人間 / Major Third - The End of His Journey
二三六七年十一月某日
「ナマモノは、運ばないんじゃなかったのか?」
ハゲでグラサンの『何でも屋』シスルが放った問いに、俺は奥歯の方から湧き出すような苦みを噛み締めながら、こう言うことしかできなかった。
「……塔の依頼じゃ、断れねえんだよ」
「難儀なもんだな」
こいつらしい、軽い言葉。だが、その奥に篭められた感情は、微かに響きの変わった音色を聞くまでもなく、容易に推測できる。
機械仕掛けの顔は、自由に感情を表現するには不器用で、故に愛想の無い奴だと思われがちのシスルだが、実のところ人一倍感情豊かなことは、少しでもこいつと付き合えばすぐにわかることだ。
だから、こいつが愉快に思っていないことくらいは、すぐにわかってしまう。
それでも、仕事に対しては生真面目なこいつだから、その感情を露骨に表に出すことはなく、仕事道具の入った鞄を持ち上げて、口の端を歪める。
「ま、私は、アンタから金を貰ってる身だからな。その分の働きをするだけだ」
そんなこいつに、どう言葉をかけるべきだったのか、わからないまま。
俺は、今回の「荷物」が来るのを待つことしかできなかった。
深い、深い、感嘆の溜息が聞こえてきた。
思わずバックミラーでそちらを見ると、今回の「荷物」が窓に張り付いて外の風景を見ていた。俺にとっちゃ見飽きた、果てなく広がる荒野を。
今回の荷物――塔の元研究員だというそいつは、俺よりも五つは上に見えたが、純粋培養の塔の人間らしく、血色のいい、染み一つない肌をした野郎だった。全く、俺はどうも運がない。研究員にだっていい女はいるはずなんだが、お得意様を含め、俺の仕事に絡むのはいつだって野郎ばかりだ。つまらん。
つまらんが、荷物の機嫌を取るのも『運送屋』である俺の仕事だ。嫌々ながらも、後部座席に向かって問いを投げかける。
「どうした?」
「あ、ああ……いや、町の外に出るのは初めてでね。つい」
「塔のお偉さんは誰でもそう言うよな。つまらねえ景色だろ」
「とんでもない! スターゲイザーの爪痕がそのまま残る大地は、隔壁にいては決して知ることはできないからね!」
鼻息荒く、男は身を乗り出す。「危ないから立つな」と釘を刺して、バックミラー越しの視線を、もう一人の同乗者に投げる。
研究員と並ぶように後部座席に収まったシスルは、乗り込むときに男と簡単な挨拶を交わしただけで、それきりマネキン人形さながら微動だにしない。求められない限り、喋らないつもりだろう。普段は陽気で飄々とした野郎だが、いざ「仕事」となればいくらでも自分を殺せるのも、こいつの特徴だ。
そうでなくとも、こいつも俺と同じく今回の仕事には乗り気でなかったから、テンションが下がるのも当然かもしれん。
そんな重苦しい空気も読めないのか、男だけは目をきらきら輝かせながら、シスルに向き直る。
「それに、《赤き天才》の最後の作品である君に会えたのも嬉しいよ。塔では未だに、ここまで精巧な義体は造られていないから」
シスルの肉体は、脳味噌を除いたほぼ全てが機械仕掛けだというが、その身体の製法は謎に包まれている。というより、製法を唯一知っている奴が、忽然と消えてしまったのだ。
《鳥の塔》随一の頭脳を持つ《赤き天才》――ウィニフレッド・ビアス。
俺もよく知っているあの奇人は、塔の研究員が何人も額を突き合わせて完成させることのできなかった全身義体を鼻歌交じりに造り上げ、それを、素性もろくにわからない野郎にぽんと与えちまったのだ。
――それが、今、「シスル」という名で呼ばれているこのハゲだ。
