マドレーヌ
意外だったなあ、と。チエは電話越しに言った。指輪を嵌めた左手で受話器を持ったアキは、壁に寄りかかって問う。
「何が?」
「アンタが、なっちゃんと長続きしてること」
チエはアキの高校時代からの友人で、実のところ、アキの「元彼女」でもある。ただ、恋人である期間はそう長続きしなかった。普通の恋人らしく二人で過ごし、あちこちにデートに出かけ、そしていざ、ことに及ぼうとした時に、アキがふと「自分たちはこういう関係じゃない気がする」と言って、それにチエが同意して別れたのだった。
それであっさり別れ、こうして今も親しい友人として付き合っていられるのだから、やっぱり、自分たちは「恋人」ではなかったのだと思っている。
そんな、アキにとっては大切な友人であるチエが、溜息混じりに言う。
「アンタって、もてるけど、一人の女の子と長くつきあえるタイプじゃないって思ってたから」
「もてるかどうかは置いておくにしても、俺も、今まではそう思ってたよ」
かつて、アキは「恋人」というものがよくわかっていなかった。かわいい女の子は好きだが、だからといって、パートナーとして相手を見つめ続けていることはできなかった。
ナツと、出会うまでは。
「でも、ナツを初めて見た時に、気づいたんだ。ああ、俺はこの子に会うために今まで生きてきたんだなあって。それからは、もう、ナツ以外の女の子には興味も持てないし、ナツ以外と一緒にいることなんて、考えられないんだよなあ」
「うわ、いらっとする」
「なんでさ」
「それは彼氏のいない女の僻みであります」
チエはぶすっとした声で言った。アキが記憶している限り、チエは相当男にもてたはずだ。明るく華やかで、頭も切れるチエに、アキの友人の男たちは何人もアタックしては、華麗に玉砕していたと記憶している。アキは単純に「気が合う」からチエと付き合っていたが、チエをパートナーにしたいと望む男は、今もかなりいると思っている。
付き合ってみないとわからない、チエの猫のような気まぐれさや、気性の荒さを受け入れられれば、の話なのだが。
それでも、アキはそれこそがチエのチエらしい部分だと思っているから、心から、チエの幸福な未来を祈って言葉をかける。
「いつか、きっと素敵な相手が見つかるよ。だって、俺にだって見つかったんだよ?」
「そうであることを、祈ってる。で、アンタらはいつ結婚するの?」
「来年くらいには、小さな式は挙げたいと思ってる」
「その時には誘ってよ。これでも、愛のキューピッドなんだからね」
「もちろん」
「なっちゃんのこと。本当に、幸せにしてあげてよ。あんないい子、アンタにはもったいないくらいなんだから」
「うん」
「泣かせたら、承知しないからね」
「その言葉は重いな」
少しだけ、不安はあるのだ。自分にはそのつもりはないけれど、それでも、ナツを悲しませてしまう可能性を、考えることがある。自分を見上げて、涙を零すナツの顔を想像するだけで、胸が苦しくなる。
「だけど、俺も、ナツの泣き顔は、見たくない」
「なら、せいぜい頑張ることだね。あと、仕事で無理しすぎないこと。アンタ、ほっとくといくらでも抱えこむんだから。じゃ、そろそろ切るよ」
「あ、今日、マドレーヌを作ったんだけどさ。チエも食べる?」
「相変わらずの菓子狂いだね、アンタも。でも、アンタの作ったやつなら食べたいな。明日、なっちゃんに持たせてくれる?」
「わかった。それじゃ、また」
またね、と。受話器の向こうでチエが言って、その後電話が切れた音がした。つー、つーという音を確かめて、受話器を戻す。
その時、すぐ後ろでじっとこちらを見つめていたナツの存在に気づいた。眉間に皺を寄せ、いつになく難しい表情をしている。
「……チエさんと、何のお話してたの?」
ナツの目には、露骨な嫉妬が揺らめいていた。ナツは、チエがアキの「元彼女」であることも知っているから、当然といえば当然の反応だ。
でも、そんな風に嫉妬してもらえるのも嬉しいと考えてしまう辺り、つくづく馬鹿だと思う。思いながらも、そっと、ナツの額にキスをする。
「ナツのこと。ナツを泣かせたらどうなるか知らないぞ、って脅されちゃった」
「……本当に?」
「本当さ。明日チエにも聞いてみな」
むう、と未だ納得していない様子のナツの、ぷっくり膨らんだ頬をつついて、アキは晴れ晴れと笑いかける。
「さ、折角マドレーヌを作ったんだ。一緒に食べよう。あったかい紅茶を淹れてさ」