1-44:青空のゆめ

 久しぶりに、青い空の夢を見た。
 
 俺はたった一人で、青い空と、大きな水溜りの狭間に立っていた。
 いつか目にした大きな鳥が俺の真上を横切って、遠く、遠くへ飛んでゆく。
 その姿が見えなくなるまで見送って、俺は、何もかもに背を向ける。
 ――次にこの光景を見るときは、きっと、
 
 
 目を開けば、すっかり見慣れてしまった独房の低い天井が淡い光を投げかけていた。
 あれからすぐ、脳を中心とした一通りの検査を受ける羽目になった。もちろん、検査を受けてる間、延々とサヨに説教されたのは言うまでもない。撃たれて絶対安静とか言われてる割に元気じゃねーのサヨ。心配した俺が馬鹿みたいだろ。
 で、鼻腔からの出血と極度の疲労以外に問題がないとわかると、化膿しかけていた肩の傷だけ手当てを受けて、即座に独房に叩き込まれた。
 独房からの脱走だとか、勝手に『エアリエル』に乗り込んだことだとか、ついでにオズワルド・フォーサイスとしての事情聴取とか。俺がここに押し込まれる理由はあまりに多すぎて、抵抗も言い訳もできないし、する気もなかった。無駄な抵抗をして基地の連中に迷惑をかけたいわけじゃない。
 とはいえ、ロイドはロイドで後始末や時計台への報告に追われているらしく、俺の処分は後回しになりそうだ――と、ジェムが仏頂面で俺に伝えに来たことを思い出す。
 あいつ、俺のこと嫌いなくせにちょくちょく顔出すの何なんだろうな。ゲイル様専用メッセンジャーは廃業したんじゃなかったのか。
 毎日のように顔を見せるジェムに対し、セレスは、来ない。
 ジェム曰く「オズワルド・フォーサイスの脱走に手を貸した罪で謹慎中」とのこと。とはいえセレスは扱い上「備品」だから、管理者であった俺とロイドの責任ということで大きな罰が与えられることはない、という。
 そして、謹慎が解かれたとしても、セレスが俺に会いに来ることは許可されないだろう、とも。
 それはそうだ。一度は俺の脱走に手を貸してしまった事実がある以上、俺に近づければまた「俺に影響されて」――ということになっている――俺を利する行動を取る可能性が高い、と考えるのが普通だ。
 だから、俺はセレスの顔を見ることなく、ここを去ることになるだろう。
 その後のことは、俺にはわからないが、あえて『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』に聞いてみる気もなかった。何が待っていようとも、全力で足掻くだけだ。生きてゆくために。セレスとの約束に、少しでも近づけるように。
 その時、視界の片隅を、ぴょこんと青いものがよぎった、ように見えた。
 ――青い、もの?
 妙な既視感に慌てて起き上がり、肩の痛みにしばし悶え苦しむ。そろそろ学習すべきだ。俺の体は、大体において自由じゃない。
 とにかく、何とか寝台から降りて扉に近づいてみると。
「ゲイル」
「うおっ」
 セレスが、鉄格子越しに俺を見上げていた。
 幻でも見てるのではないかと思ったが、頭と知覚器官を売り物にしてる俺が、見ているものを疑ってちゃ話にならない。
「お前、どうして」
「グレンフェル大佐から、メッセンジャーを頼まれましたっ」
 相変わらずの無表情ながら、その声は妙に弾んでいる。何かいいことでもあったのだろうか。それに、わざわざセレスに言伝を頼んだということは、ロイドに思惑でもあるのだろうか。
 ……と、考えたところで答えが出ないことをあれこれ思い悩むのは俺の悪い癖だ。考えるよりも、話を聞いた方が絶対に早い。
「聞かせてくれ」
「はいっ。時計台には今回の一連の出来事を隠蔽するので、もうしばらくサードカーテン基地にてゲイルとして過ごせ、とのことです」
「……は?」
 ちょっと、待て。
「もう一度頼む」
「はい。時計台には今回の一連の出来事を隠蔽――」
「そこ! そこな! いいのかそれで!」
 軍本部に対して教団の襲撃やら何やらを隠蔽するとか、基地司令として在り得ざる判断だろ。
 いや、本当に、そうなのか?
 ことはそう単純ではないのか。俺一人が、首を差し出して済む問題ではなく――。
