少年と少女と海

 ――海。
 セイルは、スノウの手を握ったまま、呟いた。
 ――海だ。
 それは、まさしく海だった。
 石の壁と柱に囲まれた広い円形の空間に咲き乱れる、青い薔薇。それが、何処からともなく吹く清々しい風に揺れて波立っていた。天井を見上げれば半球を描く硝子の天井から、雲の間から見えるつかの間の光が降り注いでいる。
 胸の鼓動が高まる。夢に見た風景をそのまま再現したような青い薔薇の海が、二人の眼前に広がっていた。
 銀色のアゲハ蝶は、ひらひらと薔薇の花畑の真ん中に向かって飛んで行き……一瞬前までは気づかなかったぼんやりとした人影が、その蝶を指先にとまらせた。それはまるで、セイルがスノウに出会ったその瞬間を繰り返すかのように。
「ようこそ、青色薔薇の庭へ」
 声が、風に乗って響き渡る。男のような、女のような。老人のような、子供のような。どのようにも聞こえて、どのようにも聞こえない、不思議な声。スノウはふらりと足を前に踏み出し、セイルもつられるように人影に近づく。
 青い花は薔薇によく似た姿だが、棘は無いようだった。ただ優しく、瑞々しい質感をもって歩く二人の足を包み込んでいる。
 ゆっくりと近づくにつれて、人影がはっきりと輪郭を帯びてセイルの目に見えてきた。
 それは、セイルの知らない若い男だった。ブランより若いくらいだろうか。足元にまで届きそうな純白の髪を垂らし、子供のようにきらきらと輝く黒い双眸でこちらを見据えている。纏っている服は粗末なものだったが、人形のように整った顔をしているからだろうか、みすぼらしくは見えなかった。
 スノウは、ぎゅっとセイルの手を握った。セイルがスノウの横顔を見ると、先ほどまでの恐怖や不安に押しつぶされそうだった表情とは違う、毅然とした表情に戻っていた。
「あなたが、魔王イリヤ?」
 スノウの問いかけに、男は優しげな微笑みを浮かべて頷いた。
 だが、魔王イリヤは数百年前に聖女ライラに滅ぼされたはずだ。生きているなんておかしい。そんなセイルの思いを汲み取ったのか、イリヤはそっと蝶を宙に飛ばして言った。
「もちろん、僕の肉体はとっくに滅んでいるよ。かつてイリヤと呼ばれた意識だけが、幻を伴ってここにいる。何の力も無い、幽霊のようなものさ」
 今の僕に出来ることは、この蝶の瞳で町の人たちの笑顔を見ることと、君のような願いを持つ人を、見つけることだけ。
 イリヤの言葉に応えるように、ふわりと空に向かって舞い上がった蝶は、スノウの肩にそっととまった。
「そう、僕は君を待っていたんだ、雪の少女」
「雪の、少女?」
 スノウはきょとんとした。何故「雪」と呼ばれたのかわからなかったのだろう。当然、スノウにわからないことをセイルがわかるはずもない。すると、イリヤはくすくす笑って空を仰ぐ。
 見れば、硝子張りのはずの空から、ちらちらと白いものが舞い降りてくるところだった。初雪だ、とセイルは思う。この冬になって初めての雪を、スノウも目を丸くして見つめている。
「スノウ、君の名は遠い世界の言葉で『雪』を意味するんだ。雪のような白い肌、黒檀の髪に血色の唇、まさに白雪姫だね」
 しらゆきひめ、という言葉も聞きなれない。それは『知恵の姫巫女』たるスノウも同様なのだろう、不思議そうに首を傾げながら問いかける。
「あなたは、遠い世界を知っているの? ここではない、他の世界を」
「知っているさ。そして、君は僕が知っていると信じてここまで来た。そうだね?」
 イリヤの問いに、スノウは「そう」と答えた。
 そして、背筋を伸ばし、イリヤの瞳を見据えて言葉を紡ぐ。
「わたし、この世界の外に行きたい。この世界じゃ叶わない夢を、叶えに行くの」
 もう、スノウの言葉に迷いなどなかった。両足で薔薇の花畑の上に立ち、薔薇の海よりもなお深い青の瞳で、イリヤを見据えている。そして、それに応えるように、イリヤは深く頷いて……ぱん、と手を叩いた。
 刹那、イリヤの背後で花が姿を変える。青い光と変わった花は、やがて透き通った一枚の扉を形作る。夢の中で見た青い水晶の扉に、イリヤはそっと触れてみせる。
「扉は、そもそも誰のものでもないんだ。僕に頼むまでもなく、君が望みさえすれば扉は君を迎えてくれる」
 けれど、と。
