1-42:ラストダンス

『……これから、どうするのです?』
 戦場に降り注いでいた豪雨は、既に止み始めていた。
 静寂を取り戻した海に漂うのは、いつしか、俺たちとジェムだけになっていた。
 ジェムから入ってきた通信に、俺はすぐには答えられなかった。どうするのか、という問いに対して言うべきことは決まっているが、それを言葉にするのは躊躇われた。すると、セレスが不意に言葉を開いた。
『ケネット少尉。先に、戻っていてくれませんか。わたしは、もう少しだけ、飛んでから帰ります』
 ジェムは何かを言いかけたようだったが、何か気が変わったのか『わかりました』と返してくる。
『では、先に帰還します。どうか』
 ――よい航海を。
 |霧航士《ミストノート》らしい言葉を残して、ジェムは金色の光を撒きながら霧の向こうに消えていった。
 あまりにあっさりとした反応に、何とも拍子抜けしてしまう。色々と文句やら何やらを言われると思っていたから。セレスの手前、多少は遠慮したということなのだろうか――。
 そんなことを考えていると、セレスが俺の手を引いた。あくまでイメージに過ぎないが、それでも、その手の感触に従って、一歩を踏み出す。
 もう、計算はいらなかった。『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』の扉を閉じて、『エアリエル』の膨大な知覚にも一つずつ鍵をかけ、最低限の「目」だけを残し、ただ、ただ、白い世界の中に、飛び込む。
 極限まで頭を酷使したからか、妙な脱力感に支配されていて、思うように意識が働かない。そんな俺の手を引いて、セレスは先ほどよりもゆったりと、しかし真っ直ぐに飛び続ける。
 風が肌を撫ぜる感触、空気の薄さと冷たさ、長い翅翼で霧を裂く、確かな手ごたえ。
 そして――風の、歌声。
 戦場では戦いを進めていくための「情報」としてしか捉えられないそれらを、今は、何一つ考えずに、ただ全身で感じる。セレスの手を通して伝わってくる感覚を、セレスの耳を通して伝わってくる懐かしい旋律を確かめる。
 俺は今、霧の海にいる。『エアリエル』に乗って、確かに飛んでいるのだと。ずっと忘れようとしていた、自由に飛ぶことの喜びを、セレスと共に感じている。
「ゲイル」
「ん」
 青い波紋に乗せたセレスの声は、静かだった。俺たちの周囲を満たす、霧の海のように。
「終わりましたね」
「ああ」
 それきり、言葉は絶えた。いや、もはや、俺たちの間に言葉なんていらなかった。『エアリエル』という翼を通して、お互いを感じてさえいれば、それで。『エアリエル』と、俺と、溶け合うようにしてそこにいるセレスが、つい、と俺の手を引く。
 俺はその手を握りなおして、セレスのリードに従う。
 一つ、霧の海を跳ねた『エアリエル』は、風の歌に合わせてゆったりと踊りはじめる。先ほどのように、霧の海に一緒に踊る相手はいなかったけれど、セレスは俺の意識を掴んだまま、くるくると回る。『エアリエル』の翅翼で青い軌跡を描きながら、それは、まるで、ワルツを踊るかのように。とにかく不器用な俺は、ただただセレスについていくのに精一杯だったけれども、そんな俺を前にして、セレスは、微笑んでいた。
 本当に、楽しそうに、微笑んでいたのだ。
 だから――俺も、自然と、口元を緩めていた。
 繋がれたイメージの手は、セレスの温度を伝えてくる。セレスが確かにここにいるのだと、伝えてくる。その温度をもう一度確かめるため、手を、固く握る。手のひらに焼き付けるように。
 色々あった。セレスと共に過ごした日々は、指折り数えてみれば両手の指で足りるほどなのに、失われた四年間とゲイル・ウインドワードとして過ごした三年間より、ずっと、強く、鮮やかに、記憶されている。
 俺だけが知る夢の色をした|霧航士《ミストノート》は、最初から、俺の手を握って離そうとしなかった。
 そして――。
「なあ、セレス」
 何ですか、と。歌うような声が返ってくる。翅翼をぴんと伸ばして、一つ宙返りしてみせたセレスは、俺に青い目を向ける。
「ありがとな。お前のお陰で、俺は飛べた。お前は――」
 その目を、真っ直ぐに見つめ返して。
「最高の『翼』だ」
 その言葉に、セレスは一瞬動きを止めた。それに合わせて『エアリエル』も虚空に静止する。
 妙な沈黙が流れる。
 もしかして、変なことを言ってしまっただろうか。思わず身構えてしまう俺に対して、数拍、真顔で俺を眺めていたセレスは、不意に、破顔した。
「ありがとうございます、ゲイル!」
 大輪の青い花が、今、目の前に咲いたかのような。鮮やかで、華やかで、誇らしげな、堂々たる笑顔だった。
 もちろん「|霧航士《ミストノート》として」は色々と足らない点もあるだろう、トレヴァーの言うとおりセレスの飛び方はまだまだ荒削りであるし、何より経験が圧倒的に不足している。だがそれは「成長の余地がある」と言い換えられる部分である。
 それに、何より。
 暗い海の底に沈んで息を殺していた俺に向かって、手を伸ばしてくれた。他でもない俺の翼になりたいと、望んでくれた。こうして、手を取り合って、飛んでくれた。
 俺がもう諦めていた夢を、思い出させてくれた――。
 どこまでも、どこまでも、セレスは俺の『翼』だった。
 ――手放すことが、惜しくなるほどに。
 一際強くセレスの手を握り締めて、いくつもの未練を感じながらも、俺は、どうしても言わなければならなかったことを、切り出す。
「でも、きっと、これが最後になる」
「え?」
 セレスは「俺の言うことがわからない」という意味の疑問符を飛ばす。
 そうだな、セレスにはきっと、わからないだろう。俺をこの場にまで引きずり出した時点で、セレスがわかっていないことは、理解していた。
