アタッシェケース / Minor Sixth - The Blue Bird of Trouble
二三六九年三月某日
「ちょいとお邪魔するよ」
そう言って、鴉の鳴き声と共に突然助手席に乗り込んできたのは、見慣れない女だった。
褐色の肌をした、とびきりの美女だ。鼻筋の通った顔立ちに、長い睫毛に縁取られた透き通った青い目。頭の上の方で結った、青いメッシュの入った銀髪が揺れるのが視界の端に映る。だが、何よりも目を惹くのは、開いた胸元だ。大きく開いた上着の下で、きつそうに服の中に収まる豊満な胸が形作る、深い谷間が目に焼き付く。
呆然と胸元を見つめてしまっていた俺だったが、女も俺みたいな反応にゃ慣れっこなんだろう、嫌な顔一つせず、更に俺に向かって体を……つまり、その胸を近づけてくる。
『ハヤト、侵入者です。何をしているのです』
スピーカーから、叱咤するような神楽の声が響く。いやだが、仕事中ならともかく、今は何をしていたわけでもない。こういう嬉しいサプライズは、喜んで享受すべきじゃないだろうか。
『……ハヤト、無駄かと思いますが念のためもう一度言います、侵入者です』
何か、呆れられた気がする。人工知能に呆れられるなんてどうなの、と頭ん中で冷静な俺がツッコミを入れてきた気もするが、あえて無視して意識を目の前の女に戻す。女は、ここまで走ってきたのか、額に汗を浮かべ、獣を思わせる獰猛な笑みを口元に浮かべている。
「いやあ、悪いね。ちょいと一息つきたくてさ」
「姐さんみたいな美女なら、いつだって大歓迎さ。しかし、随分物騒なもんをぶら下げてんな。姐さん、『荒事屋』か?」
「いや、ちょいと違うんだが、っと、窓開けてもらっていいか?」
女はひょいと腰に下げていた、女の手には似合わないごつい拳銃を持ち上げる。神楽が嫌々といった態度で窓を少しだけ開けると、その隙間を狙って女が突然発砲した。耳を劈く音、そして少し離れたところで倒れる人の影が、いくつか。遠目に見た感じ、明らかに堅気とは思えない連中だった。
いんいんと銃声の余韻が響く中、女は俺を振り返って、にっと白い歯を見せて笑った。
「ああ、そうそう。あたしゃブルージェイってんだ。本職は『傭兵』。ま、確かにここじゃ『荒事屋』みてえなもんだけどな」
――ブルージェイ。
名前と顔くらいは、知っている。裾の町では結構な有名人だ。
元は辺境を渡り歩くフリーの『傭兵』だったが、卓越した射撃の腕前を見込まれて《鳥の塔》にスカウトされた、最強にして最凶の第六遊撃部隊――通称『殲滅部隊』の一員。だが、今から数年前に、突然塔を下りて、再び『傭兵』業に戻ったという噂も耳にしていた。
この様子を見る限り、噂は本当であったらしい。写真で見るより、ずっと色っぽい姐さんだったってことには驚かされたが。もちろん、嬉しい驚き、ってやつだ。
ブルージェイは、抱えていた大きなアタッシェケースを指先でつついて言う。
「実は、こいつを外周北地区まで運ばにゃならねえんだが、どうも結構やばいブツらしくて、妙な連中に追われるハメになっちまってさ。北地区まで、運んでってくれねえかな」
「それは、依頼と考えていいか? せめて危険手当でもねえと、やってらんねえよ」
「あー、手持ちの金はそんなにねえんだけど。そうだな」
突然、ブルージェイが俺の顎に手を伸ばしてきて、俺がそれに反応できないうちに、柔らかな唇を押し付けられていた。唇はすぐに放されたが、俺の鼻先で青い瞳が愉快そうに笑っていた。
「一晩、いい思いをさせてやる、ってのでどうだい?」
こりゃあ、ろくなことにならない予感がする。そんなことを思いながら、唇に触れた柔らかな感触を確かめるように、下唇を舐めて。
