1-12:いつかの風の歌

 遠くから、声がする。
 誰かを呼ぶ声。懐かしい声。俺の胸に痛みを呼ぶ、声。
「ゲイル!」
「うおっ」
 それが「俺を呼ぶ声」だと気づいた瞬間、反射的に跳ね起きる。
 あれ、何で寝てんだ。一瞬前まで、|仮想訓練装置《シミュレーター》の中で|仮想訓練《シミュレーション》を続けていたはずだったんだが、ある一瞬からぶつりと記憶が途絶えている。ぼんやりとする意識で辺りを見渡してみれば、どうも俺の体は訓練室の隅に置かれた長椅子に横たえられているらしく、
「ほんと、馬鹿だね」
 いつの間にかやってきていたサヨに、すごい目で睨まれていた。
 状況の想像はつくが、後ろ頭をかきながら、念のため問う。
「……えーと、俺、どうしたの?」
「訓練中に意識失ったんだよ」
 やっぱりか。鈍く痛むこめかみの辺りを押さえて、深々と溜息をつく。
 |副操縦士《セカンダリ》は|正操縦士《プライマリ》と違って、船体全体との同調を行わない分魄霧汚染のリスクは格段に下がるんだが、代わりに情報を捌く魂魄と、肉体上の魂魄器官である脳への負担という別のリスクがある。今回は、魂魄や脳がおかしくなる前に、魂魄が強制的に意識を落とすことを無意識レベルで判断したんだろう。
「大佐から聞いたよ。今回は|副操縦士《セカンダリ》としての訓練だったんだろ。それで意識飛ばすなんて、あんたらしくもない」
「そう、だな」
 確かに、自分で飛んでもいないのに、限界も見えなくなるくらい本気になっちまうなんて、らしくなかった。サヨの言うことはよくわかる。わかる、けれど。
「歌が」
「え?」
「歌が、聞こえたんだ」
 あの日以来、ずっと聞こえなかった、風の歌。霧の海を舞う喜びと祝福に満ちた歌声が、『エアリエル』を通して、確かに聞こえたんだ。
 仮想の海を飛んでいる間に見えていた光景を、この手に掴んだセレスの気配を、『エアリエル』の飛び方を、そして魂魄に焼きついた旋律を一つひとつ思い出すたびに、胸の中に鈍い痛みと、それ以上の熱いものがこみ上げてくる。
 言葉にならないそれを持て余していると、サヨの背後からひょこりと青いものが顔を出した。セレスだ。不安げに青い眉尻を下げて、サヨの白衣の袖を引く。
「イワミネ医師、ゲイルは大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫。慣れない負荷で一時的に意識が飛んだだけで、異常はないよ。でもこいつ、自分の限界が見えてないとこあるから、悪いけど、これからも気にしてやってちょうだい」
「はい」
 セレスは背筋をぴんと伸ばして快活な返事をするが、俺は条件反射的に唇を尖らせずにはいられない。いくら一緒に飛ぶことになってるとはいえ、何で俺がこんなひよこみたいなちびっこに見張られなきゃならんのか。
 とはいえ、実際に意識飛んでる以上、言い訳はできないな。それに、心底俺のことを心配していたらしいセレスの顔を見ていると、ものすごく悪いことをした気分になるのだ。本当に、らしくないとは思うけれど。
「……そうだよな。一人で飛ぶわけじゃ、ねーんだもんな」
 つい、口をついて出た言葉に、サヨがぎょっとする。
 何か変なことを言っただろうか、と思っていると、サヨの手が伸びてきて、俺の額に触れた。白くしなやかな手は、見た目どおり少しだけひんやりしていた、が。
「うん、熱は無い」
「俺のこと何だと思ってんだお前!?」
 ちょっと殊勝なことを言うとすぐこれだよ。一度は引っ込めた唇をもう一度突き出してみるも、サヨはいたって真剣な顔で、俺を睨んでくる。その目の鋭さと、その奥に見え隠れする苛烈な感情に、俺はそれ以上何も言えなくなってしまう。
 サヨが、俺のことをどう思ってるのかなんてわかりきってるじゃないか。だから、俺はその冷ややかで、突き刺すような視線をただ受け止めるしかない。
 とはいえ、それもごく一瞬のことで、サヨは白衣を翻して俺とセレスに背を向ける。
「大佐に報告してくる。安静にしてな」
「あ……ああ」
