1-34:嘘吐きの翼

 手で覆った目が、熱い。ゲイルを失ったと理解したあの日から、ずっと閉じ込めて鍵をかけていた感情が、溢れて止まらない。もう、弱音は吐かないと決めたはずだったのに。喪失を受け入れられたはずだったのに。
 そんなこと、できるはずがなかったのだ。どうしたって「ゲイル」の影と向き合い続けなきゃならなかった俺が、後悔を拭い去れるはずもない。
 どうして。どうして、ここにゲイルがいないんだ。
 俺じゃダメなんだ。俺はゲイルじゃない、セレスの望む|霧航士《ミストノート》じゃない。俺はただ、あいつの猿真似をしていただけの、空っぽの人間なんだ。
「ゲイル!」
「見ないでくれ」
 こんな俺を見ないでくれ。
 こんな俺をゲイルと呼ばないでくれ。
 こんな俺のことなんて忘れてくれよ、セレス。
 そう、心から望んでいるにもかかわらず、目を覆っていた腕を無理やり剥がされる。はっと顔を上げれば、滲んだ視界にセレスの青さだけが焼きつく。
 そして、右の手首を強く握られたまま、声が、降ってくる。
「それが! そもそも、見当違いだと言っているのですっ!」
「……え?」
「ゲイルは! ゲイルが、ゲイル・ウインドワードという人間だから、わたしが一緒に飛んでいたとでも、思っているのですか!?」
 何を言わんとしているのかが、さっぱり理解できない。
 ……というのが、顔に出てしまったのだと思う。セレスは眉間の皺を更に一段深めて、俺の手首を握る手を強める。
「わかってないのは、ゲイルの方です。ゲイルは、本物のゲイルのフリをするのが嫌だと言いました。本物のゲイルがいないと飛べないとも言いました。それは、ゲイルの本当なのだと思います。でも、でも!」
 たどたどしく、しかし、有無を言わせない口調で、セレスは言葉を重ねていく。
「わたしが出会って今までを過ごしてきたゲイルは、たった一人です。英雄と呼ばれた、記録としてのゲイル・ウインドワードではなくて、今、ここにいる、ゲイルなのです!」
 ――今、ここにいる。
 その言葉の意味を理解した瞬間に、思わず震える声で言っていた。
「違う」
 そうじゃない。そうであってはならない。
「お前は、勘違いしてる。お前が見ていたのは、ゲイル・ウインドワードの演技であって、俺じゃない。ここにいる、俺じゃない! お前に、俺は見えてなかったはずだ!」
「それなら! 答えてください!」
 セレスは握ったままだった俺の手首をぐいと引く。ほとんど鼻がくっつくくらいの距離にまで、お互いの顔が近づいて。すぐ目の前で、セレスのちいさな唇が開かれる。
「わたしにかけた言葉の一つ一つの、全てが嘘だったのですか」
 ――……それは、違う。
「青い色が好きだと言ったのは、嘘だったのですか」
 ――違う。
「霧の向こう側を見たいと言ったのも、嘘だったのですか」
 ――違う。
「わたしを死なせないために飛んでくれたのも、嘘だったのですか!」
 ――違う……!
 答えろ、と言われたはずなのに、言葉が喉につかえて呆然とするばかりの俺の胸を、セレスの拳が叩く。決して強い力ではないそれが、どうしようもなく、胸に響く。
「ゲイルは馬鹿です、阿呆です、どうしようもない嘘つきです! どうして、わかりきった嘘をつくのです! どうして、自分自身に嘘をつくのです! どうして、自分を誤魔化して、大切なことから目を逸らすのですか!」
 今、ここに来て、やっと思い知った。
 ロイドが「セレスはしぶとい」と言った理由を。
「一人で飛べないなら、飛びたいって言えばいいんです! もう、ゲイルの言う『ゲイル』はいないのかもしれません! しかし!」
 セレスは――、
「わたしが、ゲイルの翼になってはいけないのですか!?」
 俺が押し殺していた声にならない「叫び」を、たった一人、聞き届けていたのだ。俺がずっと俺自身についていた嘘を、とっくに、暴いていたのだ。
 俺は飛べないんじゃない。飛ばなかったのだ。
 俺は誰にも許されない。失った翼は二度と戻らない。ともすれば暴れ出しかける感情に鍵をかけ、長らく焦がれた夢を諦めようとしていた。
 けれど。
「……セレス」
 無意識に、名前を呼んでいた。