「乗った」
ろくなことにはならないだろうが、美女との出会いってのは、いつだって危険に満ちているもんだ。この判断をいずれ後悔するかもしれんが、それは後の話であって今ではない。
『……ハヤト……』
もし、神楽に生身の肉体があれば、ぞくぞく来る絶対零度の視線で見つめてきたことだろう。そんな想像が容易にできる程度には、神楽の声が冷たかった。しかし、助手席にいい女を乗せるという念願が叶ったのだから、喜んでくれたっていいじゃないか。
と、そんな浮かれた思考を、一旦頭の片隅にどかす。尖った音色が、じわじわと近づいてくるのがわかったからだ。しかも、一方向じゃない、包囲を狭めるように、四方から。普段は厄介でしかないこの聴力も、こういう時は役に立つ。視覚で捉えられなくとも、大まかになら距離だって把握できる。
「来てるな。完全に包囲される前に、突破すっか」
「おう、頼むぜ、『運送屋』のハヤトさんだっけか」
そういえば、名乗っていなかったような気もしたが、散々神楽が俺の名前を呼んでくれてんだから、知られて当然だと思いなおす。
愛車を発進させ、音の薄い方角に向けてハンドルを切り、建物と建物の隙間に伸びる細い路地に飛び込む。
我が愛車は見かけこそポンコツだし、中身も相当古い型ではあるが、操縦補佐型人工知能の神楽をはじめとしたいくつかの機能や装備は、かの《赤き天才》ウィニフレッド・ビアス博士による特別製だ。多少の妨害程度なら、俺と愛車だけでどうとでもなる。
それに、横に座ってるのは元『殲滅部隊』の射手ときた。これなら、どんな奴が来たところで、恐れることなんかない――そう思いかけた時、だった。
突如耳を劈いた、割れる寸前まで張りつめたリードの音色。
そのあまりの音圧に、一瞬、判断が遅れた。
次の瞬間、何かが降ってきて、フロントガラスの目の前、ボンネットに着地した。
強烈な音色に、その他の音が何もかもかき消される。そんな、爆音の静寂のうちに、そいつが、顔を上げる。
毛穴一つない、羽の刺青だけが目立つ白い禿頭、目を覆う分厚いミラーシェード。その、整った唇は堅く引き結ばれ、すっかり聞き慣れた、けれど普段とは明らかに違うノイズを奏でている。
――やっぱりお前か、シスル。
言葉にはならなかった。喉がしびれて、動かなかった。普段はどこまでも静かな音色を奏でるこいつの、圧倒的なまでの殺意を正面からぶつけられりゃ、誰だって身が竦むってもんだ。
だが、こっちの神楽だって有能な相棒だ。咄嗟に状況を判断し、俺が動けなくなっていることを察して、すぐ側の曲がり角で自動的にハンドルを切る。もちろん、シスルもそれを想定していたのだろう、振り落とされる前に自分から車体を蹴って、地面に着地する。その着地点を狙って、窓から身を乗り出したジェイが銃を撃ったが、その前にシスルは建物の間に滑り込み、姿を消していた。
『呆けている場合ですか、ハヤト』
「すまん、神楽。助かった。そのまま、運転を続行してくれ」
『了解しました』
視界から奴の姿が消えて、やっと、喉が緊張から解放された。神楽の声には明らかな呆れが混ざっていたが、意図的に無視した。俺はあくまで、善良でひ弱な一般人だ。
そして、善良でひ弱な一般人であるはずのないブルージェイは、俄然目を輝かせ、舌なめずりをした。まさしく、獲物を目にした肉食獣の形相だ。
「すげえな、完全にいかれた動きしてたぜ。あれが、噂のビアス博士の最高傑作か」
ああ、と頷くと、ブルージェイは、シスルが消えた辺りを振り返り、小さく息をつく。
「意外と華奢なんだな。どんな過酷な状況下からも生還する『何でも屋』だっていうから、もっとごっつい野郎だと思ってたぜ」