「……ロイドは、時計台を信用してねーのか」
「はい。今回の事件で、教団の残党が一定数存在することがわかりました。彼らが、教主と呼ばれる何者かの指示を得て動き出していることも」
「その上、セレスの居場所や『オベロン』の能力まで連中に漏れてた。ザルっぷりにもほどがある」
 引っかかっていたのはそこだ。セレスの存在や、試験運用中の『オベロン』の性能は部外秘だったはずだが、連中はどちらも「最初から知っていた」かのごとく襲撃してきた。
 当初からロイドは警告していたはずだ。時計台の連中も信用はするなと。なるほど、信用に値しないのは間違いない。だが――。
「それでも、襲撃そのものを隠蔽するのは不可能だろ。|翅翼艇《エリトラ》二隻も動かして派手にどんぱちやらかしたんだ」
「はい。なので、襲撃は確かにあったと報告しているそうです。ただ、原因やその間に起こった出来事の詳細などは『突然の襲撃で詳細は不明』と」
 教団の襲撃目的がセレスの存在にあったことも。
 教団の残党が『オベロン』の性能を知っていて対策してきたことも。
 |翅翼艇《エリトラ》第六番『ロビン・グッドフェロー』と|霧航士《ミストノート》トレヴァーの関与も。
 そこまで聞いて、やっと、俺にもわかった。
 時計台に情報を隠蔽すると言い切った、ロイドの狙いが。
「……そうか、何もわかってない体を貫いて、向こうさんの出方を見るのか」
 何せ俺たちは、時計台に潜む教団の影を確信しちゃいるが、尻尾を掴めたわけじゃない。
 だから、布石を打つ。襲撃の失敗を受けた連中が動くのを待ち構え、正体を炙り出そうというのだ。
 危険な賭けだ。下手をすれば、サードカーテン基地全体を危険に晒す賭け。ただ、ロイドはそうしなければならないのだ。どこに裏切り者が潜んでいるかわからないこの状況下で、馬鹿正直に全てを語るのは、それこそ最大の愚策なのだから。
「ついでに、その作戦を取る以上『オズ』の存在は不都合でしかない、か。今、俺の正体を知ってんのはこの基地の連中だけだしな」
 だから、ロイドは俺の正体も隠蔽する。
 サードカーテン基地は、突然の教団残党からの襲撃を、基地に所属する三人の|霧航士《ミストノート》士が退けた。それだけが語られなければならないのだ。
 なるほど、という言葉と共に、溜息が口をついて出る。
「……こりゃ、長い戦いになりそうだな」
 俺たちは、待たなければならない。何事もなかったふりをして、しかし、決して警戒は緩めることなく。この弱小基地が、軍本部に潜む影と水面下の戦いを始めようってんだ。生半可な覚悟じゃやってけない。
「はい。ですから、グレンフェル大佐はこうおっしゃっていました」
 ――散々迷惑と心配をかけたんだから、その分、死ぬ気で働いてもらうわよ。
 セレスの言葉が、ロイドの声と被って聞こえて、つい力なく笑ってしまう。
 ロイドは、端から俺を疑ってなかったし、時計台に引き渡す気も毛頭なかった。ただ、試されてはいたはずだ。俺がこれからも、この場所で、ゲイルとして生きていけるのか。
「伝えといてくれ。『全力で働くけど、死ぬ気はさらさらない』って」
「わかりました」
 セレスはうっすら微笑んだ。これが冗談だとわかってくれたと思いたい。
 それにしても、あれこれ思い悩んだのが馬鹿みたいじゃないか。いや、馬鹿なんだな。この数日間色んな奴に馬鹿馬鹿言われてたが、言われて当然のことをしてきたし、これからもあまり変わらない気はする。
 それに、俺がいつかは裁かれる、という事実が変わったわけじゃない。
 ただ、それまでの猶予が――セレスと飛んでいられる時間が、少しだけ伸びた。それだけでも、十分すぎるというものだ。
「で、いつ、ここから出してもらえんだ?」
 こんこんと鋼の扉を叩く。ロイドが俺の正体を隠蔽すると決めた以上、俺がここにいるのは不自然だろう、とは思ったのだが。
「それに関してですが」
 セレスは眉を寄せて言う。
「大佐がゲイルを疑っていないとはいえ、ゲイルが教団の教主であったのは事実です。そのため、教団と接点がないことを確かめるまでは出せないとのことです」
