少女と少年と影と騎士
光が咲き、音が鳴る。
スノウは、セイルの手を繋いで祭の喧騒の中にいた。町中に飾られた青い薔薇の飾りは、花火の光に照らされ燃え立つよう。
もう、胸の苦しみは消えていた。セイルと約束をしてから、ライラと話をしてから、体も心も驚くように軽い。今まで胸の奥に燻っていた思いをきちんと吐き出せたからかもしれない。
未練はたくさんある。ありすぎるほどに。
だからこそ、スノウは前に進むことを選ぶ。小指の約束を、闇の中を行くための灯火にして。
ただ、一つだけ。
一つだけ、旅立つ前にしなくてはならないことがある。
スノウは人ごみの中に目を凝らす。仮面をつけた人々が、笑いあいながら道を行く。その奥に、スノウの知る姿があった。
「あ……あれ、ブラン?」
セイルもスノウが見つめる相手に気づいたのだろう、声を上げた。確かにそこにはブランがいた。ブランは、スノウとセイルがいることを確認すると、被った妙な顔の仮面を頭の上に押し上げて手を振った。ブランがそこにいることは、はじめからわかっていた。そして、ブランの横にライラの姿があることも。
「スノウ様?」
驚きと共に、ライラがスノウの名を呼ぶ。やはり、ライラは騎士としての態度を崩してはくれないのか、とスノウは少しだけ切なくなる。だがそれはそれでライラらしいとも思う。ライラのその真面目さや不器用さが好ましいのも確かだったから。
ライラはブランとスノウを見比べるように飴色の瞳を走らせ、それから背筋を伸ばして一礼した。
「スノウ様、お体の具合は問題ありませんか」
「うん。ありがと、ライラ。もう大丈夫」
大丈夫だよ。
口の中で繰り返して、その言葉の響きを確かめる。大丈夫、それは折れそうになる自分を奮い立たせるために呟き続けた嘘。それが、今は真実の響きへと変わっていた。ライラもそれに気づいたのか、少しだけ驚いたような顔をしてスノウを見つめた。
そして、次の瞬間、ふわりと微笑んだ。
スノウが久しぶりに見たライラの笑顔だった。神殿にいても、ライラはほとんど難しい顔をしていて笑顔を見せない。小さい頃からそうだった。そんなライラの笑顔がとても綺麗なことを知っているのは、それこそスノウくらいかもしれない。
「なーんだ、ライラちゃんってば、笑えば可愛いんじゃない」
ブランが横から口を挟むと、ライラはすぐにさっと笑みを消してブランをぎっと睨みつける。ブランは「何よう、睨まなくたっていいじゃない?」とふざけた口調で言って両手を挙げた。
そんなやり取りを見ていたセイルが、不思議そうに首を傾げてスノウの手を引く。
「ブランと騎士さんって、知り合いなんだ?」
「……うん。一応、ね」
セイルは、ブランが異端研究者であることを知らない。異端研究者は女神の敵であり、知られることすら許されない。そのため、スノウも詳しいことをセイルに伝えることは避けた。
セイルなら、異端であろうと何であろうと、ブランの本質が変わらないことくらい、簡単にわかってくれるとは思ったけれど。伝えるのは、ブラン本人からでいい。それでいいのだ。
ライラはむっとした表情のまま、それでも最低限の礼儀を込めてスノウに頭を下げる。
「それでは、私は失礼します。スノウ様も、最初で最後の祭です、精一杯楽しんでください」
ライラの言葉は、スノウにとっては意外なものだった。
「わたし、ここにいていいの?」
「ええ。隊長にも、スノウ様を連れて帰るのはもう少し待って欲しいと伝えておきましたから」
「ギーに……そっか。ごめんね、ライラ。ありがと」
ライラの師であり、隊長でもある騎士ギーゼルヘーアの姿を脳裏に思い描く。あの優しい人にも、迷惑をかけてしまった。それでも、きっと、彼ならわかってくれるとも思っている。
ライラは小さく礼をして、そのまま人ごみの中に消えていった。セイルはそれをじっと見つめていた。セイルは、ライラと自分の関係も知らないのだから、当然かもしれないと思う。
「さて、と。俺様も明日の準備すっかな」
ブランは大きく伸びをして、言う。セイルが首をかしげ「準備?」と問いかける。
「そ、明日、スノウをあの奥に連れてかなきゃならんからな」
言って、ブランは顎でセイルとスノウに一つの場所を示す。花火に照らされる城址は、祭の喧騒をよそに静かに佇んでいる。
「見張りがいるんでしょ、どうやって入るの?」
「そりゃあもう、明日のお楽しみ。な、スノウ?」