「ウィン曰く、戦闘用の義体じゃねえらしいからな。もっとも、小型に造る方が格段に難しいらしいが」
「さっすが、《赤き天才》様は何もかもが規格外だな」
そう、《赤き天才》ウィニフレッド・ビアスという女は、どこまでも規格外だ。塔の頭脳を結集させたところで未だ完成の目処が立っていない人型全身義体を、たった一人で、ほとんど人と変わらぬ形で現実のものにしてしまったのだから。
しかも、その世紀の大発明である義体を、どこの馬の骨ともわからん野郎に、「ちょうどそこで死に掛けてたから」という酷い理由でさらっと譲っちまったんだから、あの女の思考回路はわからない。多分、あの女以外の誰にもわからない。
ブルージェイは、手にした銃の弾を入れ替え、口の端を歪める。
「けど、あの程度の動きなら捉えられなかねえな。ガーランドの三男坊に比べりゃ、まだまだ人並みさね」
「『討伐者』と比べんじゃねえよ、あれこそ人外中の人外じゃねえか」
「それでも、奴はどこまでも人間だったぜ。馬鹿正直で、もの知らずで、かわいいところもあるガキんちょさ」
そういや、こいつ、塔にいたころは『討伐者』ホリィ・ガーランドと組んでたんだったか。前に、ガーランドの第四番――ホリィ・ガーランドの「弟」から見せられた、ホリィの写真を思い出す。そこには、確かにこいつの姿もあったはずだ。そして、俺が名前だけ知っている、あの女の姿も。
件の女について、こいつの評価を聞いてみたいという思いがちらりと覗く。ただ、聞いてどうするのか。あの女について、俺が知ったところで意味はないし、何の得もない。
「……さて」
ブルージェイの声と、鴉の鳴き声が、微かに緊張を帯びる。それで、俺の意識も現実に引き戻される。
「奴さん、どっから仕掛けてくる気かねえ。兄さん、あの『何でも屋』には詳しそうだけど、何か知ってることはねえの?」
それを、この女に言ってしまってよいものか。シスルが関わっているとなれば、この女を置いて、とっととこの場から逃げた方が利口だ。シスルは、俺がそこにいるからといって、手加減してくれるほど生ぬるい奴じゃねえ。それこそ、俺が死んだところで「運が無かったな」の一言で終わらせかねない奴だってことは、俺が一番よく知っている。
だが。
ブルージェイは、「どうなんだ?」と俺の方に身を乗り出してくる。甘い中に獣の匂いを混ぜた吐息、密着する胸の弾力。その胸の感触を、ぴったりとしたズボンに覆われた長い足の付け根を意識してしまえば、もはや、素直に答えるしか選択肢はなかった。
「奴は、アンタと直接やり合おうとはしねえだろうな。元とはいえ『殲滅部隊』の射手に正攻法で挑んで勝てるほどの腕じゃねえ」
ブルージェイは意外そうな顔をしたが、実のところ、荒事における奴のアドバンテージは、人間に不可能な動きを可能とする義体の性能一点で、それ以外の技術や能力は素人に毛が生えた程度だ。産毛一本生えてない奴に使う言葉じゃない気はするが。
それでも、奴は裾の町でも有数の『何でも屋』であり、どんな厄介な相手を前にしても、最低限の仕事をこなした上で、生きて帰ってくるわけだが――。
「あのハゲの得意分野は義体の性能を使った白兵戦、と思われがちだし、大概の連中はそう思っている。いや、奴に『思わされてる』と言った方がいいか」
「どういうことだ、それ」
「奴の最大の武器は、生身の脳味噌だ。もっと正しく言うなら、目的のためには手段を選ばない性格と、卑怯で姑息な手を、相手にとって最悪のタイミングで披露する判断力と計算高さだな」
例えば、今、この瞬間のように。