こいつ自身、自分の身体がどう造られて、どうして動いているのかなんて全く知らない。ただ、こいつにとっては、これが唯一の「身体」であることに変わりない。その心臓すらつくりものであったとしても、こいつはどこまでも「人間」であり、生きた音を立てている。
シスルは、重たそうに髪一つ生えてない頭をあげて、男と視線を合わせた、のだと思う。奴の視線は常に分厚いミラーシェードの下で、目の動きを追うことはできなかったから。
「随分塔でも有名なようだな、私は」
「そりゃあそうさ。是非塔に来てもらいたい、と誰もが言っているよ。けれど、君は一度その誘いを断っているそうだね」
「生きたままバラされて、虫の息のところを偶然ウィンに助けられた身なのでね。二度とそんな思いはしたくない、と思うのは当然だろ」
さらりとのたまうが、そいつが常軌を逸した、凄惨な出来事だったということくらいは容易に想像できる。そして、言外に「塔に行けば同じ思いをする」と告げたシスルの言葉を聞いて、男は息を飲み、やがてぽつりと呟いた。
「……当然、か。君は正しいよ、シスルくん」
俯いた男の奏でる音色が、微かに軋む。
「僕は、どうやら人としての『当然』すらも、忘れてしまっていたようでね」
シスルは表情を殺したまま、返事をしなかった。それを話を促す無言と受け取ったのか、男は俯いたまま、低い声で言葉を吐き出し続ける。
「塔の中では、日々、色々な実験が行われていて、その中には、塔の外で行えば犯罪となることだってたくさんある。
例えば、君たちは、ガーランド・ファミリーを知っているだろうか。この国の環境に適応すべく、遺伝子操作で造り出された強化人間のことだが」
相変わらずシスルは沈黙したままだから、代わりに俺が「まあ、一応」と答えるしかなかった。
ガーランド、といってまず思い浮かべるのは、外周治安維持部隊の隊長様、ヒース・ガーランドだろう。穏やかな物腰で人好きのする優男だが、腐敗した部隊を一年足らずで立て直した有能な指揮官だと聞く。
そいつこそが、《鳥の塔》産人造人間、ガーランド・ファミリーの四番目だった、はずだ。
「この国の未来のため、という大義名分を掲げ、人の手で人を造ることも厭わない。そうして造った人間相手に、自分には到底耐えられない、過酷な実験を強いることも厭わない。僕ら、そして彼ら被検体には、先ほどシスルくんの言った『当然』など存在しない。ただただ、実験を繰り返し、データを採取する日々が続くのさ」
過酷な実験、という言葉一つでは、到底内容の想像なんざ及ぶはずもない。上層のインテリとはかけ離れた生活をしてる、俺みたいな奴には、尚更。
それとも、シスルにはわかるんだろうか。野郎と同じように、俺の知らない世界からやってきた、こいつには。そんなことを考えながら様子を伺っても、ぴくりとも動きやがらない。もしかして、聞き飽きて寝てんじゃなかろうか。ミラーシェードの下の目は誰にも窺えないから、十分にありえる話だ。
その間にも、男のご高説は続く。
「実験の対象はガーランドの子供たちだけじゃない、生まれながらに、超常的な力を持つ者たちにも及んでいる。
大きな声では言えないが、塔ではそのような『力持つ子供たち』を秘密裏に集めている。彼らは一様に、現在の塔では解析できない能力を持っていて、その能力の正体を探り、利用することができないかという研究が進められている」
「それも、この国の未来のために、か」
からかい混じりに言ってやると、男の、血を吐くような言葉が返ってきた。
「ああ、そういうことだよ……」
バックミラー越しに見る男は、背中を丸めて頭を抱えていた。
だが、その程度のことなんざ、聞かされたところで吃驚はしない。あの真っ白な塔が、真っ黒なもんを抱えてるのは、裾の町では常識だ。当事者ならば思うこともあるのかもしれんが、正直、俺にとっちゃ興味の対象外、右から左へ抜けていく知識でしかない。
