1-25:掛け金を、はずす

 ――俺は、何をしている?
 トレヴァーの動きを読み切ることもできない俺は、今やセレスの動きを眺めているに過ぎない。
 どこからか流れ込むトレヴァーの声が、歌うように告げる。
『ゲイルほどじゃないけど、君も筋は悪くない。荒削りだけど、ゲイルとよく似てる』
 気配はどこにも無いのに、首筋を舐められるような。気色悪さをどうしても振り払えない――それが、トレヴァーの飛び方だ。
 仲間だった頃もそうだった。遥かに機動力で劣るはずの『ロビン・グッドフェロー』を駆りながら、『エアリエル』にぴったり追随し、その行く手を阻む連中を撃ち落としてきた。
 変態だが、腕だけは確か。だからこそ、絶対に敵に回したくない相手だった。
 隙が、見えない。言葉をどれだけ重ねたところで、トレヴァーは俺たちの前に尻尾を見せない。
 船体に衝撃が走り、セレスが小さく呻く。胴体に針が突き刺さったのを、察する。
『……残念だね。出会ったのが「今」じゃなきゃ、もう少し愉しめただろうに』
 トレヴァーの声を合図に、刺さった針が熱を帯びて弾ける、轟音。激しく揺さぶられる船体、魂魄に走る無数の警告。だが、セレスはその全てを受け止めながら、なおも、全力で離脱を図る。壊れかけの『エアリエル』は声を殺すセレスの代わりに甲高く吠え、青い翅を震わせて更に速度を上げる。
 視界の端で捉える同調率はほぼ百パーセント。|魄霧《はくむ》汚染以上に船体の傷みを全て引き受ける苦痛を堪えながら、高く、高く飛び続けるセレスに耐え切れず、つい声を上げていた。
「同調を緩めろ! そのままじゃお前まで」
「ダメです、少しでも緩めれば撃ち落とされます!」
 俺の声を遮ってセレスが叫ぶ。そうだ、セレスが正しい。『エアリエル』の優位は『ロビン・グッドフェロー』よりも速いということ、ただそれだけ。同調を緩めたタイミングは必ず隙ができる。そこを見逃すトレヴァーではない。
 だが、それよりも、セレスが。
 俺の思考を切り裂いて針が飛来するも、『エアリエル』の船体が破壊された際の熱が生んだ大気の揺らぎで、針の位置をかろうじて感じ取る。咄嗟に計算を走らせ、セレスに投げ渡す。
「……セレス!」
「はいっ」
 セレスは、どこまでも、俺に忠実だった。
『エアリエル』を鋭角的に旋回させ、俺たちの行く手を塞ごうと放たれた針の隙間を、鮮やかな機動で抜ける。
 それでも、それでも――。
 
『本当に、残念だね』
 
 トレヴァーの宣告は、正しかった。皮肉なまでに。
 がくん、と。『エアリエル』の船体が、急に力を失う。ほとんど反射的に操縦権を奪取して、形だけは立て直しながらも、船内を精査する。
 精査自体は一瞬で済んだ。
 だが、セレスの姿は、既に|正操縦士《プライマリ》席から消えていた。
 ――蒸発。
 |霧航士《ミストノート》の寿命。許容量を超えた|魄霧《はくむ》を取り込んだ肉体は、|魄霧《はくむ》へ「還元」される。それは、怪我や病気による死とは異なるが、肉体の死に他ならない。
「嘘……、だろ」
 思わず声が漏れていた。
 わかってはいたんだ。セレスにとって、トレヴァーの相手は荷が重過ぎる。ジェムがそうであるように、セレスも「加減」を知らない。『エアリエル』は|正操縦士《プライマリ》が探査や兵装操作に意識を注がないがゆえに、更に加減を誤りやすい船だと。俺は誰よりもよく知っていたはずなのに。
「俺の、せいだ」
 俺が躊躇わなければ。何もかもを捨ててトレヴァーと対峙する覚悟があったなら。
「そうだ、俺が殺したも同然じゃないか、あいつと同じ。俺が、殺した……」
 ――違います、ゲイル。
 その時、セレスの声が聞こえた気がした。いや、幻聴でも何でもない、俺の魂魄はまだセレスの気配を感じている。そう、セレスはここにいるのだ。『エアリエル』の内側に。
 ――大丈夫です。わたしは、生きています。
 ノイズ交じりの声が囁く。ほとんど消え入りそうになりながら、俺に必死に訴えているのが、感じ取れる。
「そうか、これが、人工|霧航士《ミストノート》……」
 セレスは生きている。人工|霧航士《ミストノート》は、肉体が蒸発しても一定時間は魂魄が魂魄界に留まる。その間に新たな肉体と接続することができれば、セレスは事実上「死ぬ」ことはない。
 だが、それはあくまで、無事に基地まで帰れたなら、だ。俺の耳にセレスの声が届くということは、セレスの魂魄は未だ『エアリエル』に同期したまま。すなわち『エアリエル』が落ちたとき、セレスが完全に死ぬということ――。
 
