1-37:海へ

 俺の声に従い、セレスは『エアリエル』の薄青の翅翼を一際強く羽ばたかせる。
 ――加速。
 俺の目――もはや俺自身の知覚なのか『エアリエル』の知覚なのかもはっきりしない――には、前方を見据えるセレスの背中が見えた。その背からすらりと伸びる、空の青の翼も。
 伸びやかに、しなやかに、しかし真っ直ぐに。『エアリエル』と一体となって、セレスは海を貫いてゆく。
 知覚の網を広げながら速度と距離をカウント。戦闘海域まであと少しだと声をかけようとした、その時だった。
『フォーサイス、何をしている!』
「うおっ」
 突如意識の中に飛びこんでくるロイドの声。どうやら、俺たちが飛び立ったことがロイドまで伝わったらしい。知覚の網はそのままに、魂魄の一部を通信のために開く。
『よう、ロイド。ちょっくらお邪魔してるぜ』
『あんたねえ……』
 おそらくは反射的に、普段のノリで返すロイド。
 うん、先生が言いたいことはよくわかる。俺も正直、セレスに連れ出されるまでは、この期に及んで『エアリエル』に乗るとは思ってもいなかったから。
 だが、セレスをけしかけた奴には言われたくない。もちろん、これを言ってしまうと、通信を聞いてる他の連中にロイドまで疑われる羽目になるから言葉にはしないが。
『脱走の罪は重いぞ、オズワルド・フォーサイス』
 半ば投げやりに――もちろん、わざとだ――言葉を吐き出すロイドに、俺は笑う。
『どんな罪を犯したところで、首を切られる以上の仕打ちはねーだろ?』
『……そうだな』
 溜息交じりの声が響く。俺相手にこんな茶番を打たなきゃならない司令殿の苦労が偲ばれる。
 やがて、ロイドは『仕方ない』と声を低くして言った。
『ことここに至っては、降りろというよりは、こう命令した方が早いな』
『何なりと』
『セレスティアと共に先発隊と協力し、教団の残党と「ロビン・グッドフェロー」を撃滅しろ。一隻漏らさずだ』
 背後で、通信を聞いてる連中からのざわめきが聞こえる。当然だ。俺はオズワルド・フォーサイスで、世間的には「教団の教主様」なわけで、その俺に、教団の船を落とせと命じているのだから。
 そんな命令に何の意味があるのか。フォーサイスが従うとは思えない。司令は一体何を考えているのか。そんな野次が聞こえてくるが、ロイドはその全てを無視し、俺一人に対して言い放つ。
『お前ならできるだろう、フォーサイス。散々引っ掻き回してくれたんだ、今この瞬間くらいは役に立て』
『はは、先生は厳しいな』
 それは、基地司令というポーズをとってこそいるが、建前をすっかり引き剥がしたロイドの本音だったに違いない。
 なるほど、俺はロイドに迷惑かけっぱなしだからな。昔から今この瞬間に至るまで。そしてきっと、これから先も。
 我ながらとんでもない不孝者だ、とつい苦笑しながらも『了解』と返す。
『期待を裏切らない程度には、お役に立ちます』
 できるだろう、と言われたからには「できない」なんて言えるはずもない。俺の全力をもってことに当たる、それだけだ。
 ロイドは『よろしい』と言って、今度はセレスの名を呼ぶ。
『セレスティア、もはや言うまでもないとは思うが、以降はフォーサイスの指示に従え。現場での戦術指揮は元よりこれの専門分野だ、特に|霧航士《ミストノート》の指揮はな』
『はい』
『先発隊にも同様の内容を伝えておく。ただし、以降はお前の力でどうにかしろ、フォーサイス。私が手を貸せるのはここまでだ』
『へいへい』
 観測隊隊長のブルースはともかく、あのジェムが素直に俺の指示に従ってくれるとは思えないんだが、これはその場に至った時に考えるしかないな。
 ロイドは一つ、息をついて。
 通信を終える時の決まり文句を――いつもより、ずっと穏やかに、投げかける。
『では、健闘を祈る』
 それは、言葉通りの「祈り」だったのだと思う。俺たちへの、必勝の祈り。
 確かにその言葉を受け止め、『エアリエル』の移動距離を計算しながら更に知覚の網を広げていく。その網の先端が、ついに、観測隊の尻尾を掴む。
「もうすぐ戦闘海域に突入する。準備はいいな」
