番外編:かぼちゃのタルト

「ああ、アキ? 私、今日用事が入っちゃって、タルト、取りに行けなくなっちゃった。なっちゃんは暇みたいだから、直接渡してくれるかな。なっちゃんに待ち合わせ場所、伝えとくから」
 受話器から一方的に流れてくる言葉に対し、アキはうんうんと相槌を打つので精一杯だった。高校時代からの友人であるチエは、いつだって、アキのスローテンポとは相容れない。
 それでも、何とかチエの言葉を頭の中で噛み砕いて、飲み込んで。
「……へっ?」
「じゃあよろしく。くれぐれも、なっちゃんに変なことするんじゃないよ」
「え、いやいやちょっと待っ」
 がちゃ。つーつーつー。
 そこでチエが待ってくれないことくらい、アキが一番よく知っていたわけだけれども。

   ■   □   ■

 そもそもの、ことの起こりは二週間ほど前。
 菓子作りを趣味とするアキが、多忙の合間を縫って作ったアップルパイ。焼き加減も味も歯ごたえも絶品であったが、一つだけ問題が浮上した。
 調子に乗って、作り過ぎたのだ。
 いくら甘味狂いで底なしの胃袋を持つアキでも、全く同じ菓子を延々と食べ続けるのは流石に飽きる。一人暮らしということで他に食べさせる相手もおらず、甘味好きの仲間であるチエに、味見も兼ねていくらか譲ったのである。
 すると、数日後、チエから連絡が来たのだ。
「同僚の子が、あのパイ気に入ったみたいだから、また作って」
 ――と。
 もちろん、アキは快諾した。作った甘味を美味しく食してもらえた、というのは何にも勝る幸せである。というわけで、仕事休みにパイをこしらえて、チエに渡しに行った。
 そこで。
「おーい、アキ、こっちこっち」
 待っていたのは、手を振るチエと、もう一人。アキが初めて見る女だった。
「え、ええっ?」
 女は何故か驚きの声をあげ、目を白黒させてアキを見上げている。アキは、どうしてそんなに驚かれたのかさっぱりながら、そちらを凝視する。
 アキよりも頭一つ以上背の低いその女は、肩にかかる長さの柔らかそうな髪をチョコレート色に染めていた。くりくりとした目や小さな唇には小動物的な愛嬌があるものの、目を見張るような美女ではない。
 なのに、ただただ、彼女を見つめることしかできずにいた。自分でも、理由がわからないまま。
 そこで、二人の間に「何ぼうっとしてんの」とチエが割って入った。やっと意識が逸れたことに、何故か無性にほっとした。
「この子が、私の同僚のなっちゃん」
「は、はじめまして、モリナガ・ナツキです。あなたがアキさん、ですか?」
「うん、ナグモ・アキラ。好きに呼んでくれればいいよ。君のことはナツキちゃんって呼んでいいかな」
「はいっ。よろしくお願いします、アキさん」
 ナツキはぴんと背筋を伸ばし、やけに緊張した声で言う。何かまずいことをしてしまっただろうか、と不安になりながらも、意識して笑みを浮かべる。自分が愛想を欠いて、相手を怖がらせていては世話はない。
「パイ、食べてくれてありがと。喜んでもらえてたみたいで嬉しいよ」
「こちらこそ、ありがとうございました。お店屋さんのより美味しいお菓子、初めて食べました」
「そう言ってもらえると俺も本望だな。お菓子、好きなの?」
「はい。食べるの専門ですけど」
「はは、俺もほんとは食べる方が好きなんだ」
 言葉を交わしているうちに、やっと、本来の調子が戻ってきた。
 初対面の女の子を前にして緊張したのだろうか、と苦笑しつつ、紙袋に入ったパイを手渡す。その瞬間、ナツキの表情がぱっと笑顔になる。その、花が咲くような笑顔が目に入った瞬間、胸が、激しく高鳴った。
 おかしい。何かがおかしい。無邪気に喜ぶナツキの笑顔から目が離せない。
「ありがとうございます、アキさん! 嬉しいです」
 弾む声が、明るく澄んだ目が、自分に向けられているのだと。考えた途端、更に心拍数が上がってしまう。一体、どうしてしまったのだろう。かろうじて残された冷静な思考をよそに、脳の大半を占めるのぼせた意識が、勝手に言葉を紡いでいた。
「他に食べたいものがあったら、遠慮なく言ってよ」
「えっ、悪いですよ。お忙しいって聞いてますし」
「俺、菓子作りが息抜きみたいなもんだから。テーマがあった方が楽しいし」
 決して、嘘ではない。仕事が忙しいのは事実だが、忙しければ忙しいだけ、甘味にかける情熱は燃え上がるというものだ。その本気加減が伝わったのか、ナツキは「でも」と言いかけた言葉を飲み込んで、微笑む。
「それじゃあ、一つ、アキさんにお願いしてもいいですか?」