気配も、音色も感じさせず、唐突に、フロントガラスが真っ赤に染まる。俺の視界は完全に封じられ、ブルージェイも「うおっ」と驚きの声を上げるが、ここまでは想定内だ。
「神楽、予備視界は生きてるか?」
『問題ありません。運転続行します』
「頼むぜ。方向は逐次指示する」
先ほどまであれほどまでに強烈に響いていたシスルの音色が、今は全く聞こえない。奴は、俺の聴力を知っているから、漏れ出すノイズをカモフラージュしてんだろう。普通の人間が、意識して自分の放つ感情やら何やらを抑えこむことなんざできるはずもないが、奴の自己制御能力は折り紙つきだ。
それでも、耳を澄ませて、こちらに向けられている音色を探っていく。シスルの音は捉えられなくとも、他の追っ手がどう動いているのかは、手に取るようにわかる。正面から近づいてくる音、こちらと同じ速度で背後から追いかけてくる音。相手も俺と同じく地元の連中なんだろう、外周の複雑な道を、少しも間違うことなく追いかけてきている。
ただ、俺の目的は、シスルや連中をどうこうすることじゃなく、目的地までこの女とアタッシェケースを送り届けること。だから、奴や他の追手の気配がしない方向を選んで、指示を下していく。
しかし、シスルはその程度の浅知恵でどうにかなる相手ではない。その証拠に、全く音の聞こえてこなかった場所から、突然、機銃の攻撃が降り注いで装甲を凹ませてくることもあれば、地面にばら撒かれた小型の炸裂弾がタイヤの破損を誘っているのを、事前に察した神楽が間一髪で避ける。
どれもこれも、シスルが仕掛けた自動装置の罠だ。フロントの視界を封じられているだけに、それらの罠を避けながら進むのも困難を極める。しかも、それで少しでも足を緩めれば、背後から迫ってくる連中の餌食だ。
だからといって、装備した機銃を使えば、間違いなく建物にも被弾する。こいつは、街の外に現れるバケモノや、ものの道理もわからない強盗戦車に使うもんだ。決して街中で使うようなもんじゃない。
もちろん、ブルージェイが何もしていないわけじゃない。身を乗り出して追っ手に向かって発砲、その全てが見事なヘッドショット。それでも、次から次へと新手が現れて、きりがない。
弾を篭めなおすために、車内に引っ込んできたブルージェイは、なおも獰猛な笑みを唇に浮かべたまま言った。
「えげつねえなあ、あの兄ちゃん。行く道行く道罠だらけじゃねえか」
「ああ、だから奴とは街中でやり合いたかなかったんだ」
裾の町、特に外周は、完全にシスルの手の内だ。いつ、どんな時にも対応できるよう、本人にしかわからない罠を無数に仕掛けてある。俺もそのやり口のほんの一部しか見たことがないが、相手を罠で動揺させ、自分の有利になるよう追い込むのは奴の十八番だ。
実際、俺たちは追い詰められていた。神楽が、淡々とわかりきった事実を告げる。
『ハヤト、この先は行き止まりです』
「知ってる」
「いやあ、完璧にやられっぱなしだな。ここまでしつこいたあ、予想外だったぜ」
だが、この状況下にあっても、ブルージェイは愉快そうに笑っていた。一体その余裕はどこから出てくるのか、と思っていると、予備視界のディスプレイに、高く聳える壁が映し出された。もはや前に進むこともできず、戻ろうにも背後から迫ってくる奴らがそれを許さないだろう。
「悪い。どうやら、ここまでみてえだ」
全く、できもしないことを請け負うもんじゃない。相手がシスルとわかった時点で、荒事に慣れていない俺に、勝ち目なんざなかったのだ。
ブルージェイは、そんな俺に、にぃと笑いかけて。
「なあに、ここからが正念場さ」