だって、俺には何も関係ない。塔の中にいるらしい俺の知らない誰かのことも、こいつが抱えているものも。俺が藤見隼として生きて、この仕事を続けていくために必要なものではありえない。
俺が今ここですべきは、ただ、聞くだけ。頭にも残らない話を、荷物が満足するまで聞き届けるだけだ。
「悲鳴が、耳の奥で聞こえてるんだ。今も、塔からこんなに離れたのに。あの子達の声が聞こえるんだよ。『帰りたい』、『助けて』、『どうしてこんなことをするのか』ってね。
だけど、その頃の僕には、聞こえているのに、意識に入らなかった。不思議だよ、今はこんなにも苦しいのに、あの頃は何も感じなかった。それどころか、単なる雑音だとしか思えなかった」
雑音。鼓膜を震わせ続けるノイズ。
そう、ここに響き続けている音も、声も。ただのノイズでしかない。虫の翅が震える音に似た、不愉快なノイズ。
――だが。
「だけど、そんな中で、唯一、僕にも聞こえる声があったんだ」
刹那、重たく震えていた翅の音が、止まる。
「あの子は、他の子達と何も変わらない被検体だった。助けを求める子達と同じ実験を受け、常に生と死の狭間を漂っていた。なのに、被検体と研究員を隔てる分厚い硝子の壁越しに、僕に笑いかけてくるんだ」
「そりゃあ、既に壊れちまってたんじゃねえのか?」
「違う、あの子はどこまでも正気だった。どうして、故郷から連れ出されたのか。どうして、実験を繰り返されなければならないのか。どうして、塔から出ることも許されないのか。その全てを理解した上で、なお、笑っていたんだ。それどころか、僕にねぎらいの言葉を投げかけすらしてくれた」
それは、本当に正気だったのか。
俺にはわからない。こんな野郎の言葉だけで判断できることでもないし、判断すべきでもない。徐々に熱を帯びていく言葉を聞く限り、話の中の子供だけじゃない、こいつ自身の正気すらも疑わしくなってくる。
「あの子はいつだって笑っていて、故郷に待つ家族の話をしてくれた。自分がここにいれば、家族を助けてあげられる。それに、もしかしたら、それ以上のものも助けられるかもしれない。それはとても素敵なことだ……。
そう言って真っ直ぐに、僕を見ていたんだ。とっくに身体は壊れかけてたのに、目には強い光が宿っていて」
ゆっくりと、顔を上げた男の唇が、動く。
「あれは、確かに『覚悟』だった」
無意識に唇を噛んで、我に返る。
俺としたことが、この野郎の話に聞き入っちまっていたことに、気づかされる。
「それに気づいた瞬間、僕は何をしているんだろう、と思ってしまったんだ。僕がしていること、塔に囚われたあの子達にしていること、何もかもがおかしい気がして。それからは、仕事も全然手につかなくなって、周りからも変な目を向けられるようになった。
だけど、おかしいのは僕なのだろうか。それとも周りなのだろうか。
それすらもわからないまま、それでも僕は塔にいた。ぐるぐると、堂々巡りする思いだけを抱えて、ただ、笑い続けるあの子を見ていた。あの子が、僕に答えを与えてくれるんじゃないか、そんなすがるような思いがあった」
そこで、研究員は一旦言葉を切った。ぼんやりと、ぽっかり開いた深い穴のような目つきで、虚空を見上げて。
「けれど、あの子は死んだ」
殺されたんだ、と。そいつは言った。
「あの子は突然、僕ら研究員に逆らって、塔から脱走しようとしたのだという。僕は信じられなかった。あんなに強い覚悟を抱いていた子が、今更その言葉を覆すなんて、思いもしなかった。けれど、確かにあの子は死んで、僕は拠り所を失ってしまった。
僕はたった一人、取り残された思いだった。
