1-28:交錯する過去と、

「……おい、オズ? 大丈夫か?」
 魂魄の奥に響く声に、我に返る。
 気づけば、目の前にはゲイルの顔があった。目尻が垂れた琥珀色の目が――どこまでも見慣れたそれが、真っ正面から俺を見つめている。
 一体、俺は、何をしていたのだったか。
 目の前ですらりとした体躯を晒す『エアリエル』は、飛び立つ瞬間を待ち構えている。
 そう、そうだった。帝国の機関巨人が女王国の領海に現れたと、俺たちに出撃命令が下ったのが、今から十五分前の話。急な出撃はいつものことだ、どうということはない。
 ――ただ。
「お前、また、寝てないのか?」
 ゲイルの言葉に含まれた呆れの響きに、つい、苦いものを噛み締める。
 また。そう、確かに昨夜は寝ていない。指にこびりついた絵の具の青さが、つい先刻まで絵筆とパレットを手にしていたことを物語っている。
 嫌だな、いくら趣味の自由が許されているとはいえ、それが原因で任務に支障をきたすなんて、子供じゃあるまいし。「目」を全うするには、頭の働きだけは正常でなければならないのに、こんなぼんやりした頭ではゲイルの足を引っ張るだけだ。
「悪い、ゲイル。今から飛ぶってのに」
「別にいいさ。いつも『目』はお前に頼りきりだしな、たまには気ぃ抜いてもいいだろ。真面目すぎんのも考え物だぜ」
 けたけたと笑いながら俺の肩を叩くゲイルに、気負った様子はない。
 だが、今から俺たちが赴くのは、戦場だ。魄霧の海には、帝国の機関巨人が待ちかまえている。幾度となくこちらの船に風穴を開けてきた機関仕掛けの槍、弾をことごとく弾く鋼の鎧。今までは勝利を収めてきたが、今回も必ずしもそうなるとは限らない。
 何も『エアリエル』の性能とゲイルの腕を疑うわけではない。ただ、敵は相対するたびに新たな兵器と戦術で俺たちを翻弄する。それに、他でもない俺自身が対応しきれるのか――。
「大丈夫だ」
 堂々巡りに陥りかけた思考をぶった切る、声。思わず眉間に力が入るのを感じながら、ゲイルを睨む。根拠のない言葉は嫌いだと言っているのに、こいつはいつだって適当にものを言う。
 だが。
「俺たちは死なねーよ。だって」
 霧に包まれた空を見据える、その目には。
「お前が見た青空を、まだ、見つけてねーんだから」
 俺に振り向いて見せる、その曇り一つない笑顔には。
 いつからかずっと夢見続けている、空の青が映り込んでいるように見えて、俺は、ゆるりと首を振る。
「……そうだな」
 そう、約束をしたんだ。
 俺と、お前と。青い空を見に行こうって。それまで、お前は死なないんだろう、ゲイル。どんなに深い霧の海も、雨のように降り注ぐ砲弾の中も、笑いながら飛んできたお前の言葉は、理屈などないけれど、どこまでも真っ直ぐだ。
 だから、その言葉を信じて、俺はお前の「目」でいよう。
 俺は一人では飛べないけれど、夢見た場所に連れて行くと言ってくれた、あの日の約束を信じて――。
 
 
「……ル……」
 ――青。
 それは、かつての俺が夢に見た色。
 あいつが俺のために求めてきた色。
 そして。
「ゲイル!」
 俺の頭に波紋を投げかける、声の色。
 
 
「……っ!?」
 反射的に飛び起きて、その動作一つで全身に走る痛みに、「寝ていた」のだと気づく。
 ――ゲイルはどこだ?
 そう、一瞬でも思ってしまった自分に舌打ちをする。違う、今まで見ていたのは夢だ。もしくは「過去」だ。あいつが確かに生きていた頃の、俺が致命的な馬鹿だった頃の、記憶。
 未だ鈍く痛み続ける左の肩を押さえて、硬く閉ざされた扉を見やる。外から監視できるようにだろう、扉の上部に開いた鉄格子のはめられた窓から、廊下の壁が見える。
 ……声が、聞こえた気がしたのだが。
 思っていると、ぴょこん、と何か青いものが鉄格子の向こう側に一瞬見えて、消えた。
 何だ、今の。
 そう思いかけて、一つだけ思い当たるものに気づいて、慌ててベッドから飛び降りる。
「セレス!?」
 扉に張り付いて、鉄格子越しに廊下を見れば、そこには、最後に『エアリエル』に乗った時と寸分変わらない姿のセレスが背筋を伸ばして立っていた。
 あの時『エアリエル』の内側で蒸発したという事実すらも、感じさせずに。
「無事、だったのか……」
 つい、安堵の息が漏れる。ロイドが嘘をつくとも思えなかったが、この目でセレスの姿を確かめるまでは、不安が張り付いて仕方なかったから。
 鉄格子の向こう側のセレスは、瑠璃色の目をまん丸くして俺を見つめた後、ちいさな唇を開く。
「はい。肉体の換装を完了しました。心配かけて申し訳ありません」
「……謝るな。お前は、トレヴァー相手によく戦った。これは、完全に俺の失態だ」
 最初から相手がトレヴァーであるとわかっていながら、俺は全力を出し惜しんだ。むしろ、『トレヴァーであったから』と言った方が正しいかもしれない。
 トレヴァーは、俺をよく知っていたから。
 俺が全力を出せば、必ず俺がオズであると気づくから。
 だが、それが一体何だっていうんだ。命を惜しむ理由もない俺のつまらない意地が、セレスを危険に晒したのだ。俺の失態以外の何物でもない。
 だが、セレスは俺を責めることも罵ることもせず、ただ一つ、ゆっくりと瞬きをして、首を傾げる。
「あの時、わたしが蒸発した直後、何をしたのです? 肉体消失後の記憶は曖昧ですが、普段と違ったのはわかりました」
 セレスは『エアリエル』の内側にいたから、俺の挙動は見えていたのだろう。俺が、今まで封じていた『エアリエル』の全知覚を総動員させて、かつそれでも捉えられないはずのトレヴァーの動きを見切ったことも。
 今更、これをセレスに理解してもらったところで何にもならないが。質問に答えない理由もない。一つ、息をついて、できる限り平易な言葉を拾い上げながら、言葉を、放つ。
「セレス。『原書』は知ってるか」