扉を開き、アタッシェケースを片手に助手席からひらりと飛び降りた。緩やかに波打つ青交じりの銀髪が、揺れる。
「お前さんは、そこに隠れてな。流れ弾喰らうかもしれねえから」
「何する気だ?」
「ちょいと一芝居、だ」
ばたん、と音を立てて扉が閉じられる。その瞬間に、後部座席の向こう側に一台の車が迫ってくるのが見えた。逃げ道も完全に塞がれた今、俺の車と相手の車の間に、アタッシェケースを片手に提げたブルージェイだけが立っている。
神楽に命じて、車の外の音声を拾うよう設定しつつ、俺は、じっとブルージェイの動きを見つめる。
ブルージェイは、追っ手の車に向かって、ハスキーだがよく響く声で言う。
「いやあ、やられたやられた。あんたらが腕利きの『何でも屋』なんか雇うから、こっちは大損だぜ」
車から、一人、また一人と黒い戦闘服を着た野郎どもが現れ、銃口をブルージェイに向ける。だが、ブルージェイはまだ動かない。得物の拳銃はホルスターの中だ。
「流石のあたしも、ここまで追い詰められちゃあ、負けを認めるしかない」
刹那。ブルージェイの姿が、一瞬揺らめいた気がした。次の瞬間、空いていた片手にはいつの間にか拳銃が握られ、その銃口は、
「……って言うと、思ったかあ?」
アタッシェケースに、向けられていた。
ブルージェイに迫ろうとしていた野郎どもの間に、動揺が走る。
「みすみす奪われるくらいなら、この手でぶち抜いちまった方が気持ちいいよなあ?」
「貴様、その中身が何かわかっていて言ってるのか!」
「当然。だが、あたしの雇い主からは、お前らに奪われるくらいなら、ぶち壊しちまって構わん、って言われてるしな」
その場合は報酬もゼロだけどな、とブルージェイはあくまで愉快そうに言う。じわり、と連中の間に焦燥が滲んだ。その時だった。
音も、なく。
天から降ってきた黒い影が、ブルージェイの手にしたアタッシェケースを、その腕ごと蹴り飛ばしていた。たまらず手から離れたケースは、戦闘服の野郎どもの目の前に滑ってゆき、そのうち一人に確保された。
そして、蹴り飛ばされ、地面に投げ出される形になったブルージェイは、すぐに猫科の獣の動きで体勢を整え、地面に降り立った影を睨んだ。だが、その目に宿っているのは、怒りではなく、あくまで喜色。
「気配も読ませないなんて、やるじゃねえか」
ゆらり、亡霊のように立つのは、もちろんシスルだ。袖の中にワイヤーが消えていくのが見えたから、先ほども今も、壁に引っ掛けたワイヤーを頼りに、建物の屋根から飛び降りてきたんだろう。相変わらず無茶なことをする奴だ。
シスルの片手には、抜き身のナイフが握られている。正直、これがまともな戦場なら、接近戦以外にまともな攻撃手段を持たないシスルが、圧倒的不利だっただろう。だが、この四方を壁や障害物に囲まれた空間では、勝負の行方は予測できない。
ブルージェイは、先ほどの一撃でも手放さなかった拳銃の銃口をシスルに向けて、高らかに宣言する。
「さあ『何でも屋』、あたしと踊ろうぜ!」
刹那、シスルとブルージェイは同時に動いた。拳銃から放たれた最初の一発が、牽制とばかりにシスルの足下に穴を穿つ。シスルは、臆することなくブルージェイに向かって踏み込んでみせるが、ブルージェイは軽い足取りでシスルの一撃を避けた。射手、と言われているが、しなやかな身体の動きを見るに、体術も決して苦手じゃないらしい。
シスルの大振りな攻撃で生まれた隙を見て、ブルージェイが銃を構える。だが、次の瞬間、シスルの姿はその場から掻き消えた。最低でも、俺にはそう見えた。その正体は、いつの間にか野郎が再び仕掛けていたワイヤーだ。壁に打ち込んだワイヤーを高速で巻き取ることで、不安定な体勢から、無理やり身体を動かして狙いを外したのだ。
