少年と雪

 最後に一言贈るなら どうか君よ、幸せに。

   (一〇六一年 アリア・レイヴァンス『幸福追求者』)

 
 セイルは、雪の降る中、寮の前で一人立ち尽くしていた。
 ブランと別れ、ここまで来て。
 扉に手をかけることを、躊躇っていた。
 躊躇うことなんてないではないか。いつも通りに駆け込んで、クラエスと一緒に食卓について、リムリカの作ってくれた熱くて美味しいスープを啜りながら、今日起こった色んなことを語り合えばいい。
 話したいことは山ほどある。もちろん言ってはいけないこともあったけれど、それでも、スノウのこと、ブランのこと、一週間の聖ライラ祭の中で起こった色んなことを話したかった。
 なのに、何故だろう。足が、手が、動いてくれない。
 セイルは握った緑色のリボンに視線を落とす。スノウから預かった、お守りのリボン。このリボンと交わした小指の約束が、遠い世界に旅立ったスノウと自分を今も繋いでくれている、そう感じる。
 逆に言えば、今やそれだけしか、彼女と自分を繋ぐものは無いとも言えた。
「ああ……そっか」
 何となく、わかった気がした。
 この扉を開ければ、いつもの世界がそこにある。祭は終わり、彼女がいない、いつものセイルの生活に戻っていく。
 決してそれが嫌なわけではない。嫌ではないけれど。
 ひらり、と。
 セイルの頭からひとひらの花びらが落ちる。それは、城の奥で今も咲き続けている青い薔薇の花びらだった。あの夢のような薔薇の海の記憶すら、きっと時間が経てば薄れてしまう。
 スノウの記憶だって、同じだ。
 いつも通りの毎日の中で、彼女の記憶はいつしか擦り切れていくだろう。セイルが望まずとも、必ず忘れていくはずだ。果たして、彼女が帰ってきたその日に、自分は彼女と出会ったその時のセイルでいられるだろうか。
 リボンは、何も語ってはくれない。ただ、セイルの手の中で、己の存在を主張するかのように揺れているだけ。
 何度自分自身に問いかけても、答えは出ない。それは、スノウが戻ってくるその日になって初めて出る答えだ。だから、考えているだけ仕方ないことだって、わかっている。わかっているけれど……
 思考が堂々巡りになり始めた、その時。
 セイルの手が触れてもいないのに、扉が音を立てて開いた。
 はっとしてそちらを見ると、大きな金色の瞳が二つ、扉の向こうからセイルを覗きこんでいた。
「く、クラエス」
 セイルが呆然としていると、クラエスは、セイルの頭からつま先までを見渡してくすくすと笑った。
「そんなとこに立ってたら、風邪引くよ」
「う、うん」
 セイルは頷きながらも、口をぱくぱくさせていた。クラエスには言わなくてはいけないことがある。昼間の舞台のことだって、きちんと説明したかった。けれど、頭がぐちゃぐちゃにこんがらがって、上手く言葉にならない。
 俯き、手の中でリボンをもてあそぶ。何を言えばいいのだろう、どのような顔で寮に入ればいいのだろう、どうやって……これからの日々を、始めればいいのだろう。
 思っていると、クラエスは「ああ、そうそう」と何かに気づいたように言って、ぽんぽん、と微かに雪の積もったセイルの頭を丸い手で優しく叩いた。
 そして、
「おかえり、セイル」
 クラエスの口から放たれた言葉は、するりとセイルの胸に入り込んだ。
 ――ああ、そうか。
 その瞬間、セイルは胸の奥に優しい明かりが灯ったのを感じた。今まであれだけ考えていたのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、単純明快な答えがセイルの目の前にあった。
 そうだ、それだけでよかったのだ。確かに、いつしか自分は色々なことを忘れていくだろう。何もかもを覚えていられるスノウと違って、自分は元気なだけが取り得のただの小さな子供でしかないのだから。
 けれど、スノウが帰ってきたらこうすればいい。扉を開けて、笑って、今のクラエスと同じ言葉をかけてあげればいい。そうすれば、スノウはきっと笑ってくれる。笑って、こう言ってくれるはずだ。
 セイルはリボンを強く握り締め、にっと笑いかけて、
「ただいま、クラエス!」
 帰還の声を、高らかに響かせた。

 
 その日は、もう、夢は見なかった。
 海のような青い薔薇も、笑う黒髪の少女も、二度と夢に出てくることは無い……けれど、きっとそれでいいのだ。夜中に一度目を覚ましたセイルは、微かな笑みすら浮かべて手の中のリボンの感覚を確かめ、今度こそ深い、深い眠りに落ちていった。