ただ、もう、塔にはいられないということだけは、わかった。塔を下りて、遠くへ、誰も僕を知らない場所へ行きたかった」
それからのことは、君たちが知っている通りだと、男は言う。
男の「塔を下りる」という願いは上層に聞き届けられ、俺たちが依頼を受けて、男を隔壁の外まで運ぶことになった。言ってしまえば、それだけの話だ。
俺にとっては、どこまでも、それだけの話だ。
「でも、これでよいのかと、今でも思っている」
男は、指先を強く組んだまま、誰に向けたものかも定かではない言葉を紡ぎ続ける。
「僕はただ、逃げただけだ。あの子と同じ境遇の子供たちを置いたまま、周りを変えることもできないまま。今でも子供たちは、生きることも死ぬこともできずに、塔の中にいる。彼らを助けることはできなかったのか、少しでも変えることはできなかったのか……」
その時。
「気づけただけ、よかったと思うがな」
沈黙を決め込んでいたシスルが、突然、口を開いた。
俺には、シスルが何故こんな余計なことを言うのか、どうにも理解できなかった。だが、何も知らない男は、痛みを堪えるように引きつった顔で笑う。
「はは、そういうものかな」
「私の感覚が、どこまで一般的と言えるかはわからないが」
そう付け加えたシスルは、口の端を少しだけ歪めて男に向き直る。
「アンタが言ってた娘だって、助けを望んでいたわけじゃないんだろう? それでも、アンタに笑いかけてたのは、アンタに『気づいて』もらいたかったんだろうさ。自分がここにいるということに気づいて、理解して、記憶してもらいたかったんだろうさ。きっとな」
男は、目を丸くしてシスルを見つめ、それから、今にも泣き出しそうな顔をして小さく頭を下げた。
「……ありがとう、シスルくん」
――らしくねえよ、シスル。
飛び出しかけた言葉を、俺は無理やり喉の奥に押し込んだ。礼の言葉を投げかけられたシスルが、珍しく「やってしまった」とばかりに小さく舌打ちしたからだ。
もちろん、そんな奴の反応にも、男は気づいちゃいない。
なんてハッピーな奴なんだ。
ハッピーな奴だからこそ、塔は、俺にこの仕事を任せたんだろう。本当に、腹が真っ黒にもほどがある。自分たちでどうにかしてくれよ、とも思うが、普段から黒い飯の種を貰っている立場じゃ、強くものを言えるはずもない。
だから、今の俺に出来ることは、
「全く、嫌な仕事だな」
腹の底に溜まった思いを、虚空に向けて吐き出すくらいだ。
翌日。一夜を過ごした隔壁を発って、数時間。
荒野の向こうに、切り立った崖が見えてきた。鋸の刃のようにぎざぎざとした断面を晒す名も無い崖は、隔壁間を移動する『運送屋』にとっては現在地を示す目印として機能していた。
そんな崖を眺めていた男が、口を開く。
「きっと、あの子はこの向こうからやってきたんだな……」
塔を下りても、結局、こいつの意識は塔に置かれてるんだろう。塔に囚われたままの子供たちと一緒に。
すると、相変わらず言葉少なだったシスルが、男に問うた。
「もう少し、近くで見てみるか?」
「いいのか?」
「別に、急ぐ旅でもなし、少しくらい構わないだろ」
バックミラー越しに、シスルに視線を投げる。シスルは、小さな頷きで言葉の無い問いに応えた。
本来なら、この崖を迂回して、その先を目指す予定だった。ただ、頃合いといえば頃合いなのかもしれん。どうあれ、判断はシスルに任せるしかない。俺の仕事はあくまで運ぶことだけ、そこから先は、奴の領分だ。
ペダルを踏んで、加速。舞い上がる砂埃の向こうに、崖が近づいてくる。好奇心から来る緊張に高鳴る翅の音と、全く別の意味の緊張に張り詰める薄板の音色が、響く。
「この辺で降ろしてくれ、隼」
「ああ」