「了解。問題ありません」
 セレスは淡々と、しかし微かな高揚の気配を漂わせて応答する。
 内心めちゃくちゃ緊張している俺とは正反対に、セレスはもはや不安も恐怖も感じていないようだった。ただただ、霧の海を飛ぶことへの喜びに満ちている。
 そうだったな、と。俺もほんの少しだけ笑って返す。
 海に、笑顔で飛び出していくゲイルを思い出す。あいつが笑っていたのは、戦いを喜んでいたのではない。それを理由に「飛べる」ことを無邪気に喜んでいた。
 ――|霧航士《ミストノート》ってのは、そういうもんだ。
 認めよう。セレスは、あいつと同類だ。飛び方も、心の有様も。
 そして、それでいい。正しい方向に導くのは俺の役目だ。だからこそ『エアリエル』は「二人で一つ」の船なのだ。
「突入します!」
 セレスの声と同時に、今まで最低限確保していただけの視界を、一気に開く。
 俺の魂魄が捉えたのは、後方に待機する観測船四隻。ただしそのうち一隻は前方から炎を上げながら、ゆっくりと後退を始めている。
『「エアリエル」! 本当に来たのか……!』
 ブルースの驚きの声が、こちらにまで届く。広域通信の枠を開いて、声を投げ返す。
『ああ来てやったぞ! 戦況は!』
『ほとんど「オベロン」の一人舞台だ、だが、ゴキブリが捕まらない!』
 俺以外からもゴキブリって呼ばれてるんだが、いつ広まったんだろう。まあいいか。実際なんかゴキブリみたいだもんな、姿が見えないのにかさかさ動いてプレッシャーかけてくる辺り、とてもゴキブリっぽい。
 視線をその先に向ければ、俺の目にも鮮やかに映る、金色に輝く薄片が飛び交っている。『オベロン』は相変わらず火力全開で、目の前の敵をぶっ潰しにかかっている。否――。
『くそっ、どこだ、「ロビン・グッドフェロー」!』
 ジェムの声が通信越しに届く。それに対し、くすくすという笑い声だけが虚空に響く。トレヴァー・トラヴァース。霧に紛れ、影も形も、声の出所すらも見せようとしない「最優」の|霧航士《ミストノート》が、|翅翼艇《エリトラ》間通信を通してジェムに語りかけているのだ。
『惜しいなあ、君。能力は評価できるけど、勢いだけじゃあ、誰も振り向いてくれないよ?』
『黙れ……っ!』
『ふふっ、焦らされるのは好きじゃない? 早くやりたくてたまらない、って声してる』
 ああ、本当にトレヴァーは性格が悪いったらない。この数分に満たないやり取りで、ジェムの性格を的確に見抜いて散々に煽っていたと見える。でもつい弄りたくなるトレヴァーの気持ちもわからなくはない。というか今まで散々弄られてきた俺から見ても、ジェムは格好の標的に違いない。
 それにしても、ジェムも相手が本気を出してないことはわかってんだから、多少は手を抜くことを覚えたらどうか……、と思わなくもないが、ジェムにそれを求めたところで無駄なのはわかっていた。
 だから、とりあえず、当初の想定どおりにことを進めることにする。
「セレス」
「はい」
「まだ全力は出すな。ただ、ここからは俺の指示に従ってくれ。多少、無茶を言うかもしれねーけど」
 セレスでないとできないことだから、と。
 言いかけた俺の口を塞ぐように、セレスが振り向いた、気がした。もちろん、全ては『エアリエル』と同調している魂魄レベルの話で、実際にセレスが振り向いたわけではあるまい。
 ただ、セレスの背中を見つめていた俺の目を、セレスが、|瑠璃色《ラピスラズリ》の目で見据えて――、笑う。
「わたしは、飛べます。ゲイルの『翼』ですから」
 だから、と。
 セレスは、俺に向かって、魂魄の手を差し伸べる。全幅の信頼をこめて、魂魄の全てを俺に向けて開け放って。
「ここからはあなたが導いてください、ゲイル」
 そう、言い切るのだ。
 差し伸べられた手は、俺の視覚では細く折れそうな、白い手のかたちをしていた。俺の服の裾をつまみ、時には俺の手を握り。そうして、この海にまで導いてくれた、ちいさくも確かな力を持った手。
 一度は振り払ってしまった、手。
 その手を、今度こそ強く、強く、二度と離さないように掴む。
「任せろ」