鍵 - The Five Black Keys 3

 二三六九年五月某日

 
 きぃ、という現実の扉が立てる音と同時に、飛び込んでくる無数のノイズ。
 いい具合に酔っ払ってる客の音は、聞いているだけでこっちの耳が痛くなってくる。飲むこと自体は嫌いじゃないだけに、この耳に搭載された無駄な機能が恨めしい。目には目蓋があるものの、耳には蓋はない。耳に栓をすれば確かに楽にはなるが、そうすると聞こえなければいけない音も聞こえなくなるから困ったもんだ。
 話し相手がいるなら、まだ音を意識しなくても済むもんだが、いつもなら水片手に俺の愚痴に付き合う『何でも屋』シスルが、珍しく「そういう気分になれない」なんて言ってとっとと帰りやがった。そんなわけで、夜の女を捕まえる時間になるまでは、酒場で時間を潰すしかなかった。
 せめて、少しでも煩くない場所へ、と思ってふらふらと店の奥へと歩いていき、妙に静かな席を見つけた、と思ったその時。
 目が、合った。
 音に意識を持っていかれていただけに、そいつがそこにいることに、一瞬、気づけなかった。グラスを手にしたそいつは、すう、と金色の目を糸のように細め、背中が泡立つ声音で言った。
「お久しぶりですねえ、フジミさん。お花ちゃんは一緒じゃないのですか?」
 ――あのハゲ、勘がよすぎるだろ。
 額から冷たい汗が流れるのを感じながらも、俺はかろうじて頷いて、答えた。
「相変わらず、お花ちゃんにご執心なのな、|月刃《ユエレン》」
「そりゃあもう」
 月刃は、恍惚とした笑みを浮かべて、左手の指――かつて「お花ちゃん」ことシスルから奪ったのだという、機械仕掛けの指に舌を這わせる。ぬらぬらと、長く赤い舌が白い人工皮膚を舐めまわすのを、俺は、目を逸らすこともできずに見つめていた。全身にくまなく鳥肌が立つのを感じながら。
「お花ちゃんのことを考えるだけで、胸が高鳴るのですよ。ああ、今度はどうやって、あの腕を折り取ってあげましょう。足を、体を、何もかもを奪いつくした時、お花ちゃんはどんな悲鳴を上げてくれるでしょう。そして、美しい曲線を描く頭を割って、お花ちゃんを唯一定義する肉塊に触れた時、私の目には何が映るのでしょう。ああ、お花ちゃん。色を失った世界に咲く、至高の赤い花」
 早口にまくし立てられる言葉は、俺が喋っているものと同じ共通語のはずだが、さっぱり理解できない。というより、理解したくないし、してはいけない。
 俺にできることは、ただ、深々と溜息をついて、
「本当に、救いようのない変態だな、お前さんは」
 心からの言葉を、吐き出すことだけだった。

 
 月刃は、業界の間では名の知れた『殺し屋』だ。
 誰にも気取られず、標的を刀一つで確実に殺す腕は、業界でも高く評価されている。興が乗って標的以外の相手も殺してしまうらしいが、その腕に免じて大目に見られている。要するに、典型的な快楽殺人者というやつだ。
 別に、それだけなら外周の『殺し屋』にはよくあることだ。シスルのように、殺しを厭いながら仕事として割り切ってる奴は決して多くない。
 ただ、この野郎は、それとは全く別の次元で、どうしようもない変態なのだ。
 いつからかは知らないが、ハゲでグラサンのサイボーグを「お花ちゃん」なんてけったいな愛称で呼び、語尾にハートマークをつけながら追い回す輩は、終末の国広しといえど、こいつただ一人だろう。
 月刃曰く「これはお花ちゃんへの純粋な愛」とのことだが、月刃の愛は俺の目から見ても歪みきっている。好きだから殺したい。いたぶるだけいたぶって殺したい。そんな愛を胸に生きる月刃に対し、もちろん「お花ちゃん」ことシスルはドン引きしている。その結果、俺でもわからなかった月刃の気配を的確に読み取って回避する術まで身に着けたと見える。何というか、あのハゲの苦労が忍ばれる。同情はしないが。
 とにかく、月刃から見れば、この世界は「お花ちゃんと獲物とその他」という極めてシンプルな構造をしている。だからきっと、俺の存在は、月刃にとって「お花ちゃんとよく一緒にいる有象無象の一人」という認識なのだろう。もしシスルと関わっていなければ、名前も顔も覚えられていないに違いない。
 その方が、よっぽどマシだったかもしれないが。
 お花ちゃん、という存在に紐づいてしまっているだけに、この変態に絡まれる羽目に陥っている今、特にそう思わずにはいられない。
 ご一緒にどうですか、という言葉に逆らうこともできず、俺は嫌々ながらに月刃の前に座る。シスルとつるんでるせいで、何度かこいつと言葉を交わしたことがあるが、こういう形で向き合うのは初めてだ。そして、月刃から音色が聞こえないことを、改めて確かめる。
