ホットココア

 アキは、暗闇の中で目を開けた。
 胸が引きつるように痛くて、呼吸が乱れる。けれど、病というわけではない。この痛みは、自分が忘れていた、忘れようとしていた痛みだ。
 闇の中にちらつく、最悪のイメージ。脳裏に焼き付く悪夢を打ち消したくて、ナツの体を抱き寄せる。眠るナツは、微かに声を上げただけで、目を開ける様子はなかった。
 ――あたたかい。
 その温もりは、アキの胸にも染み渡り、自然と痛みが鎮まっていく。そのまま、温もりに身を委ねて優しい眠りに誘われてゆけばいい。きっと、今度はいい夢が見られるだろうし、明日もナツの明るい「おはよう」で目覚められるはずだ。
 ――本当に、それでいいのか?
 その時、ふと脳裏に浮かぶ、問いかけ。
 何となく、最初から違和感はあったのだ。その違和感に、気づかないふりをしていた。いや、最初の時点で全てに気づいてしまったら、この胸の痛みに耐えられなかったに違いない。
 だから、何もかもを受け入れた。ナツの「おかえり」と、ナツと二人で過ごす優しい日々を。受け入れている間は、この胸の痛みさえ、すっかり忘れていられたから。
 けれど、今は違う。確かに胸は痛い。張り裂けそうに痛い。ただ、その痛みの理由を、落ち着いて考えられるようになった自分がいる。
 そうして、自分について考えていくうちに、ふっと、言葉が唇から零れた。
「……そっか。そう、だったんだな」
 すると、腕の中のナツがもぞりと動いた。
「アキさん?」
「ああ、ごめん。起こしちゃったかな」
「ううん。ちょっと目が覚めただけ。アキさんこそ、どうしたの?」
「……嫌な夢を見てね」
「どんな夢か、聞いていい?」
 うん、と。一つ頷いて、ぽつり、ぽつりと、腕の中にいるはずのナツに向かって語りかける。
「ナツがね、いきなり、俺の前からいなくなっちゃうの。それで、俺は何も手につかなくなっちゃって、ナツの行方を捜すんだ。でも、ナツは見つからない。見つからないまま、何年も、何年も過ぎちゃって。俺は、どうしようもなくて、ただ、息だけをしてる。そんな夢」
 ナツが、アキの腕の中で、軽く息を飲んだ気配がした。けれど、何も言わなかった。だから、アキは、ふっと胸の中に浮かんだ言葉を、ナツに投げかけてみる。
「ナツはさ、俺と一緒に暮らしてて、幸せ?」
「どうして、そんなこと聞くの?」
「なんとなくね、不安になっちゃったんだ。今までのこと、全部、俺が幸せでいたいための自己満足で、ナツのこと、きちんと考えてあげられてたのかな、って」
「わたしは、幸せだよ、アキさん」
 ぎゅっ、と。ナツの両腕が、アキを抱きしめる。
「大丈夫だよ、アキさん。わたしに何があっても、アキさんに何があっても、わたし、ずっとアキさんのこと、大好きでいるよ」
「……ありがとう、ナツ」
 ナツの肩を抱き寄せて、唇を重ね合わせる。全身に染み渡る温もりと、胸に響く痛みを感じる。そして、それを、二度と忘れまいと誓う。
 唇を離し、アキはナツの温もりを名残惜しみながらも布団から這い出た。眼鏡をかけて、闇の中にいるナツに声をかける。
「……ココアでも飲んでくるよ。お休み、ナツ」
「うん。お休みなさい、アキさん」
 ナツの声を背中に聞きながら、部屋を出て、キッチンに向かう。小さな明かりをつけると、見慣れたキッチンの姿がおぼろげに浮かび上がる。
 今まで、ずっと自分が立っていた場所。ナツと自分自身のために、菓子を作り続けてきた場所。これからも、そうであるべき、場所。
 上の棚からココアの粉を取り出し、牛乳を火にかける。揺らめくコンロの火を見つめ、

 アキは、覚悟を決めた。