 セレスティア。その名の通り、この世ならざる空の色をした、俺の夢と同じ色をしたセレスは、ぽこり、と一つ俺の胸を叩く。
「わたしは、『あなた』と飛びたいのです。ゲイル・ウインドワードでもオズワルド・フォーサイスでも構いません。『あなた』の翼になるために、ここにいます」
 ――それでも、飛べない理由があるとすれば、と。
 セレスは俺に語りかけてくる。その後の言葉は、聞かなくてもわかった。納得させろ、というのだろう。自分を納得させるだけの理屈をぶつけてみせろ、と。
「……はは、あー、参ったな」
 そんなことできるわけないだろ、馬鹿野郎。
 セレスの言うとおり、馬鹿なのは俺の方だ。周りに理解されないからって拗ねて、つまらない意地で本音を覆い隠して、物分りのいい奴を気取ろうとしたのが間違いだった。何もかもセレスにはお見通しだった、というわけだ。
「完敗だ。なるほど、俺は馬鹿で阿呆で大嘘つきだ。お前が全面的に正しい」
 全身の力を抜いて、溜息をつく。改めて、セレスを前に緊張していたのだと思い知らされる。
「お前の言うとおりだ。もう少し、わがままでよかったんだな」
 今から何をしようと、俺を待つ結末は変わらない。俺がオズワルド・フォーサイスである限り、この世界は俺を許さない。
 だが――、だからこそ、好きにすればいいのだ。存在しないものとして鍵をかけたそこを開けば、いくらでも未練が顔を出す。その全てを満たせなくとも、俺の首が胴体を離れる瞬間に後悔しないよう、駆け抜ければいい。
 |霧航士《ミストノート》の命は、そうでなくたって、どこまでも短いのだから。
 目下、俺の目の前に立ちはだかるのは、無粋な教団の残党と、そいつらに便乗するトレヴァーだ。今度こそ、あいつと決着をつけなければならない。あいつはきっと、俺を待っているだろうから。
「……ゲイル、行きましょう」
 セレスが、俺の手を引く。今までの鬼気迫る表情から一転して、淡く、笑みすら浮かべて。
「あなたが望むなら、わたしがあなたの『翼』になります。霧を裂き、吹き払う翼に」
 どこかで聞いたのか、それとも偶然の一致なのか。セレスがいつかのあいつと全く同じ口上を述べたことに、思わず笑ってしまいながら。
「お前が『翼』なら、俺はお前の『目』になろう。霧の向こう側を見通す目に」
 いつかと同じ言葉を、けれど、あの日とは全く違う心持ちで繰り返して、新たな「翼」の肩を叩く。
「……飛ぶぞ、セレス」
「はいっ」
 とは、言ったものの。つい、聞かずにはいられない。
「で、お前、どうやってここの鍵開けたんだ」
「グレンフェル大佐に頼まれました。『基地が陥落した場合、教団にフォーサイスの身柄を奪われる可能性がある。一時的に別の場所に移すから連れて来い』と。ただ、ゲイルを連れて行かれてはわたしが困りますので、命令には従いません」
 えーと、これ、わざわざセレスに頼んだってことは、要約すると「ジェムとセレスだけじゃトレヴァーの相手は荷が重いから寝てないで働けボケナス」ってことじゃねーかな。本音と建前を使い分けなきゃならない基地司令も大変だ。
「……先生には後で一緒に叱られような」
「はい」
 正直、脱走に命令違反とか叱られるじゃ済まされない気もするが、その辺りは仕向けた張本人のロイドがどうにかすると信じるしかない。せめて、俺に全責任を引っかぶせてくれることを期待する。
 開いた扉を前に、一つ、深呼吸をする。警報の鳴り響く中、肺に吸い込んだ空気は、張り詰めた気配に満ちている。いつまでたっても、出撃前の緊張には慣れることができずにいる。
 だから、ゲイルがいつもそうしていたように、俺もあいつを真似て、口の端を引き上げる。今だけは、あいつの無鉄砲さを見習うべきだ。
「じゃ、『エアリエル』を奪いに行きますか」
 セレスは「はいっ」と元気よく頷き、俺の手を引いた、のだが。
「痛い痛い痛い左手はやめて肩の辺りからちぎれるからやめろやめろって」
 ああもう、最後まで締まらねーな。
 でもまあ、そのくらいが、俺にはお似合いだ。
 
 ――行こう。
 
 これがきっと、俺の|最終飛行《ラスト・フライト》になる。