 イリヤは目を細めて、スノウを見た。何処までも優しそうだった表情が一転、零下に変わった気がした。スノウはびくりとしながらも、イリヤを見据える瞳の強さを緩めたりはしない。
「この扉は、一方通行なんだ」
 イリヤの言葉は静かだったが、確かな力があった。
 一方通行――それは、行ったら戻れない、ということ。
 指切りをした、小指が疼く。戻ってこられないのだとすれば、交わした約束だって無意味になってしまう。ざわり、と胸が騒ぎ、そんなセイルの心を映し出したかのように青い薔薇も不穏に揺らぐ。
 セイルは、耐え切れなくなってスノウを見上げた。スノウは、セイルに視線を落として……笑った。どうして笑っているのだろう、とセイルが思った瞬間、スノウはきっぱりと言い切った。
「そんなこと、ないよ」
 イリヤは虚を突かれたように目を見開く。スノウは微笑みを浮かべたまま、声を張り上げる。
「だって、イリヤは今もここにいる。この世界のものじゃない、青い薔薇だって咲いてる。だからきっとあるはずだよ、『この世界に戻る扉』も!」
 セイルもまた、イリヤと同じように目を丸くしてスノウを見つめることしか出来なかった。ただ一人、スノウだけが澄み切った瞳で微笑んでいる。
 少しの沈黙が流れて、
「……ははっ」
 イリヤが、笑った。心底、楽しそうに。
「いや、悪かった。その通りだよ、スノウ。確かに戻る扉も存在する。けれど、その扉の位置は時によって変わる……本当に戻れるかどうかは定かじゃないんだ。それでも、行くのかい?」
 イリヤは試すようにスノウに意地悪く笑いかける。けれど、セイルは今度こそスノウの答えをありありと想像することが出来た。セイルがぎゅっとスノウの手を握ると、スノウもその手を握り返して、はっきりと言った。
「あるってわかってるものを、見つけられない道理は無いよ。わたしは、そう信じてる」
 ――いい答えだ。
 イリヤは言った。
 もう、イリヤの瞳からは冷たい色はすっかり抜け落ちていて、元の優しい笑顔に戻っていた。そして、そっと……扉を押した。それだけで音も無く扉が開く。
 扉の向こうには、青い波だけがあった。足元に揺れる薔薇と同じ色が、扉いっぱいにたゆたっている。海をそのまま四角い箱に閉じ込めたような、不思議な空間だ。
「その言葉を忘れないことだよ、白雪姫。心に満ちた希望は、先の見えない闇の中でも君をきっと導いてくれる」
 イリヤは穏やかな表情でスノウに向かって手を差し伸べた。
「さあ、おいで。はじめの一歩は、僕が導いてあげよう」
 スノウの震えが指先から伝わってくる。その青色の瞳に、微かな迷いが生まれたのがセイルにもわかった。けれど、それを振り切るように首を振って、セイルに向き直った。
「セイル……わたし、行くね」
 本当は。
 本当は、引き止めたいのだ。
 スノウの話を聞いた時だってそうだ。本当はそんな辛い思いをしなくても、一緒にいればいいじゃないかと叫びたかったが、それでは駄目だ。スノウを引き止めることは誰にだって出来る、だが、スノウの背を今この瞬間に押せるのは、自分だけなのだ。
 だから――
「うん」
 セイルは、胸を締め付ける寂しさを隠して、笑顔を浮かべる。スノウの笑顔も、ちょっとだけ歪んでいるように見えた。
「あ、そうだ」
 スノウはそっとセイルの手を離し、己の首に巻いたマフラーを解きかけた。
「これ、返さなきゃ……」
「いいよ、持っていって。向こうが寒かったら、困るじゃん」
 セイルはそのマフラーの端を掴んで、言った。お気に入りのマフラーだったけれど、スノウと一緒に連れて行ってもらえるならば、悪くない。
「戻ってきたら、返してよ。それでいいからさ、な?」
「ありがと、セイル」
 スノウはぎゅっとマフラーを握り締めて、微笑みを浮かべて目を伏せた。今にも、その表情は泣き出しそうに見えた。けれど、スノウは涙を溜めた目でセイルを真っ直ぐに見つめる。
「それじゃあ、代わりに、ってわけじゃないけど」
 スノウは手を首の後ろに持っていくと、髪を纏めていたリボンを一つ解いた。リボンを解くと、雪と青い花びらを混じらせた風に、長い黒髪が鮮やかなコントラストを描いて靡く。
 呆けたようにその様子を見ていたセイルの手に、スノウはリボンを握らせる。