「戻ったら、今までどおりにはいられない。俺は独房に逆戻り、お前とも二度と会えないかもな」
 何しろ、俺はオズワルド・フォーサイスなのだ。俺自身が罪を犯していようがいまいが、俺の「存在」それ自体が原因となって、混乱を引き起こしてしまった。その責任は取らなきゃならない。
「……っ、しかし! それは、ゲイルが悪いのではないのですよね?」
 セレスが俺の「罪」についてどこまで知っているのかは、知らない。ただ、セレスが俺を疑っていない、ということは素直に嬉しく思う。
 だから、正直なところを言葉にする。それがセレスに対する誠意であると信じて。
「そうだな。俺は悪くないと、信じてる。理不尽だとも、思ってる。だが、周りがそれを認めてくれるとも限らない」
 何しろ俺の認識は、ほとんどが「推測」であり、言ってしまえば「妄想」だ。あえて希望的観測を述べるなら、俺の責任能力の不在を認めてもらえる可能性も、無きにしも非ずといえよう。
 だが、きっと、時計台は俺を許すまい。
 オズワルド・フォーサイスはいわば、体のいい人柱だったのだ。世界を混乱に陥れた教団の完全敗北を、全世界に突きつけるための。その俺が「生きて」いたとなれば、しかも本来は死んでいた英雄を演じていたとなれば、女王国の面目丸つぶれもいいところだ。
 だから――、最悪殺されることはなくとも、俺が二度と表舞台に立つことはないだろう。
 それだけは、ほとんど、確実なことだった。
 聡いセレスは、これだけの言葉で俺の立ち位置を把握してくれたのだろう。魂魄の水面を激しく波立たせながら、はっきりと言った。
「納得できません」
「ああ、俺も、納得はしてない」
 そう、納得なんてできるもんか。
「未練だらけだ。こんなところで終わってたまるか。だから、最後の最後まで足掻こうと思ってる。地面に這いつくばって、泥水を啜ることになろうとも」
 ――生きてやろうと、思っている。
 俺一人が抵抗したところで高が知れているが、足掻くのは勝手だ。俺が、俺の人生を全うするために、それは、必ず必要なことなのだ。
 セレスは何かを言おうとしたのだろう。口を開きかけて――言葉を放つ代わりに、翅翼を閃かせた。今までの踊るような飛び方をやめて、真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに、一点を目指して飛び始める。
 セレスの行き場のない怒りを、やるせなさを、風に吹き飛ばそうとするかのごとく。
 行く先は聞くまでもなく、すぐにわかった。
 目の前に立ちはだかるのは、|迷霧の帳《ヘイズ・カーテン》。初めてセレスと飛んだ時に、セレスの「目的」を聞かされた場所。
 分厚く、深く、俺たちの視界を塞ぐ帳を前に翅翼を下ろしたセレスは、帳を睨みながら口を開く。
「わたしは」
 俺の魂魄の内側に浮かんで消える、青い波紋に乗せて。
「ゲイルと、もっと飛びたいです」
 セレスの感情までが、肌を伝ってもぐりこんでくる。
「ゲイルと一緒に飛ぶのは楽しいです。わたしの目では見えない景色が見えるのも。わたしの行く手が切り開かれていくのも。わたしには思いもつかないような方法を選び取れるのも。こうして手を取り合って飛べるのも。全部、全部、ゲイルがここにいるからです。一緒だから、楽しいのです」
 それは、熱だった。普段どこまでも淡々としているセレスからは想像もつかない、激しい熱。言葉にできない、様々な意味を篭めた熱が、俺ただ一人に向けられる。
 それに、何よりも――。
 そう言ったセレスは、俺を振り向く。
 遠い日に夢見た水面の色で、俺を、映しこむ。
「あなたが夢見る青い空を、見てみたいです」
 ――一緒に。
 その言葉を噛み締める。俺がずっと欲しかった言葉を、噛み締める。
 俺は、その言葉があるからこそ飛べるのだ。不完全な|霧航士《ミストノート》でありながら、俺が今この瞬間、|霧航士《ミストノート》でいられる理由は、セレスがそう望んでくれたからだ。
 ただ、そんな「理屈」は、今は抜きにしよう。難しく考える必要はない、セレスと一緒に風を切った感覚が、繋いだ手の温もりが、何よりもの答えなのだから。
「……俺もだ。気が合うな」
 心からの言葉を、セレスに、捧げる。
 遠い日に見た青い夢を瞼の裏に描き、その夢が叶った光景を夢想する。俺の横に、セレスが佇んでいる光景を。それは、夢というにはあまりにも現実感を帯びていて、それでいて現実から完全に乖離した、夢。
 セレスはじっと俺を見つめたまま、動かなかった。自分が動いてしまったら、この時間が終わってしまうと、思っていたのかもしれない。
 果たして、それは正しいのだろう。
 この翼がもう一度羽ばたけば、俺は基地へと戻ることになる。それをセレスが惜しんでくれているということが、何より、嬉しかったのだ。
 それでも、俺は時間を動かすことを選ぶ。立ち止まるよりは、前に進むことを、選ぶ。それが俺たちの別れを意味するとしても。
「前に言ったもんな。|迷霧の帳《ヘイズ・カーテン》の向こう側には、青い空が広がってるって。そう、昔から、信じてたんだ。確信があった。それが単なる夢じゃなくて、世界を記す『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』の記述なら、もしかすると本当にあるんじゃないかって、今も思ってる」
 セレスはいつか、|迷霧の帳《ヘイズ・カーテン》を越える。その向こう側を見に行く。もちろん、俺はそこにはいない。いないのだろう、けれど。
「一緒に行けたらいいのにな。お前と二人で見る青空、綺麗だろうな」
 セレスはしばし、凍りついたように固まっていたが、やがて、そのちいさな唇を動かして、そっと囁いた。
 