『さあゲイル、これで二人きりだよ』
 
 だが、俺の焦りなんざ知ったこっちゃないとばかりに、トレヴァーが、俺の前に立ちはだかる。見えていなくても、わかる。『ロビン・グッドフェロー』の針は、俺が少しでも動いた瞬間に『エアリエル』の機関部を撃ち抜くであろうと。
『君が操縦しなきゃ「エアリエル」は落ちる。もちろん、ボクが撃ち落とす。でも、そんなのつまらないだろ?』
 つまらない。
 その、なんてことはない一言で、俺の内側で全てが噛み合った。過去から現在に至るまで、俺の内側で燻っていた感情も。セレスの飛び方に感じた羨望も。トレヴァーを前にして生まれた躊躇いも。セレスの喪失の原因も。何もかも、何もかも。
 ああ、そうだな。お前の言うとおりだよ、トレヴァー。
 ずっと、つまらないと思っていた。
 あいつのいない海なんて、飛ぶ価値がないと、思っていた。
 だが、やっとわかった。
 そんなのただの言い訳だ。飛べない俺が、その理由をあいつの死に求めていただけの話。飛べないのに飛びたいと願った俺のわがままが、俺だけでなく、どこかあいつに似たセレスを危険に晒した。
「ごめん、セレス」
 そう、俺は、どうしたって飛べないけれど。
 せめて、この場だけは切り抜ける。それが、今の俺にできる唯一だ。
 本当は、もう少しだけ、夢を見ていたかったけれど。
 想像上の掛け金を外して、今まで制限していた『エアリエル』の知覚機能を全解放する。人間の魂魄には収まりきらない情報量が、どっと流れ込んでくるのを全身で感じながら。
「|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》、|開錠《ログイン》」
 不可視の扉を、開け放つ。
 どこぞのカルト教団が謳う圧倒的な生の情報――「原書」を満たした、不可視の記録装置にして演算装置、『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』が俺の目の前に開かれる。
 書庫から伸ばされる幾重もの腕が、『エアリエル』が取得する無数の情報と、俺の要求を引き込み、内部の記述とを照らし合わせて応答する。
『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』はまさしくこの世の「全て」を網羅した記録装置だ。この世に存在するもの全ての情報は、閲覧者の要求に対してわけ隔てなく提供される。
 当然、こちらに向けられた針の動きだって。
 はっきり見えなくとも「存在する」以上は、軌道を算出できる。
 応答に従って、減速。『エアリエル』と『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』が投げかけてくる莫大な情報に脳が悲鳴をあげ、視野が徐々に狭まっていくのを感じながらも、『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』を通した演算を続ける。
 一発、二発、三発。立て続けに投げかけられる針を、慣れない操縦でぎりぎり避けたところで、『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』に再度の要求を叩き込む。莫大な情報量に頭が締め付けられ、かき乱された意識で同調を失いつつある『エアリエル』の船体が傾ぐのがわかる。それでも、それでも。
「……頼む」
 今、一度だけは。
 この船を基地に帰す力を、俺に寄こせ。
 一欠け残った理性で、光の矢を、放つ。演算を経て放ったはずの光の矢は、しかし『ロビン・グッドフェロー』がいる空間を貫きながら、その鞘翅の一部を穿っただけであることを、『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』の応答で理解する。
 緊急回避――!
 本来「|隠密《ステルス》」に割り振っている力を「機動」に変換する、『ロビン・グッドフェロー』の、たった一度だけの全力の回避行動だ。
 読まれていた。こちらの動きの変化に瞬間的に反応した。俺の「能力」を知っているトレヴァーだからこその判断に、背筋が冷えると同時に、意識が遠ざかっていく。
 まだだ、まだ早い。せめて、ここを切り抜けて基地までは戻らないと――。
 その時、失意に満ちた声が、意識の片隅を震わせる。
『君……、ゲイルじゃないね?』
 揺らぐ視界に、緊急回避に際して|隠密《ステルス》を解いた『ロビン・グッドフェロー』の姿が見えた。思ったよりもずっと近くに漂っていた、霧と同じ色をした船は。
 
『ねえ、どうして君がそこにいるんだい、オズ?』
 
 あくまで冷ややかに、|俺の名《、、、》を呼んだ。