1-36:空白を埋めて、今

 かくして、手早く着替えを済ませ――るわけにはいかなかった。セレスの手を借りながら、のたのたスーツを着る。仕方がない、左の肩から先は鈍痛に支配されていてほとんど感覚がなかったから。
「……腕」
 セレスが不安げに俺を見上げる。まあ、懸念事項の一つであることは間違いない。とはいえ、この程度はまだ許容範囲だ。
「飛ぶには支障ないさ。特に俺は『目』だしな、頭と感覚さえ生きてりゃいい」
 俺の視線を受け止める『エアリエル』は、何を語ることもなく、ただそこに佇んでいる。翅翼を展開していない状態のそれは、飛行翅の骨組みを背負った、長い尾を持つ鋼の箱でしかない。だが、その青い船体に描かれた、風をモチーフにした白の紋様は『エアリエル』をよく表している。
 ――風になる。
 それはゲイルの口癖だった。自身が風の名を持つあいつらしい口癖。あいつも、『エアリエル』も、何にも囚われず、気の向くままに翅翼を広げ、目指す場所に向けて駆ける風であった。
 俺はどうしたってゲイルじゃなくて、奴のようにはなれなくて。
 それでも。
「……借りるぞ、ゲイル」
 その名を一度でも借りた身として、今だけは一陣の風になろう。この場所から飛び立つ翼を導く風になろう。
 俺と並んで『エアリエル』をじっと見据えていたセレスに向き直る。
「セレス」
「はい」
「乗る前に、一つだけ、約束してくれ」
 セレスの青い目がこちらに向けられる。ぱちり、と一つ瞬きをするその目の青さを、そこに俺が映っていることを確かめて、口を開く。
「この戦いでは、戦闘途中での蒸発は許さない」
「何故?」
「わかるだろ、俺は飛べねーんだ。この前はトレヴァーの気まぐれで首が繋がったが、次はない。だから、お前に消えられた時点で俺たちの負け。お前も俺も、霧の海に沈む」
 そう、次は絶対にありえない。「|翅翼艇《エリトラ》で飛ぶ」ことにかけて苛烈なまでの情熱を持つトレヴァーが、霧の海において、俺に二度もの怠慢を許すとは思えない。
「しかし、前回は、全力で飛ばなければ『ロビン・グッドフェロー』から逃れられませんでした。今回も、全力を出さなければ難しいと思います」
「そうだな。あいつを落とすためには、全力じゃないと無理だ。だが、全力を出していいのは六十秒だけだ」
 六十秒、と。セレスは繰り返す。
 前回飛んだ感覚から考えるに、セレスの|魄霧《はくむ》許容限界は、同調率百パーセント以上で連続五分から十分。通常、同調率を限界まで引き上げた場合、船内の|霧航士《ミストノート》が三分で蒸発していることを考えると、驚異的な耐久性だ。
 だが、いくら耐久性があったところで蒸発しては意味がない。今回は、生き残ればいいわけじゃない。トレヴァーを、必ず落とさなきゃならないのだ。
 そして、俺は、あの野郎に勝つために、セレスと約束をする。
「それ以外のタイミングでは同調率を下げた状態で飛べ。全力を出すタイミングは俺が指示する。……できるな」
「できます」
「じゃあ、約束だ。今度は消えるなよ、セレス」
「はいっ」
 いい返事だ、と俺はセレスの空色の頭を撫でる。つくられたひと、であるセレスは、それでも、俺と同じ温度をしている。
 この手に感じる温度を、命を、失いたくない。今度こそ失ってはならない。
 とはいえ、そんな決意をセレスに知られるのは気恥ずかしくて。最後に一つ、ぽんと軽くセレスの頭を叩いて、ことさらに明るく宣言する。
「よっし、じゃあ、行きますかね」
 どれほど過酷な戦いを前にしても気負わぬゲイルの図太さを、今一度くらいは分けてもらいたいと願いつつ、一歩を踏み出した――ところで、不意に背後で声がした。
「ちょっ、えっ、大丈夫なんすか!?」
「いいから!」
 本来こんな場所で聞こえるはずもない声に、思わずぎょっとして振り向いてしまう。
 まさか、とは思ったが残念ながら俺の耳は人並み以上にはよいわけで、つまり、聞こえてきた声を正しく聞き分けていた。
 ゴードンとレオに支えられたそいつを目にして、俺は目頭に手を当てて首を振らずにはいられなかった。
「サヨ、お前、安静にしてろよ馬鹿」
「馬鹿はどっちだ。何飛ぼうとしてるんだい、その怪我で」
 気の強そうな目で俺を睨むサヨの顔色は、明らかに悪い。軍きっての再生術士も、自分が怪我しちゃ十分な治療はできないのだから、当然だ。しかも、この様子だと無理やり抜け出してきたに違いない。
 ジェムに撃たれた箇所なのだろう腹の辺りを押さえながら、それでも、サヨは俺から目を逸らさずに。
「……オズ」
 俺の、本当の名前を呼ぶのだ。
 俺はつい、その責めるような視線から逃れたい衝動に囚われる。
 サヨと顔を合わせるのには躊躇いがあった。今この瞬間だけではなくて、いつだってそうだった。俺に生きろと言ったのも、俺がゲイルとして生きられるように手を尽くしたのもサヨだ。
 ただ――否、だからこそ、サヨを直視できずにいた。
 俺はゲイルを殺した。サヨにとって最も大切な人間であったはずの、ゲイルを。実際に手を下したわけではないが、ゲイルの死の原因を作ったのは間違いなく、俺だ。
 その俺に生きることを強いたサヨが、俺を生かす意図を語ったことはなかった。もちろん、建前ならいくらでも並べ立てられるし、俺だって理屈は理解している。だが、サヨの本音は一度も聞いたことがなかった。