   ■   □   ■

 そうして、交わした約束を果たすのが、今日だったわけだ。
 アキは受話器を置いて、つい、意味もなく部屋の中を歩き回ってしまう。
 本来の予定では、チエがナツキを連れてきて、三人で他愛の無い話をしながら菓子をつつく会、になる予定だった。けれど、チエが不在で、二人で会うとなると話が変わってくる。
 いや、何も変わらないだろ、と冷静な自分がツッコミを入れる。チエがいようといまいと、ナツキとはこの前と同じように他愛の無い話をして、作った菓子を渡せばいい。それだけではないか、と。
 しかし、それだけでいいのか、と頭のどこかが囁くのだ。ナツキと再会して、ただ話すだけで満足できるのか、否、そんなはずはない。
 だが、それなら、何だというのだろう。アキにとって、ナツキはこの前初めて会った、友達の友達。それ以上ではない、はずだというのに。
 ナツキの顔を思い出すだけで、動悸がして頭がくらくらしてくる。自分の感情が自分で制御しきれないなんてどうかしている。一体どうしたというのか。
 そんな自問自答を何十回と繰り返してみて、ふと、ある仮定が生まれる。

 ――これが、恋ではなかろうか。

 アキは、恋を知らない。
 二十五年を生きてきて、恋人を持ったことは一度や二度ではない。それこそ大学時代はチエが「今付き合ってるのはどんな子?」と聞いてくる程度には、恋人に困っていなかった。
 が、アキがそれを望んだことは一度も無い。
 望まれたから恋人として付き合って、向こうが冷めたら別れるという繰り返しで、アキ自身が「恋」を自覚したことは一度たりともなかった。自分には、そういう機能が人並みに備わっていない、とすら思っていた。
 だから、この異常な感情に、今の今まで名前をつけられずにいた。
 果たして、これは、本当に恋なのだろうか?
 もう一度、ナツキと向き合って確かめたい、という気持ちと、確かめるのが怖い、という気持ちとがせめぎあう。この落ち着きを失った心が、ナツキを前にして暴走しないとも限らないのだから。
「だいじょぶ。自制心はある方。多分」
 既に「多分」という辺り、自信のなさが浮き彫りになっているが。
 それでも、今日は来てしまって、きっとナツキは時間通りにやってくる。待たせるわけにはいかない。約束の菓子を詰めた袋を抱えて、部屋を飛び出す。
 胸のざわめきは、止まなかったけれど。

   ■   □   ■

 結局、待ち合わせの場所についたのは、アキの方が先だった。というより、三十分早く到着した。気が急いているにもほどがある。
 早く着いたはいいが、待つ側というのはそれはそれで、悪い想像ばかり浮かんでは消えていく。例えば、ナツキがすっかり約束を忘れてしまっている、だとか。例えば、自分が待ち合わせの場所や時間を勘違いしている、だとか。例えば、実はナツキがアキに会うのを嫌がっている、だとか――。
 そうだ、嫌われている可能性だってある。菓子作りの腕を買われてはいても、人格的に好かれていないことだって、十二分にありうる。
「どうしよう……」
 そうだったとしたら、二度と立ち直れそうにない。駅前のベンチで頭を抱え、この世の終わりを見たかのような顔で俯いていると、ふと、視界に影が差した。
「アキさん、お待たせしました」
 降ってきた声に、はっと顔を上げる。
 そこに立っていたのは、柔らかな笑顔を浮かべたナツキだった。その笑顔を見た瞬間に、胸に渦巻いていた悪い想像はすっかり霧散して、代わりに、温かなものが胸いっぱいに広がる。

 ――ああ、これが、恋なんだ。

 自然と、確信していた。今までの激しい動悸や眩暈が嘘のようだ。今まで経験したどんな感情よりも優しく、温かなもの。それがナツキの顔を見ただけで、湧き上がってくる。
「アキさん?」
「ああ、ごめん。ぼーっとしてた」
「大丈夫ですか? お仕事続きで疲れてませんか?」
 こくん、と首を傾げたナツキの、大きな目がアキを映しこんでいる。とんでもなく間抜けな顔を晒していたと気づいて、つい、頬が緩んでしまう。
「ん、ありがと。俺はだいじょぶだよ。はいこれ、頼まれてたタルト」
 手渡した袋の中には、ナツキのリクエストによるかぼちゃのタルト。
 鮮やかな黄色のかぼちゃペーストにいい具合の焦げ目がついていて、目で見るだけでも楽しめる。袋を覗き込んだナツキは、ラップに包まれたそれを見て、顔をほころばせる。
「わあ、美味しそう」
「俺の好みで作っちゃったから、ナツキちゃんのお口に合えばいいんだけど」
「えへへ、どんな味なのか今から楽しみです!」
 その笑顔が何よりも眩しくて、アキは眼鏡の下で目を細める。
「ね、この近くに、美味しいケーキが食べられるカフェがあるんだ。そこで、お茶でもしない?」
「本当ですか? 是非ご一緒させてください」
「よかった。じゃあ、行こうか」
 本当は、すぐにでも手を取って駆け出したかったけれど。
 まずは、もう一度出会えたという喜びを噛み締めて、二人並んでの一歩を踏み出す。