少年と影と守り布
――スノウ。
ブランは、頭の中でスノウに呼びかけてみる。だが、スノウからの返事は無い。
「スノウ」
今度は、声に出してみるけれど……当然、答えが返ってくるはずもない。
スノウは行ってしまった。常に頭の中にあったスノウの気配も、完全に消え去ってしまっていた。もしかすると『遠い世界』に旅立っても通じるだろうかと思っていたが、流石にそれは叶わなかったようだ。
仮面を捨て、いつも通りに気配も無く人波の中を歩いていく彼を、誰も見咎めることは無かった。まさか、堂々と町を行く彼が舞台に上っていたあの悪魔だとは思いもしないだろう。
ただ、一人だけ。彼の背を追う者がいた。
「ブラン!」
高い声に、ブランは立ち止まってそちらを見る。人の波に流されそうになりながら、小さな少年が手を振ってこちらに歩み寄ろうとしていた。
一瞬、逃げてやろうかという思いが頭の中を掠めたが、止めた。そんな意地の悪いことをしてもセイルは困るだろうし、何よりもスノウの意志に反する。今日この日までは、正しくスノウの影であろうとブランは思っていた。
何とか人の波を抜けてブランの前まで辿り着いたセイルは、肩で息をしながら笑う。
「よかった、まだ、どこかに行ってなかったんだね」
「まあな……スノウは、手の届かないとこに行ったけどな」
スノウが旅立った瞬間は、ブランも把握している。だが、それ以上のことは、何もわからない。何も。
「アイツの声も、聞こえなくなっちまった」
ブランは笑うが、それはほんの少しだけ鈍いものになってしまった。もしかすると、これが「寂しい」なのではないか、と自分の胸に問うてみる。だが自分の胸は上手く答えを返してはくれなかった。
セイルはその言葉に何か思うところがあったのだろう、複雑な面持ちでブランを見上げていたが、やがて自分の役目を思い出したのだろう、ブランに向かって片手を突き出した。
正確に言うならば、小さな手に握った、緑のリボンを。
「これ、スノウからブランに。お守りだってさ」
「……ああ、わざわざありがとな。けど」
本当は、お守りなんて、必要ない。
自分の行く先は決まっている、世界樹や女神に導かれるまでも無い、そう思ってしまうのは自分が女神の意志を嫌う異端故か、それとも全く別の理由か。
曖昧な笑みを浮かべて指を伸ばすことを躊躇うブランだったが、セイルは片手でブランの手を押さえ、無理やりリボンを握らせる。そして、大きな瞳を見開いて言った。
「嫌がっても渡すからな! スノウは、他でもないアンタの幸せを願ってこれを預けてくれたんだ、大人しく受け取れよ!」
――次は、あなたの番。
ブランの頭の中に、もう聞こえないはずのスノウの声が響く。
そうだ、いつもスノウはブランを案じていた。自分の方がよっぽど辛いはずなのに、苦しいはずなのに。いつも彼女は他人のことしか考えていなかった。
そんな彼女が、ここに来て初めて自分自身のわがままを通した。そんな彼女の、もう一つの「わがまま」がこのリボンなのかもしれない。
ブランは、そっと、壊れやすいものを握るかのように、短い指でリボンを握った。
「わかった。貰っておく」
言うと、セイルは少しだけむっとした表情でブランを睨んだ。
「これは『預かった』んだ。スノウが帰ってきたら、きちんと返せよ」
ブランは、それには答えずにリボンをポケットにしまった。随分重たいものを預かってしまったとは思うが、それでも悪い気分ではないのは、確かだった。
セイルはしばしむくれたままブランを見上げていたが、不意に表情を翳らせて言った。
「ブランも……もう、行くんだ?」
「そうだな。スノウが行ったからには、俺様も行かなきゃだ」
ただ、その先どうするかは、決めていない。いなかったけれど、セイルにそれを伝えることはしなかった。セイルは不満げに眉を寄せたまま「うー」と小さく唸っていたが、やがてぽつりと、言った。
「また、会えるかな?」
それは、ブランの想定した問いではなかった。何故、セイルがそんな問いを投げかけてくるのかわからず、ブランは戸惑いながら問いに問いを被せる。
「俺様に?」
「うん。俺、スノウのことは色々聞いたけど、ブランのこと、何も聞けなかったから。本当は、もっとブランとも仲良くなりたかったんだ」
――ブランが迷惑だったら、仕方ないけど。
道端の石を蹴るような仕草をして、セイルは呟いた。そして、当のブランは呆然とセイルを見下ろすことしかできなかった。この胸に突如生まれた不可解な感情を、どう扱っていいかわからなかったのだ。
けれど、きっと、この感情に名前をつけるとするならば。
「……じゃない」
「え?」
「迷惑じゃねえよ。きっと……これが『嬉しい』かな」
独り言のように呟いて、ブランはほんの少しだけ笑う。それは、いつもの彼が浮かべている笑みとは全く違う、はにかむような微笑み。驚きの表情を浮かべるセイルに対し、ブランはいつになく穏やかな声で言う。
「ま、気が向いたらまた来るさ。その時には、もっと色んな話してやるよ」
「うん。俺、待ってるから」
待ってる、か。
その響きに対してブランがどのような思いを抱くのか、セイルは知らない。いつか知る時が来るかもしれないけれど、それは今ではないと思い定めてセイルに背を向ける。セイルは明るい声を彼の細い背中に投げかける。
「またな、ブラン!」
「ああ……また、な」
ポケットの中のリボンを指先でもてあそびながら、ブランは笑う。胸の中に生まれた『嬉しい』という感情と、まだ名前の無い痛みを抱えたまま、スノウの影は祭の余韻を厭うかのように、ゆっくりと、町の外に向かって歩いていく。
その時、雪に混じった青い花びらが一片、彼の目の前を横切り、空の果てに向かって飛び去っていった。