 元々音色を持たないつくりものの相棒・神楽とは違う。月刃は確かに「生きた人間」でありながら、音色を巧妙に隠している。シスルも似たことをやってのけるが、奴のそれは一時的なものだし、こいつほど完全に音色を隠蔽はできない。
 俺の耳に届く音は、人間の気配というか、何というか、とにかく上手く言葉にはできない存在感、みたいなものだと思っている。俺のように明確に聞き分ける能力がなくとも、何とはなしに感じ取れる「何か」だ。それを隠し通す術を持つ月刃は、やはり一流の『殺し屋』なんだろう。
 月刃は、得体の知れない泥のような酒を一口舐めて、「ああ、しかし残念です」と大げさに嘆く。
「お花ちゃんに会えないとは。今日までフジミさんと仕事だと思っていたのですが」
「まあ、ついさっきまでは一緒にいたが……、って何でんなこと知ってるんだよ」
「私は、お花ちゃんのことなら何でも知っていますよ。いつ、どんな仕事をしているのかも、休暇を誰と過ごしているのかも、今読んでいる本のタイトルだって、何もかも、何もかも」
 薄い唇を恍惚の笑みに歪めて言い放つ月刃。一体どういう情報網であいつの動向を掴んでるのかなんて、考えたくもない。
 なので、すぐに考えるのを止めて、いつもの酒を一杯頼む。アルコールでふやけた脳が、この野郎の記憶をすっかり消し飛ばしてくれることを祈って。
 ただ、酒を待っている間に、気になっていたことが、つい口をついて出た。
「しかし、どうしてあんなハゲが好きなんだ、お前さんは」
「おや、あなたには、お花ちゃんの素晴らしさが理解できていないのですか? 私の知っている限り、お花ちゃんと特に親しくしている中の一人だと思っていましたが」
「俺と奴は、単なる依頼人と護衛の関係だ。特別親しいつもりはねえよ。確かに、煩くなくて付き合いやすい奴だとは思うが、それ以上でもそれ以下でもねえ」
 仕事上、護衛とは、下手をすれば半月くらいは余裕で寝食を共にしなきゃならなくなる。それなら、護衛として有能であることと同じくらい、常に側にいて苦にならない相手というのは、重要な条件だ。
 そして、俺にとって「苦」の基準は、煩いか煩くないか、その一点だ。
 耳障りなノイズを奏でる奴、甲高く響き渡る音色を奏でる奴、蟲の羽音じみた音を奏でる奴、この世に存在するほとんどの奴は、俺にとって煩くて敵わない。まあ、月刃みたいに全く音が聞こえない奴もいるにはいるが、それはそれで得体が知れないから嫌だ。
 そんな中で、シスルの奏でる、どこまでも一定したダブルリードのCは、耳に心地よい。ただ、それだけの話。
 俺の「煩い」という言葉を、正しく月刃が受け止めたとは思わない。受け止めてほしいとも、思わない。ただ、月刃がついた溜息が、心の底からの安堵を篭めていることだけは、はっきりしていた。
「安心しました。あなたはお花ちゃんを『仕事の付き合い』と考えていて、愛しているわけではないのですね」
「おいおい、俺があのハゲを? 勘弁してくれ」
 まず、男に愛を囁く趣味がない。あのハゲに恋愛感情を抱くなんて、考えるだけでも寒気がする。まあ、まさしくそういう感情を抱いている野郎を前にすると、一体何が一般的な感覚かもわからなくなってくるが。
 月刃は、肘をつき、細長い指を組んでにっこりと笑みを浮かべる。
「ええ、よかったです。私の恋路を邪魔する可能性のある者は、一人残らず排除しなければなりませんからねえ」
 ――怖ぇ。
 今まさに、喉元に刃を当てられているような錯覚を抱く。ゆらゆらと酔ったような口調ながら、細められた金色の瞳に、温度は、ない。
 月刃はもう一口酒を舐めると、「ああ、そうそう」と話を変えた。
「私がお花ちゃんを愛している理由、でしたね。よくあるでしょう、一目惚れというやつですよ」
「一目惚れ……なあ」
「限りなく無駄を削り落としたあの姿もさることながら、何より、その機械仕掛けの身の内側に咲かせる花の美しさに、私は一目で恋に落ちたのです」
「花?」
 今の話しぶりからするに、「花」というのは「お花ちゃん」というシスルに対する呼称とはまた違う意味を持っているんだろう。そしてサービス精神旺盛な月刃さんは、酒が回っていることもあるのか、丁寧に解説を加えてくれる。
「私の目にはですね、人の命が、光り輝く花の形で見えるのですよ。生きとし生ける者は必ず、己の身の内に一輪の花を持っています。ただ、ほとんどの人間はそれに気づかずに、弱々しい蕾を抱えたまま生涯を終えます。もったいない話です、己の持つ美しさに気づくことなく、灰色の生涯を終えるなんて」
 単なる狂人の戯言、と言い切ってしまえばそれまでだが、俺には、それがただの戯言だとは思えなかった。命の花を見る能力――それは、俺の聴力と似通ったものと、考えられたからだ。