 必要なのはわかるのだ。今だって、基地の連中全員が、俺の無実を納得したわけじゃない。特にジェム辺りは、未だ疑いの目を向けてきている。だから、その手続きは決して無駄にはならないが――。
「……それはそれで、長い戦いになりそうだな」
 げっそりすることくらいは、許してほしい。
 セレスはといえば、申し訳なさそうに上目遣いで俺を見ている。別にセレスが悪いわけではないのだから、そんな顔はしないでいただきたい。
「代わりに、と言ってはなんですが、ゲイルに差し入れです」
 セレスの顔が鉄格子から見えなくなったと思うと、扉についた、食事の盆を出し入れするための隙間から、つい、と皿が差し込まれる。
 取り上げてみると、載っていたのは、色とりどりのちいさな粒だ。どこかで見覚えがあるな、と思っていると、セレスが再び鉄格子から顔を覗かせて言う。
「この前、お菓子屋さんからいただいた砂糖菓子です」
「ああ、おばちゃんの」
 襲撃のどたばたですっかり忘れてたな。思い返してみれば、セレスのポケットにねじ込まれていたはずの瓶が、基地に戻ったときにはどこかに消えていたのだ。
「あれ、なくしてなかったのか」
「はい。車の中に落ちていたのです。とてもおいしかったので、是非、ゲイルにも食べてもらいたいと思って」
 事前に許可を得れば差し入れは自由なのです、と言いながら、俺が菓子を食べるのを、目を輝かせて待ち構えるセレス。
 何だか落ち着かないものを感じながらも、皿の上の菓子を一つつまんで、口に入れる。柔らかく優しい甘さを感じた次の瞬間には、ほろりと溶けて消えていく。
「……確かに、美味いな」
 そういえば、食べ物を「美味い」と思えたのは久しぶりかもしれない。
 今までは、何を食べてもほとんど味を感じられなかったのだ。ゲイルの代わりに生きている俺が、何かに幸せを感じること自体が間違いだと、思い込んでいた。
 だが、もう、それも終わりだ。
 俺は、俺として生きていこう。ゲイル・ウインドワードの名を背負っていても、この人生は俺だけのものなのだから。
 もう一つ、砂糖菓子を口に放り込んで。嬉しそうにこちらを見上げるセレスに向けて、笑いかける。
「俺がここから出られたら、一緒に、おばちゃんに、お礼言いに行こうな」
「はい」
 一緒に、と。セレスはちいさな声で繰り返す。
 一緒に。ささやかだが、大切な約束だ。かつての俺たちが果たせなかった約束でもある。だから、今度こそ約束を違えることなく、凸凹生きていこうと思う。
 いつか、セレスと一緒に、迷霧の帳を超える日を信じて。
 そのためには、まず、一刻も早くここを出なければならない。今度はセレスの手は借りられないが、まあ、何とかなると信じよう。信じる心は大事だ。
 その時、あっ、という唐突なセレスの声に我に返る。空色の頭を上げたセレスはとんとん扉を叩きながら言う。
「あと一つ」
「まだ何かあんのか」
「ゲイルもそろそろ独房生活に飽きる頃だと思うので、適当な暇つぶしの道具くらいは差し入れても構わない、とグレンフェル大佐が」
「そんな微妙な気遣いをするくらいなら、早く出してくれって伝えてくれ」
「伝えておきますが、多分、早くはならないと思います」
 知ってるよ。それでも文句を言わなきゃやってらんないんだよ。
 そんな俺の声にならない訴えを知ってか知らずか、セレスはこくんと首を傾げる。
「ゲイルは、何か欲しいものはありますか?」
 欲しい、もの。
 ゲイルとして過ごしていた時は、生活に必要なもの以外は何一つ求めなかったことを思い出す。ゲイルが、そういう奴だったから。あいつは、霧の海を飛ぶことができれば、その他には何もいらなかった。
 だが、俺が、これから俺らしく生きていくなら。
 そうだな、と。自然と口元が緩むのを感じながら、瞼を伏せる。
 瞼の裏に焼きついた青空のイメージと、それを見上げる俺とセレスの姿を思い浮かべて。
「絵を描く、道具を」
 そして、もう一度、描いてみよう。
 
 俺たち二人で目指す、青空を。
 
 
 
《Act 1: Vector to the Azure - End of File.》