プリン
「おかえりなさい、アキさん!」
扉を開けた瞬間に、弾む声が耳に飛び込んできた。
後ろ手に扉を閉めたのと同時に玄関に姿を見せたナツは、風呂上がりなのだろう、小花を散らした柔らかな生地のパジャマを着ていた。肩の上で綺麗に切りそろえられた栗色の髪は、しっとりと濡れている。
そして、その姿に見とれてしまっていた自分に気づく。
毎日見ている光景だけれど、いつだって、ナツを目の前にすればこうなってしまう。それに、今日は特別疲れているからだろうか、ナツの姿を見た瞬間に、ふっと肩の力が抜けた気がした。
「ただいま、ナツ」
気を取り直して、そっと顔を近づけて、軽く唇を触れ合わせる。濡れた髪から漂う、シャンプーの香り。ナツが大きな目を細めて、にっこりした。
「遅くまでお疲れさま。夕飯は食べてきたのかな」
「軽くね」
「今日は遅くなるって聞いてたから、『時計うさぎ』のプリンを買っておいたの。食べる?」
「もちろん!」
アキはぱっと顔を輝かせる。『時計うさぎ』の洋菓子はどれもおいしいと思っているが、プリンはその中でも一番の好物だ。あの滑らかな舌触りとほのかな甘さは、自分ではどうにも真似できなかったから。日々、近づけようと努力はしているのだが。
「それじゃあ、鞄置いて着替えてくるよ」
「うん、その間に用意しとくね」
そう言ったナツの頬にもう一度軽くキスをして、急いで部屋に向かう。そして、自分とナツ、二人の部屋を何気なく見渡して、ほっと息をつく。仕事の疲れも、吐き出した息と共に体の外に抜けていくのを感じた。
ナツと一緒に暮らし始めたのは、今から半年ほど前のことだ。一目惚れからの告白、そして一年間の交際を経ての同棲。一目惚れなんて、ナツと出会うまでは信じてもいなかったのに。その認識を完全に覆されて、しかも認識を覆してくれたその人が、今も変わらずそこにいてくれるという幸せ。
それが、「幸せ」なのだということを、改めて噛み締める。
この仕事をしていると、時々、大切なものをどこかに置き忘れてしまうような感覚に陥ることがある。痛みすら伴う激しい感情や悪意を前に、自分から大切なものを一旦脇に避けてしまうこともある。そのまま、脇に避けたことも忘れてしまうことも。
けれど、ナツの顔を見ると、明るく弾んだ声を聞くと、自分の中にぽっかり開いてしまった空洞を、あたたかなものが埋めてくれる。見失いかけていた、あたたかなものを、思い出させてくれる。
今も、そうだ。空っぽになって、からからに乾いていた感覚は、もう、どこにも残っていない。ナツの「おかえり」だけで、今、アキはやわらかく、あたたかなものを胸の中に感じている。
それが、きっと「幸せ」ということなのだろう。
「アキさーん?」
部屋の外から、アキを呼ぶ声が、聞こえる。
「まだー?」
「ごめん、ちょっと待ってて!」
慌てて着替えて、部屋を飛び出す。
そして、二人でお互いに大好きな菓子を、ゆっくりと味わうのだ。
それも、ひとつの「幸せ」のかたちだと、信じている。