1-06:限界に立ちつくし

 ――厄介なことになった。
 俺はつい口から飛び出しそうになった溜息を、何とか喉の奥に押し込める。ジェム相手ならともかく、この、本当に右も左もわからない顔をした小動物に言うことじゃない。
「じゃ、案内するぜ。毎度連れてくわけにはいかねえから、早めに覚えろよ」
 杖を持ち直して歩き出そうとしたとき、片手に小ぶりのトランクを手にしたセレスティアが、ついと俺の袖を引いた。
「あの、ウインドワード大尉」
「あ?」
 そういえば、顔を合わせてから初めて「はい」以外の言葉を聞いたな、とかどうでもいいことを考える。すると、セレスティアは精一杯背伸びして、俺と目を合わせて問いかけてくる。
「足が悪いのですか?」
 ――せめて、そのくらいは説明しておいてくれないものか。
 俺が司令室にたどり着くまでに、ロイドがどれだけ俺について説明したかは知らないが、この様子だとほとんど何も話してないんだろうな。
 自分で説明するにはあまりにも情けない話なのだが、これから一緒に飛ぶ相手だ、簡単には説明を加えておく。
「三年前、下らないヘマして手足が使い物にならなくなった。今は随分よくなったけどな」
 それでも、杖なしで長時間立ってるのはきついし、腕や手の力は依然として皆無に近い。もし俺が普通の飛行艇の操縦士なら、とっくに船から引きずり下ろされてただろう。
 未だに俺が|霧航士《ミストノート》でいられるのは、|翅翼艇《エリトラ》の操縦が、|霧航士《ミストノート》の身体能力にほとんど依存しないからだ。もちろん機動の負荷に耐えられる最低限の筋力は必要だが、そこさえクリアすれば手足が不自由でも何とでもなる。
 その代わり、通常、|霧航士《ミストノート》の寿命は限りなく短いわけだが――。
「体がこれでも、飛ぶだけなら困らねーからな。陸では面倒かけるかもしれんが、そこは堪忍してくれ」
「はい、わかりました。意識します」
 セレスティアはこくこくと頷く。ぼんやりしてはいるが、ろくでなしに定評のある|霧航士《ミストノート》らしからぬ、素直ないい子らしい。素直なのはいいことだ、本当に。
 そうだ、ついでに言っておかなければならないことがあった。
「それと、俺様のことはゲイルでいい」
「ゲイル、大尉?」
 言うと思ったよ。これは俺の言葉が足りなかったと反省すべし。
「階級もいらねえ。敬称もだ。めんどくせーだろ、一緒に飛ぶのにそんな呼び方じゃ」
 単純に、階級やら敬称やらで呼ばれるのが好きじゃないだけなのだが。特に、これから一緒に飛ぶ奴にいちいち「ウインドワード大尉」なんて呼ばれちゃこそばゆくて仕方ない。
「しかし」
「いいから。基地の連中にもそう呼ばせてんだ」
 ただし、ジェムを除く。あいつは何を言っても聞かないからもう諦めた。
「代わりと言っちゃなんだが、お前のことはセレスって呼んでいいか」
「セレス」
「……嫌か?」
 どうも不安になる。何しろ、こいつの感情はさっぱり読めない。常に目を大きく見開いて、じっとこちらを見つめてはいるが、その間、表情が全く動かないのだ。笑いもしなければ、嫌な顔もしない。つくりものだからなのか、それともこいつの性格なのか。それすらも判断できないまま見つめ合っていると、やがてセレスティアが口を開いた。
「セレス……。セレスですね。はい、わたしはセレスです。よろしくお願いします、ゲイル」
 今のは、自分の中で新しい呼び名を納得するまでの時間だったのだろうか。
 考えたところで答えは出なさそうなので、早々に頭から追い出した。とにかく、セレスティア、改めセレスと仲良くやっていく方法を考えるしかない。
 しかし、人造の|霧航士《ミストノート》、か。
 開発が進められている、というのは時計台に残っている連中から聞いていたが、それがこんなちびっ子だとは思いもしなかった。それこそ、|翅翼艇《エリトラ》を動かす機能だけを持った、かろうじて人の形をしているだけの物体だと思いこんでいた。
 人の形を、しているだけの――。
『そうだ。これが、人である必要はない』
 刹那、頭の中に閃いた声に、鈍い頭痛と眩暈を覚える。
『人の形をしているだけでいい。不要なものは全て削り落とせ』