その異様な動きに、ブルージェイも一瞬戸惑ったようだが、シスルの瞬間移動の正体がわかってしまえばどうということはなかったのか。牙を剥くように笑い、シスルから距離を取る。そして、シスルもすぐに俺の車を盾にして、射線から逃れる。
だが、その膠着も、ほんの一瞬のこと。
突然、真っ白な光が俺の目を焼いた。車の中にいた俺でさえそうなんだから、その場にいた連中も、目を焼かれたに違いない。その証拠に、俺の耳に響く音色のほとんどには苦悶の響きが混ざっている。
――閃光弾。
真正面から食らえば、意識すらも刈り取られる強烈な光。こいつもシスルの十八番だ。相手の目を潰し、感覚を潰し、自分が決して「負けない」状況を作り出すことにかけて、奴の右に出る奴はいない。
だが、そんな中、鴉が、高らかに鳴いた。
俺の耳は、ブルージェイが上げる音を、確かに捉えていた。あの女は、今の目潰しを的確に予測し、目を塞いでいたのだ。シスルって野郎が何を仕掛けてくるのかを、今まで見てきた罠と、今のほんの一瞬の交錯から理解したに違いない。度重なる戦闘を潜り抜けてきた戦士の勘、みたいなやつなんだろう。
ぼんやりとしか捉えられない視界で、おそらくブルージェイのものであろう影が、体を低くして構えるシスルに銃を向ける。
「取った!」
拳銃が、火を噴く。だが、シスルは「避けなかった」。肩を狙った一撃を真っ向から受け止め、ナイフを握った腕の付け根から、得体の知れない液体が噴出す。一瞬、それを目で追ってしまったブルージェイの懐に潜ったシスルは、空いた左手でその豊満な胸を鷲掴みにする。何それ羨ましい、と思う間もなく、ブルージェイが激しく痙攣して地面に転がっていた。
武器が使えないときのために、手に、スタンガンのようなもんを仕込んでたんだろうな。相変わらず、準備のよいことだ。こいつの戦法は、準備が全てみたいなもんだから、当然といや当然なんだが。
そこまで強烈な電圧じゃなかったのか、ブルージェイはすぐに上半身を起こし、頭を振る。だが、痺れが残っているのか、すぐには立てないようだった。目の前に立つシスルを見上げ、掠れた声を上げる。
「は……っ、やりやがったな……」
「それはこっちの台詞だ。修理代、高いんだぞ」
シスルの答えに、ブルージェイは目を丸くして、それからにやりと不敵に笑う。
「挑発に乗らなきゃいいじゃねえか。お前さん、クレバーに見えて相当の馬鹿だな」
その言葉には答えず、シスルは懐から取り出した布を咥え、左手だけで手際よく己の右腕を縛り上げて止血した。血、と言っていいのかどうかはわからんが、あの得体の知れない液体を流したままにしておくのは、やっぱりまずいんだろう。
そして、未だ地面に座り込んだままのブルージェイに、左手を差し伸べた。ブルージェイは、きょとんとシスルの手と、顔を覆うミラーシェードを見比べる。シスルは、当たり前のように首を傾げて問う。
「立てるか?」
「あ、ああ。もう大丈夫だが……何か、毒気抜かれんなあ。さっきまで、殺す気でかかってきてたってのに」
「私の仕事はこれで仕舞いだからな。アンタも、今更抵抗はしないだろう」
「はは、見た目も中身もすげー割り切りっぷりなのな、お前。安心したよ」
ブルージェイは苦笑して、シスルの手を借りて立ち上がる。ぱんぱん、と服についた汚れを払い、銃をホルスターに収める。
「ま、あたしとしても、いい頃合いだ。せいぜい、上手く逃げるこったな」
「何?」
「あーあ、折角出会えた昔なじみと、ゆっくり話でもしたいところだけど。ま、それは次の機会ってことで」