 俺を見据える鋭い視線が、狂おしい感情を秘めていることを、物語るだけで。
 そのサヨが、青ざめた顔の中で唯一赤く色づいた唇を、開く。
「一つだけ。言わせて」
「……ああ」
 覚悟を決める。
 何を言われても、きちんと受け止めよう。今まで、俺はサヨから逃げ続けてきた。本当の意味で向き合ったことはなかった。
 本音を、聞こうともしなかった。
 唇を引き締めて、今度こそ真っ直ぐにサヨを見つめて、次の言葉を待つ。一呼吸の間をおいて、サヨのほとんど囁くような声が、鼓膜を震わせる。
「絶対に、生きて帰ってきて」
「……生き、て」
 この期に及んで、まだそんな建前を言うのか。俺を恨んでいるお前が――。
 喉元まで出かかった言葉は、サヨの目に涙が浮かんだことで、永遠に封じられた。
「あんたまで、いなくならないで」
 サヨの唇からこぼれる言葉は、想像していた、俺への恨み言なんかじゃなくて。
「|霧航士《ミストノート》ってやつが揃いも揃って薄情で、自分を大切にしない奴らばっかりだってのはわかってるけど! それでも、もう、あたしの前から誰かがいなくなるのは、辛いんだよ!」
 ――辛い。
 そうか、俺は、そんな単純なことにも、気づけていなかったのか。
 サヨは、大切なものの喪失を、今の今まで噛み締め続けていた。俺への怒りより、ずっと喪失の痛みの方が大きかった。だから、サヨにとって、俺は今も、ゲイルの仇ではなくて、ゲイルがいたころと何も変わらない「|霧航士《ミストノート》の友人」だったのだ。
 同じ喪失を抱えて、癒えない空虚に苦しみながら、俺は、サヨを理解することを拒んでいた。今の今まで。
 いくつも、いくつも、言葉が頭に浮かんでは消える。言いたいことはいくらでもあった。今までサヨと向き合ってこなかった分、溜まりに溜まっていた言葉があふれそうになる。
 だが、きっと、サヨが求めている言葉はたった一つだ。
「請け負った」
 帰ってきた俺が、サヨと言葉を交わせるかはわからない。今まで散々飲み込んできた言葉を伝えられるかはわからない。それでも、今ここで、約束することはできる。
「俺は、必ず、生きてこの基地に戻ってくる」
 サヨは、俺の答えに少しだけ驚いた顔をして、それから、ほんの少しだけ微笑んだ。
「『ゲイル』はそんな顔しないだろ」
「……お、おう」
 一体、今の俺はどんな顔をしてるんだ。さっきから顔を笑われてばかりいないか。
 複雑な気分でサヨを睨むと、サヨは、ふ、と気の抜けたような息をついて、俺が勝手に思い込んでいた棘の消えた、柔らかな声で言う。
「でも、あんたはそれでいいよ、オズ。何だか、昔に戻ったみたいだ」
「……サヨ」
「約束してくれてありがとう。行ってらっしゃい」
 ひらり、と。白い手を振るサヨに、俺も片手を挙げて返す。
「行ってくる」
 そして、サヨに背を向けて『エアリエル』の操縦席に乗り込む。手を貸してくれるセレスが、ちょこんと首を傾げて俺に問う。
「もう、お話はいいのですか?」
「話したいことはいくらでもあるけど、長話してる場合でもねーだろ」
 そうですね、とセレスは頷いて俺の手を離し、温もりの余韻を感じながら、副操縦席の扉を閉じる。
 そして、俺のいる空間は風防から差し込む霧明かりだけに包まれる。
 呼吸を整えながら、前髪をあげてヘルメットを被る。この決まりきった手続きも最後かと思うと、感慨深いものがある。いつだって、ここで過ごす日々の「終わり」を意識してはいたが、覚悟ができていたとは言えなかったから。
 それに、ゲイルが死んだあの日から、俺がオズワルド・フォーサイスとして飛べたことは、一度もなかったから。
 だが、今回は違う。
 俺は――最後の最後に、たった一人の俺として、霧の海を飛ぶ。
 同調器越しに俺の魂魄が船体と繋がり、流れ込む『エアリエル』の知覚情報に、俺の脆弱な魂魄が、脳が悲鳴を上げる。いつになってもこの感覚には慣れないが、今回はここからが本番だ。
「『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』、|開錠《ログイン》」
 目には見えない扉を開く呪文を口ずさむ。本当は声に出す必要などないけれど、それはそれ、雰囲気というやつだ。
 その瞬間から、俺は『エアリエル』と『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』とを繋ぐ一つの「橋」になる。これ自体は『|原書教団《オリジナル・スクリプチャ》』を名乗った連中が俺にしたことと何も変わらない。
 唯一違うのは、俺という「橋」を通じて流れる情報を、俺自身の意志でセレスと同期するということ。
 意識の片隅で、セレスの声が青い波紋を帯びて囁く。
「ゲイル、準備できました」
「こちらもオーケイ。『エアリエル』の状態も問題なし。行けるぞ」
「では」
 ――飛びます。
 まるで散歩にでも出かけるような気安さと共に、セレスは青い翅翼を伸ばして、地面に別れを告げる。
 ふわりと持ち上がるような感覚と共に、『エアリエル』は霧の海に飛び込む。全てが白く濁った世界を、俺は『エアリエル』の目で見据える。後ろに残してきたサードカーテン島は、既に、遥か遠い。
「さて」
 魂魄の内側を激しく流れていく情報。その中から必要なものを拾い上げつつ、すっかり乾いていた唇を舐めて。
「航海を、はじめようか」
 
 今、戦いの海へと、舞い戻る。