言われなくとも、既に減速を始めていた。分厚い影を落とす崖の足下で、車を停止させる。扉の鍵を外して振り向けば、シスルが口元を微かに歪めてみせた。
悪いと、思っていないわけじゃない。
とはいえ、こんな面倒な仕事を頼めるのも、こいつくらいだ。
男を促し、シスルが車を降りる。何かを語らいながら遠ざかる二つの背中を見るともなしに見ながら、煙草に火をつける。荷物がいると、煙草もろくに吸えやしない。だからナマモノを運ぶのは嫌なんだ。
でも、もう、これ以上気を使う理由もない。
シスルと男の姿が、大きな岩の向こうに消えたのを確認して、目を閉じる。それで、目を開けたときには全てが終わっている……ならいいんだが、その間も、見えなくなった二人の姿を、無意識に耳が追いかけちまう。
奴らの会話が聞こえてくるわけじゃない。俺の耳が捉えるのは、そいつが固有に持つ音、単なるノイズのようなものだけ。だから、奴らが俺の視界外で何をしているのかなんて、俺がわかるはずもない。
それでも。
乾いた空気を伝わる、三発の銃声と。
片方の音色が途切れる瞬間くらいは、聞き分けられる。
それにしても、塔も悪趣味な依頼をするもんだ。
首都の――《鳥の塔》の目の届かないところまで運んで、殺してくれ、だなんて。
どうして、塔が俺にそんな依頼をしたのかは、知ったことじゃない。
ただ……あの男を塔から下ろすことで、余計なことまで外に知られることを恐れるのは、当然だったのかもしれない。
あの野郎は、お喋りにすぎた。聞いているこっちまで、逆に野郎を心配したくなるくらいには。あんな奴を外に放り出すことは、塔としても見過ごせなかったのだろう。
だからといって、己の仕事に疑問を持って、まともに働けなくなっちまった奴を、塔に残しておく理由もない。そして、塔から下りたはずの奴が、塔の足下で死なれるより、塔の目も手も届かない場所で死んでくれた方が都合がいい。
結局、俺に依頼が回ってきたのは、単純に俺の手が空いていたからだろう。
……そう、思うことにする。
砂を踏む足音が近づいてきたのに気づいて、目を開ける。冷たい風に黒い衣を揺らすそいつは、骸骨みたいに青白い頭をしていて、まるで死神だった。いや、今回ばかりは「まさに死神だ」と言うべきか。
そうして帰ってきた死神――シスルに、表情はなかった。
男の命を絶った銃は、既に外套の下にしまわれていた。かろうじて嗅ぎ取れる硝煙を漂わせ、何事も無かったかのように、助手席に乗り込んでくる。
ただ、青白い顔に浮かぶ表情が薄いのはいつものことだが、纏う音色は、明らかに普段のものとは違った。張り詰めた、激しく震えるリードの音色。
何かがおかしい。人殺しの仕事なんて、何度だってこなしているこいつだ。俺の目の前で数人の男の首を切り裂いた時は、平然とした様子でナイフの血を拭いていたはずじゃないか。
背筋に冷たいものが流れるのを感じながら、乾いた喉を何とか動かす。
「おい、シスル――」
「隼」
凛、と。
鼓膜を震わすノイズすらも貫いて、真っ直ぐ届いた声に、俺は言葉を飲み込んだ。
前を向き、俺に真っ白な横顔を晒すシスルは、いつになく強張った声で言った。
「できれば、二度とこんな仕事はしたくないな」
俺にわかるのは、どこまでも音色だけだ。音色はあくまで「音」でしかなくて、意味のある言葉を伴った「声」ではない。だから、シスルが何を思って、その言葉を吐き出したのかを正しく理解することなんざできやしない。
この車を出て、あの研究員が死ぬまでの間に、あの二人の間にどんなやり取りがあったのかだって、当然、わかるはずもない。
だが……。
「ああ。悪かった」
答える俺の耳には、なおも強く、強く、壊れそうな音色が響き続ける。
それは、俺が初めて聞く、奴の心からの「弱音」だった。