え、と。シスルが、間抜けな声を上げる。ブルージェイはその反応に満足したのか、にっと白い歯を見せて笑う。
「じゃあな。今度こそ最後まで生き抜けよ、お友達」
そんな言葉を残して、ブルージェイは路地の向こうに軽やかに駆けていった。シスルは、しばし呆然とその場に立ち尽くしていたが、不意にちらりと俺に目をやった後、そのままアタッシェケースを抱えた男たちを追って、路地を折れて消えた。
そして、俺だけが、その場に取り残される羽目になった。
『ハヤト、いかがいたしましょう?』
「あー……、そうだな。帰るか」
ブルージェイも去ってしまった今、俺ができることといえば、ただそれだけだった。とりあえず、フロントガラスをべったりと染める真っ赤な塗料は、後で綺麗に洗うことにして、予備視界を頼りにバックで車を発進させる。
そして、最初の十字路までバックしたところで、突然、去ったとばかり思っていたシスルが助手席に飛び込んできた。
「隼、逃げるぞ」
「は?」
「早く!」
一体何を言われているのかわからずに戸惑う俺を差し置き、神楽が『了解しました』と言って、シスルが来た方向とは逆に車を急発進させた。こいつ、最近俺よりもシスルの言うことを聞くようになってないか。一応俺がこの車の持ち主のはずなんだが、それでいいのかこの相棒。
だが、俺だって知らないわけじゃない。その理由や事情はわからなくても、「シスルの忠告は十中八九正しい」のだ。
そして、俺は今回も、その正しさを思い知ることになる。
アタッシェケースを抱えた男たちが消えた方向から、爆発音が響いたからだ。振り返って見れば、一瞬前まで俺たちがいた辺りまで、爆発が届いていた。多分、これで俺一人だったら、目も当てられない死体と化していたに違いない。
「……おい、どういうことだ?」
「ジェイは、囮だったんだ。私たちを引きつけて、ちょうどいいタイミングで荷物を放棄する。そして、求めるものを手に入れたと思い込んだ我々を、ぼん、と一網打尽さ」
シスルは、やれやれと肩を竦めてみせる。
「私たちは、ジェイを雇った側に、上手く踊らされたってわけだ。きっと、目的のものはとうに他の連中の手で運ばれてるんだろうな」
「で、お前はそれに気づいたから、とっとと逃げたんだな」
「ジェイが教えてくれなかったら危なかったがな。彼女の気まぐれに救われたよ」
ふ、と息を吐くシスルに、重い音圧を伴う殺意の音は欠片も感じられない。いつもの、静かなリードの音色だけが、耳に心地よく響いている。ブルージェイも言っていたが、こいつの「割り切りっぷり」は賞賛に値すると常々思っている。
「それにしても、隼。どうしてアンタが、ジェイに付き合ってたんだ? こういう、露骨に荒事絡みの仕事は請けない主義だろう、アンタは」
「……い、いや、まあ、たまにはな」
『ハヤトは、突然この車に侵入してきた女性に鼻の下を伸ばし、一夜を共にするという条件で依頼を安請け合いしました』
「神楽あああああ!」
こいつ、俺のこと主人だと思ってないだろう。絶対に思ってないだろう。しかも、シスルはシスルでけたけたとガキみたいに笑ってやがる。睨みつけてやると、シスルはニヤニヤとした笑みを口元に貼り付けたまま、言う。
「まあ、隼らしいとは思うが、それで当のブルージェイはふらりと姿を消してしまったわけか」
「あっ」
そうだ、危険手当くらいは貰ってしかるべきこの状況、だというのに今この助手席に座っているのは、いつもと変わらない、どうしようもなく、色気も何もないハゲ野郎なわけで。
「つまり、ただ働きってことだな」
このやり場の無い思いは、ハゲ頭をグーで殴ることで、少しだけ慰められた気がした。ほんの少しだけ。