ブランの計画を知るスノウは、曖昧に笑って頷くだけだ。
計画も何も、行き当たりばったりもいいところ。ただ、それしか方法が無いのも事実だ。またブランに迷惑をかけてしまうけれど、それを考えた彼自身がとても楽しそうなことが救いだ。
「もちろん、セイル。お前さんにも協力してもらうからな」
ブランはぽんぽんとセイルの頭を乱暴に叩く。セイルは「なんだよー」と不満げな顔を浮かべたが、すぐにブランの言葉の意味を問う。
「協力、って何すればいいんだ?」
「何、お前さんは、俺の代わりにスノウを連れて行ってくれればいい。あの城の奥、青色薔薇の咲く庭に」
「……ブラン、は?」
セイルは目を丸くして問いかける。当然のように、ブランはついて来るものだと思っていたのだろう。スノウも、それを望んではいる。いるけれど……
「俺様には、俺様のやることがあんだよ。だから、頼む」
でも、と言い掛けたセイルだったが、ブランが笑みを消して真っ直ぐにセイルを見つめたことで、セイルも気圧されるような形で頷いた。
ブランはあくまで、スノウに降りかかる火の粉を払う役目を貫くつもりだ。それこそ、聖王スノウのいない玉座に独り留まった騎士ブランのように――それがわかっているからこそ、スノウは今ここでブランと会っておかなくてはならなかった。
ブランに、伝えなくてはならないことがあったから。
そんなスノウの思いを知ってか知らずか、それじゃ、と軽い口調で手を上げてブランもその場を去ろうとする。だから、スノウは身を乗り出すようにして高く声を上げた。
「待って!」
ブランが、はっとした表情をしてスノウを振り返った。スノウは唇を噛み、胸の中に浮かぶいくつもの言葉を投げかけようと思ったが、全てを言葉に出して伝えるのは止めた。そのくらいなら、言葉にしなくてもブランには伝わるから。
その代わりに、一番伝えたい言葉を、声として放つ。
「今まで、本当にありがとう」
そして、心の中で、彼が失くした名前を呼んだ。
ブランは、少しだけ寂しそうに笑った。彼が正しく「寂しい」という感情を理解できているとは思わなかったけれど、そういう顔をしてくれた、それだけでスノウには十分だった。
――次は、あなたの番。
スノウは心でブランに呼びかけた。ブランは、本来あらゆる意味で自分とは真逆の道を行く存在。その彼が自分の願いを聞き届け、手を取ってくれただけで、嬉しかった。
本当に、嬉しかったのだ。
スノウの望みが叶えば、彼は元の名前の無い誰かに戻るのだろうか。それとも、与えられた名前を背負ったまま、新たな物語に向かって歩み出すのだろうか。それは誰にもわからない。
スノウは笑ってブランを見上げる。別れは笑顔で、それは元々スノウではなくブランの口癖だったから。
――さよならだよ、
もう一度、言葉にならない名前を呼ぶ。
ブランも笑ってみせた。氷色の瞳を細めて、晴れやかに。
「ああ。じゃあな、スノウ」
そして、それ以上は何も言わずに、ブランもまた人の波の中に消えていった。花火の光が、一瞬だけ彼の長い影を映し出して……それきり、見えなくなった。
胸を満たす寂しさに、スノウはセイルの手を少しだけ強く握った。セイルがそこにいることを、確かめるように。セイルもそれに応えるように、手を握り返す。
「いいの?」
セイルは大きな黒い瞳でスノウを見上げ、問う。多分、それは「引き止めなくてよいのか」という意味だったのだろうが、スノウは自分自身に言い聞かせるように呟く。
「うん。これでいいの」
言って、足を踏み出す。別れが悲しくないと言ったら嘘になる。それは、セイルとの別れとはまた違う「別れ」だから。
けれど、それが自分と彼の選んだ道だ。
スノウは、目指した場所……魔王イリヤのかつての居城にもう一度視線を向けた。闇の中に、銀色に輝く蝶の姿が浮かぶ。
「スノウ、あれって」
セイルも、銀色の蝶を指差した。だが他の人には、闇の中に輝きを放つ銀色の蝶など見えてもいないようだった。今この場では、自分とセイルにしか見えていない銀の蝶、イリヤの使い。
それは、魔王の城に向かってふわりふわりと飛んでゆき、花火の光が世界を満たした瞬間に光に溶け込んで見えなくなった。
「イリヤが、わたしを呼んでる……」
スノウは呟いて、胸の前で手を握り締める。
銀色の蝶が舞い踊る青色薔薇に囲まれた異界への扉と、その向こうの誰も知らない世界を想像して。
忘れていたはずの震えが、ほんの少しだけ蘇った。