 くそ、嫌なこと思い出しちまった。壁に手をついて、その冷たさを確かめながら、眩暈が止むのを待つ。それから瞼を開けば、セレスが瞬きもせずにこちらを見ていた。こいつ、本当に人から目を逸らすってことをしないんだな。
「ゲイル? どうかしましたか? 顔色が悪いです」
 嫌なことを思い出した、ってこともあるが、顔色が悪いのはそれだけというわけでもないはずだ。『エアリエル』を降りてからずっと、全身に重石を積んだような感覚に囚われているから。
「いや、ちょっと疲れてんだな。久しぶりにまともに飛んじまったしさ」
「魄霧許容限界、ですか」
「まあな。だから、お前さんが呼ばれたんだろ。俺様の後釜として」
 かけていた色眼鏡をずらして、その下の目を見せる。普段は色眼鏡と伸びるに任せてる前髪で隠れているが、俺の目の色は薄い緑みの青をしている。それは魄霧汚染がほぼ限界に至ったことを示す、一つの指標だ。
「俺様も、蒸発する前に、少しは真面目に仕事をしろってことだろうな」
 本当は、いつまでも、飛んでいたいのに。
 飛ばなくては、ならないのに。
 そんな風に思っている間も、セレスが俺をじっと見上げている。きれいな、青い瞳をしている。かつてどこかで見た、どこまでも深く果ての見えない、青。そんな青を縁取る睫毛の色は、それよりも淡く、光をはらむ薄青。
 どれもこれも、俺たちが、かつて目指した場所の色に似て――。
 やめよう。ただでさえ疲れてナーバスになってんだから、変な記憶を掘り起こしてもろくなことにならん。特に、あいつがいた頃の記憶なんて。
「……ま、立ち話もなんだ、行くぞ」
「はい」
 司令室から、いやに長く感じられる廊下を歩いて、居住区域へ。
 てちてちと小さな足音を立てながら歩くセレスを横目で見やる。セレスは背筋をぴんと伸ばし、真っ直ぐに前を見て、俺が最初に言った「早めに覚えろ」という指示に従って、歩いている場所を目に焼き付けようとしているようだった。
 そう真面目すぎるのも考え物だぜ、と。
 からかおうとして、不意に言い返す声が聞こえた。
『お前が不真面目すぎるんだよ、ゲイル』
 ああ、そんなことも言っていたっけな。思い出したくもなかったけれど。どうも今日は、昔のことを思い出したくて仕方ない日らしい。嫌な日だ、本当に。
 くさくさする気分を変えるためには、他の話をするに限る。と言っても、初めて顔を合わせるちびっこと当たり障りのないお喋りをする技術なんて、俺にはない。
 と、いうわけで。
「……なあ、俺様については、どれくらい聞いてんだ?」
 最も当たり障りのないだろう話題、自己紹介から始めることにした。
 と言っても、セレスが俺のことをどれほど聞かされてるのかは未知数なので、まずはそこを探ってみる。既に知ってることを二度三度聞かされても鬱陶しいだけだろうし。
 セレスは、歩きながらちらりと俺を見上げる。おおかた、道を覚えるという俺からの指示と、今俺から与えられた質問、どちらを優先するか迷ったのだろう。で、ためらいの後、それらを同時にこなすことを選んだらしく、セレスは前方に視線を戻す。いいことだ、前見て歩かないと危ないからな。
「わたしが知っているのは、あなたの名前がゲイル・ウインドワードであること。
 女王国海軍大尉、第二世代|霧航士《ミストノート》であること。
 |翅翼艇《エリトラ》第五番、高機動戦闘艇『エアリエル』の|正操縦士《プライマリ》であること。
 三年前までは時計台の|霧航士《ミストノート》として活動していて、帝国との戦闘、また『原書教団』との戦闘において不敗を誇ったこと。
 そして、『原書教団』教主オズワルド・フォーサイスを討って教団解体のきっかけを作った、女王国の英雄であること」
 英雄。そう、確かにゲイル・ウインドワードは英雄なのだろう。客観的には。
 俺の主観では、単なる人殺しに過ぎないわけだが。しかも、最悪な部類の。
 だが、そんな下らない感傷はこの際どうだっていいわけで。「そのくらいです」と言って口を閉じたセレスの、薄青の頭をぽんぽんと叩いてやる。
「結構知ってんだな」
「知っているだけです。わかっては、いません」
 わかっては、いない――。その言葉に、胸が跳ねる心地がした。
『どれだけ知識を詰め込んでも、わかってなきゃ意味はない』
 そう言った誰かさんのことを、思い出してしまったから。
「だから、これから、たくさん教えてください。ゲイルのこと」