「今から、行きますか」
 
 ――ああ、なるほど。
 それは、考えもしない選択肢だった。
 俺とセレスの二人で、『エアリエル』を駆って、帳の向こう側へ。
 
「逃避行か。そりゃあ面白そうだ」
 
 俺は笑う。そう、きっと、面白いだろう。誰も見たことのない場所に向けて、真っ直ぐに飛んでゆく青い翅翼を思い描いて、瞼を伏せる。
 ああ、それは、なんて甘美な光景だろう。
「だけど、俺は、行かないよ」
 わかっている。この船では、今の俺たちでは、帳の向こうには届かない。どうしたって、途中で蒸発するのがオチだ。
 生きて帰ると約束してしまった以上、俺は、その誘いを飲むわけにはいかないのだ。
 セレスも、俺の答えはわかっていたのだろう。一つ頷くと、もう一度|迷霧の帳《ヘイズ・カーテン》に向き直った。
 帳はもの言うこともなく、真実を隠したまま俺たちの前に広がっている。その大きさと深さを思う。思いはするけれど――。
「さあ、帰るか」
 今、俺が向かうべき場所は、ここじゃない。
 セレスが向かうべき場所も。
 俺たちは前に進まなきゃならないのだ。いつか、この帳を突き抜けて夢見た場所に至ることを夢見て、ただ、がむしゃらに、前へ。
 セレスは俺の言葉を受け止めて、俺の手を強く強く握り締める。肉体を伴わない魂魄のイメージだとわかっていても、痛みを感じるほどに、強く握って。
「はい」
 ――と、静かに、答えた。