「私は、その花が最も美しく咲き誇る瞬間を愛しています。命の花は生の渇望によって輝く。故に、私は人を斬るのです。惰性のままに生きていた者が、避けがたい死を前に『生きたい』と叫んだ瞬間こそが、何よりも美しい花を咲かせるのですから」
 美しいものを見るために、殺す。
 悪趣味極まりない台詞に、運ばれてきた酒を口にする気も失せる。最初からわかっていることではあったが、こいつは、俺からねじれた位置に存在していて、完全に理解を拒んでいる。
 事実、それが誰にも理解されないことは、月刃だってわかってんだろう。俺が嫌な顔をしているのを見ても、うっすらと口元の笑みを深めるだけで、勝手に話を進めていく。
「しかし、お花ちゃんは、私が今まで出会ってきた、誰とも違いました。
 お花ちゃんは、『死』を前にして初めて咲かせると思われた命の花を、その身の内に常に咲かせているのです。今でもはっきりと思い出せます。お花ちゃんの姿に重なるように咲いていた、燃え盛る真紅の花、その鮮やかさを」
 赤い花。俺にはそれがどんな姿をしているのかも、わからない。ただ、月刃がここまで執着するくらいなんだから、それだけすごい花なんだろう。すごい花、という言葉を使ったところで、全然イメージはできないのだが。
「果たして、それはお花ちゃんが一度死を経験したからか、それとも、最初からそうであったのか。それは、私にもわかりません。わからないからこそ、私は、お花ちゃんをもっと知りたいと思うのです。その体の奥の奥まで、脳味噌の隅々まで舐めつくして、お花ちゃんの存在を、あの花の正体を確かめたいのです。
 そして、ただでさえ美しいあの赤い花が、最期の瞬間にどんな鮮やかな色で輝くのかを、知りたいのですよ」
「……そりゃあまあ、大層な目標で」
 一応相槌は打ったが、既に考えることは放棄している。一瞬、月刃にばらばらにされたあげく、脳味噌を引きずり出されているシスルの姿を想像してしまったが、そのイメージを何とか振り払う。縁起でもない。
 月刃は、ひとしきり言いたいことを言って満足したのか、グラスの中の液体を一気に飲み干して、立ち上がる。
「さて、と。私はそろそろお暇させていただきますかねえ。私がここにいると、フジミさんが落ち着けないようですからね」
「わかってんじゃねえか」
 月刃は、イカレではあるが馬鹿じゃない。それだけに、やりづらいんだ。月刃はおかしそうに笑い、「そうそう」と懐に手を入れて、何かを俺の前に差し出してきた。
「フジミさんにお願いなのですが、これをお花ちゃんに返してほしいんですよ」
「……鍵?」
 黒い鍵だ。輪になった部分に鎖が通され、ペンダントになっている。
 そういえば、確かにあいつの首にこれと同じペンダントがかかっていたことがあった、かもしれない。野郎の胸元なんて見ていてもつまらんから、意識して見たことがなかったが。
 詳しく聞いてみれば、この前の仕事でやり合った時に、シスルが落としたものなんだそうだ。以来、シスルは華麗に月刃を避けて通ってるものだから、すっかり返しそびれているのだそうで。
「お花ちゃんが大切にしているもの、らしいです」
「『らしい』、な。何もかも、何もかも知ってるんじゃなかったのかよ」
「お花ちゃんが語らないことは、流石の私でも知りえませんよ。私は、人の咲かせる花と、その色が見えるだけで、心の中身まで読めるわけではありませんからねえ」
 ――その点で、俺と、こいつの能力は、極めて似通っているんだろう。
 俺も、あくまで人の音色が聞こえるだけで、そいつが考えていることを言葉として読み取れるわけじゃない。俺にとっての「音」が、月刃にとっての「花」だとすれば、月刃も、俺と同じジレンマを抱えているに違いない。
 だからこそ、シスルのことを、シスルの咲かせる赤い花の意味を「知りたい」と思うのかもしれない。
 恋し、愛すればこそ。
 理解はできない。してはいけない。けれど……正直に言えば、羨ましくも、思う。それだけの強烈な思いを、己の指針に据えることができる、この男を。
 俺にはそれができない。できなかったからこそ、今、ここにいる。それでいいのだと思い極めてはいるが、羨ましい、と思うことは止められない。馬鹿馬鹿しい話だが、それが現実だ。
 そんな俺は、月刃の目にはどう映っているんだろうか。何色の花を咲かせようとしているんだろうか。
 思いながら月刃を見るも、月刃はもちろん俺の思いには応えちゃくれなかった。その代わりに、ひらりとしなやかな手を挙げるだけで。
「それでは、また」
「……『また』は無いことを祈るよ」
 かろうじてそれだけを呟いて。
 手袋の上で黒い鍵を弄びながら、去りゆく男の背中を見送った。