 いつの間にかロイドの姿が消えていたのだと、今更ながらに気づく。きっと、サヨを呼びに行った辺りで他のやつに捕まって基地司令の仕事に戻ったんだろうな。
 高い靴音を立てて、サヨが訓練室を出て行ったのを確認したところで、意識せず深い溜息が漏れる。どうやら、自覚はなかったが相当緊張していたらしい。サヨと顔を合わせると、どうもペースが狂ってしまっていけない。
 もう一度、意識して深呼吸をして。それから、こちらを真ん丸い目でじっと見下ろすセレスに向き直る。
「何か、悪いな。訓練、中断させちまって」
「いいえ。ゲイルの健康が第一です。わたしが飛べたとしても、ゲイルが万全でなければ『エアリエル』は全ての能力を発揮できませんから」
「……いくら万全でも、全力は出せねーけどな」
 セレスは首を傾げるが、その言葉にもならないささやかな疑問に答える気にはなれなかった。どうしても、頭の中に、嫌な記憶ばかりがちらついてしまうから。
 代わりに、どうしても聞いておきたかったことを問う。
「『エアリエル』で飛んでみて、どうだった?」
 あくまで今回は仮想訓練装置での模擬訓練だが、それでもセレスにとっては初めての「二人での」飛行だったはずだ。操縦士同士の同調は、船体との同調とはどうにも勝手が違うから、その辺りをセレスがどう感じているのかは、これからのためにも聞いておかなければならなかった。
 セレスはぱちぱちと青い睫毛に縁取られた瞼で瞬きして、それからぽつりと言った。
「楽しかったです」
「……お、おう?」
 想像の斜め上を行く回答に、肩透かしを食らった気分になる。だってお前、それはないだろう。ガキじゃないんだから、いや、ガキなのか? それにしたってあまりに幼稚な回答じゃないか。
 と、思ったのもつかの間、セレスはいつになく饒舌に、弾んだ声で語り始める。
「飛ぶのは楽しいです。それが、仮想の海であっても。人の体とは違う、飛ぶためのかたちに、魂魄そのものが作りかわる感覚。船の中心から、翅翼の先まで、隅々まで行き渡った『わたし』が、持てる感覚の全てで風を感じる。それが、楽しくて楽しくてたまらないのです。特に『エアリエル』は素晴らしいですね、『飛ぶ』という一点において、これほど優れた船はありません」
 ――こいつは。
 ああ、そうか、こいつはそういう奴なんだ。
 気づけば、自然と笑ってしまっていた。
 いつしか俺が忘れてしまっていた、霧の海をただただ自由に舞う喜びは、セレスの飛び方にありありと表れていたではないか。
 青い飛行翅を霧の中に閃かせ、長い尾を振るって、セレスに導かれて、風の歌と共に踊る『エアリエル』の姿をもう一度脳裏に思い描く。高く、高く舞い上がった『エアリエル』は、霧を運びゆく冷たい風に乗り、どこまでも飛んで行けるという確信があった。それはセレスの飛び方を見た俺の「確信」であり、『エアリエル』を通して伝わってきたセレスの「確信」でもあったのだと、思う。
 何も、あの伸び伸びとした飛び方はセレスが「飛ぶために造られた」人工|霧航士《ミストノート》だから、というわけではなく、セレスのれっきとした個性なのだということが、今、はっきりと理解できた。
 懐かしい、感覚だ。いっそ、泣きたくなるほどに。
「ゲイル? どうかしましたか? どこか痛みますか?」
「いや、何でもない。大丈夫だ」
 どうやら相当変な顔をしてたらしい。油断するとすぐ顔に出るから困ったもんだ。かつて夢見た色をしたつくりものの|霧航士《ミストノート》は、遥か彼方まで広がる水面を思わせる瞳で、俺を見つめている。
「セレス。少し休んだら、もう一回、飛んでみるか」
「はいっ」
 セレスはぱっと顔を輝かせる。表情はほとんど変わらないのに、明らかに「嬉しそう」とわかる顔をするのが、何ともくすぐったい。
 そうだ、俺はまだ息をしていて、息をしている以上、飛び続ける。それ自体は今までと何も変わらない。
 ただ、飛ぼうとしているのが俺一人でなくなっただけだ。
 一人と一人、俺たちはこれから、手を取り合って霧の海を飛ぶ。
 ――それは、案外、愉快な日々かもしれない。
 いつしか忘れていた感情が少しだけ蘇る、そんな気がした。