニフレッド・ビアスは、《大人災》を起こしたバロック・スターゲイザーのような、本物の魔法使いじゃない。それでも、何もかもをぶち壊すことしかできないスターゲイザーと正反対に、ウィンは『創り出す』ことにかけて、まさしく魔法のような腕を見せる。
鼻歌交じりに突拍子もない発明品を創り出し、失われたものをそれまで以上の形で創り出し、そして、俺やこいつの未来を創り出す。ウィニフレッド・ビアスってのは、そういう女だ。
はは、と小さくシスルは笑って、それから、少しだけ声を落として言った。
『けれど、魔法使いは、自分自身に魔法をかけることはできないものさ』
その言葉を聞いた途端、心臓の鼓動が跳ね上がった。何故か、触れてはいけないものに、触れちまったような錯覚を覚えた。
この脳味噌野郎の言うとおり、ウィンは、奴自身のためにものを創り出すことはない。ウィンの才能は、他の誰を救っても、自分自身を救うことはない。奴がそういう女だということは、それこそ、物心ついた頃から知っている。
それだけ、俺は奴の背中を、見つめ続けていたのだから。
『……私は、どれだけ、ウィンに報いることができるかな』
――俺は、どれだけ、ウィンに報いることができるだろう。
手袋を嵌めた手を、握って、開く。この手で、この指先で。果たして、塔を降りたあの日から、俺はウィンに何をしてきただろう。ウィンがここにいる間、どれだけのことができるというのだろう。
そんな思考の泥沼に陥りかけて、すぐに思考を閉ざした。結局、俺がウィンのために出来ることは、ウィンの要請に応えることだけだ。
だから、きっと、こいつも同じ。
「生きてさえいりゃ、それで十分かもしれねえけどな」
『どういうことだ?』
「ウィンは、お前を生かした。それはお前の望みだったのかもしれんが、何よりもウィンがお前に生きることを望んだ。だから、お前は生きればいい。胸を張って、ただ、生きるために生きればいい」
『そういうもの、なのか?』
「俺は、ウィンにそう言われたからな。だから生きてる。報いたいなら、そのついで程度に考えとけばいいんじゃねえか」
シスルは、呆気に取られたようだった。流石に、ウィンがそういう奴だってことまでは、まだ、わかってなかったのかもしれない。俺だって、あの変人と二十年付き合ってて未だ理解できてねえんだ、そうそう簡単に理解されてたまるか。
しばしの沈黙が流れ。
『そうか』
不意に、シスルは言った。
『私は、生きていて、いいんだな』
初めて、その時、音が変わった。音色の中に、波が生まれた。圧倒的な音のうねりに、息を飲む。これほど強い音色を、静かな息遣いの中に隠し持っていたのか。それでいて、決して、音は割れることなく、僅かなノイズを生むこともなく響き渡る。
そのうねりは、一瞬だった。本当に一瞬だったけれど、耳の奥にはまだ、二枚のリードの響きが残っていた。
内心の動揺を隠すように、作業台に置き去りにされた眼球の瓶に視線を逸らす。こちらを見られているような感覚を何とか無視して、話を切り替える。
「で、お前、結局何色にするつもりなんだ? 目玉」
『どうしようかな。どんな色が似合うのかも、わからないからね』
「赤、青、緑に紫もあるけど。元々は何色だったんだ?」
『さあ、何色だっただろうね?』
愉快そうにシスルが言ったところで、ウィンが何やら奇妙なコードや装置を抱えて隣の部屋から戻ってきた。これ以上長居しても、実験の邪魔になるだけだろう。とっととお暇することにする。
渋るウィンに無理やり書類にサインさせると、ウィンは珍しく真面目な顔で、俺の手を握りしめてきた。ウィン自身が開発した手袋は、俺の触覚に正しく人の温度を伝えてくれる。
ウィンがまだ、人間の温度でそこにいることを、伝えてくれる。
「だいじょぶだと思うけど、シスルのことは、言いふらしたりしないでね」
「もちろん」
この脳味噌野郎は、俺に強烈な印象と音色を残しこそしたし、僅かな連帯感もあったが、それ以上でも、それ以下でもない。きっと、数日もすれば記憶は薄れてゆくはずだ。いつもの通りに。
『またな、隼』
「次があるかは、わからんけどな」
ウィンに呼ばれない限り、俺はこの館を訪れることはないだろう。だから、この奇怪な野郎と再び出会うことも、そうそう考えられない。
だから、奴が何色の目玉を選んだのか、その答えを知ることもない。
――まあ、野郎の目の色なんざ、興味もないんだが。