「これは、わたしを今まで守ってくれたお守りなの。わたしが向こうに行っている間、セイルを守ってくれるように」
「そんな、大切なもの……受け取れないよ」
 セイルはスノウにリボンを返そうとしたが、スノウは小さく首を横に振る。
「わたしが帰ってくるまでは、持ってて。その時まで無事でいてほしいから」
 そうだ。セイルもまた、一つの約束をしている。スノウが帰ってくるまで、絶対に待ち続けるという約束だ。そして、その時が来たら、笑顔でスノウを迎えなくてはならない。だから、セイルは深く頷いた。
「わかった。これ、預かっておくから」
「ありがと。あと、もう一つだけ」
 今度は、もう一つのリボンを解いて、セイルの手に握らせた。
「これを、ブランに」
「ブランに?」
「あの人にも、きっとお守りが必要だから」
 ――あの人は、嫌がるかもしれないけれど。
 スノウはちょっとだけいたずらっぽく笑った。つられて、セイルも笑う。二つのリボンを強く、強く握ったセイルは「必ず、渡すよ」と言った。再びあの男に会えるかどうかはわからなかったけれど、きっと会えるという確信を抱いて。
 風に黒髪を揺らし、スノウは一歩、下がる。セイルもまた、一歩下がった。
 青い薔薇の花びらが舞う中で、二人は見つめ合う。微笑みを浮かべたまま。
 小指の約束がある限り、首に巻いたマフラーと握り締めた緑のリボンがある限り、いつかまた巡り会える。
 だから、今は、笑顔で。
 スノウはセイルに背を向けて、イリヤの手を取った。幻であるはずのイリヤの手は、スノウの指先をしっかりと掴んでいるようにセイルには見えた。イリヤは眩しいものを見るかのように目を細め、スノウに語りかける。
「君の選んだ道は険しいよ。決して、楽な旅じゃない」
「覚悟の上だよ」
 スノウはしっかりと頷いた。「よろしい」とイリヤは頷きを返して……ゆっくりと、歌い始める。
「漕ぎ出そう、逆風に抗い、嵐を越えて」
 イリヤの言葉は、風を呼ぶ。雪が、花が、スノウを祝福するかのように舞い踊る。その中で、高らかに歌いながらイリヤはスノウの手を引いた。
「さあ、船出だ、スノウ」
 扉が、光を放つ。青い、青い、海のような光。
 その光に飲み込まれていきながら、スノウはセイルを振り返った。その瞳からは涙を零し、しかし確かに彼女は、明るく笑っていた。
「行ってきます、セイル!」
 光の中で手を振る彼女に、セイルも手を振り返す。何処までも晴れやかな笑顔で。
 だって、これは悲しい別れなんかじゃない。もう一度二人が出会うための「始まり」なのだから!
「行ってらっしゃい――スノウ!」
 セイルの視界を青く染め上げた光が消えた時、セイルは青い薔薇の庭に一人、立ち尽くしていた。
 扉も、イリヤも、スノウの姿も無く、ただセイル一人だけが波立つ薔薇の海の上にぽつりと取り残されていた。何もかもが幻のよう、それこそセイルがずっと夢見続けていた、青い薔薇の夢のように。
 だが、それが夢でなかった証拠に、セイルの手の中には二つのリボンがあった。スノウから預かった、お守りのリボン。いつかスノウに返すためのもの。
「スノウ……」
 セイルは、リボンを握り締めたまま、空を見上げる。滲む世界の中を舞い降りてくるのは、遠い世界で彼女と同じ名前なのだという、純白の雪。
 セイルの声は、スノウに届いていただろうか。
 きっと、届いていたと、信じている。
 セイルは、リボンを持たない手で、そっと頬に触れる。指先に触れる冷たい感覚に、初めて自分が泣いていたことに気づいた。気づいた途端、ぼろぼろと涙が零れて、セイルは青い花びらを散らして膝をつく。
 悲しいのか、寂しいのか、それとも嬉しいのか。
 それすらもわからずに、セイルは声を上げて泣いた。泣いて、泣いて、泣き続けた。体中の水分が出尽くすほどに泣いた。
 どのくらい、そうしていただろう。
 一陣の風がセイルの背を押した。「泣いている場合か」と叱咤するように駆け抜けた風は、セイルの周りに咲く青い薔薇の花弁を散らし、雪を降らせる空に向かって舞い上げる。
 その様子を見届けたセイルは、涙を拭いて、前を見据える。
 緑のリボンを手に、両足でしっかりと地面を踏みしめて、セイルはスノウが旅立った海に背を向けて歩き出した。