影と騎士と前夜祭

 私が出会った彼は、何処にでもいるような青年でした。
 心優しく、優しすぎるが故に誰かのために涙を流す。そのような心を持つ彼は、度重なる戦に心を痛めていました。
 私は彼が引き起こした混乱を許すことは出来ません、しかし彼自身は助けたかった。助けたかったのです。
 そう訴える私に対し、彼は笑って言いました。
 ならば、自分を殺して欲しい。そうすれば僕はこれ以上悲しまずに済む。楽園には皆が望んだ平和が戻る。これほどまでの幸せはないだろう、と。
 確かにそうでした、彼にとっては、楽園にとっては。
 しかし、私は、果たして幸せだと言えるでしょうか?

   (『知恵の姫巫女』に伝わる、聖女ライラ・レイゼルの独白)

 
 夜空に花が咲く。
 遅れて腹にずんと来る音が響き、人々の歓声が溢れる。
 聖ライラの日を明日に控え、リベルの町は前夜祭に沸いていた。その中を、足音も気配もなくブランは行く。その姿はさながら幽霊か何かのようだったが、祭に酔う人々は彼の存在に気を留めることもない。
 ブランはある屋台に近寄り、そこに並べられたものを見る。それは、かつて楽園を襲った悪魔の顔を戯画化した仮面だった。
 前夜祭、そして聖ライラの日には、仮面を被った人々が町を行く。かつて楽園の敵であった悪魔の仮面を被るのは、聖ライラの守護によって、悪魔がどれだけ襲ってこようともこの平和が二度と揺らぐことは無い、ということを示す行為だとされる。
 店先に並べられた仮面は皆、おどろおどろしさの中に妙な愛嬌がある。ブランはその中でも目に緑色の硝子が嵌められた、銀色の鬣を持つ悪魔の仮面を手にした。白い木で作られた顔には、怒っているような、笑っているような不思議な表情が赤い線で描かれている。
「これ、おいくら?」
 ブランが問いかけて、初めてドワーフの店主は彼の存在に気づいたのだろう。驚きの表情を浮かべながらも、面の値段を言った。ブランはポケットの中から数枚の銀貨を出して店主の手の上に乗せながら、笑みを浮かべてみせる。
「よく出来てんね。これ、おっちゃんが作ったの?」
「ああ、毎年の楽しみさな。こいつが珍しいのか?」
「や、懐かしいなと思ってさ。俺様もガキの頃はライラ祭の度に被って大騒ぎしたもんだ」
 ブランは言って、仮面を頭に引っ掛けた。自分でも仮面を額にかけている店主は、「ははは」と豪快に笑って言った。
「お前さん、旅の人みたいだが、もしかして元ここの学生か」
「そうそう、そんなとこ……っと」
 ブランも笑って応じていたが、不意に何かが視界の隅を掠め、自然とそちらに視線を向ける。背筋を伸ばして人波の中を行くのは、白い鎧の騎士、ライラ・エルミサイアだ。
「それじゃあおっちゃん、幸せの色が咲きますように」
「おう、お前さんこそ、幸せの色が咲くように」
 挨拶を交わして屋台を離れ、ブランはライラに向かって手を振った。ライラはすぐにブランの存在に気づき、あからさまに嫌そうな顔をした。
「よ、騎士様。楽しんでる?」
「楽しめるものか」
 ライラは溜息混じりに言ってブランを睨みつける。ブランは「おお怖い」とおどけてみせながら、長い体を少しだけ折り曲げてライラの顔を覗き込む。
「聞いたぜ。昼に『エメス』の隠れ家襲撃したんだろ」
 小声で囁くと、さっとライラの表情が変わった。そんなにわかりやすくちゃ隠し事も出来ないわよ、とブランが茶化すとライラは微かに頬を赤く染め、ブランを睨む瞳に更に力を入れた。
 ブランは「それも一種の美点と俺様は思うけどね」と言ってそれ以上は取り合わなかったが。
「一体貴様は、何処から情報を仕入れてくるんだ」
「その辺はかっこいい男が必ず一つは持っている秘密さ」
「ふざけるな」
 ライラはばっさりとブランの言葉を切り捨て、それから表情を暗くして、彼に聞こえるか聞こえないかという声で囁いた。
「だが、それならば、首尾も理解しているのだろうな」
 ブランもそれを聞いて口元に浮かべた微かな笑みこそそのままだったが、低い声で言った。
「ああ。数人逃したらしいな」
「こちらの不手際だ。貴様の情報は正しかった。それ故に、油断したことは否定できない」
 ブランも既に神殿側の情報は手に入れている。この一週間スノウの側を離れてずっとリベルの町を駆けているのも、ひとえに神殿と『エメス』の動向を掴むためだ。それがブランたった一人でスノウを守る、唯一の方策だった。
 情報は一種の武器だ。時に一振りの剣よりもずっと強力な武器になりうることを、ブランは痛いほどに理解している。
 己の力不足に落ち込むライラの肩を軽く叩いてみせる。ライラはむっと顔を上げるが、ブランは笑みでそれに応える。
「いいじゃねえか、ひとまず危険の根っこは断てたんだ。後はスノウが無事に旅立てるように立ち回ればいい。それだけだ」
「貴様はそうかもしれないが……っ」
 騎士としては、『エメス』は許すことの出来ない存在だろう。それはブランとて理解している。理解はしている、けれど。
「奴らを追いかけたって、第二、第三の連中が出てくるだけだ。それなら、俺様は目の前の問題を先に片付けることを選ぶね」
 その方がまだ建設的じゃない、とブランは嘯く。
 ライラはブランを睨むだけだった。ライラの立場では応えることが出来ないのかもしれない。ざわめく感情と、立場に求められる行動との兼ね合いは、案外難しいのかもしれなかった。
 自分を縛る立場も感情も無いブランには、それを上手く想像することすら出来なかったけれど。
「ま、後は俺様も好きにやるからさ。止めたければ止めりゃいいし、好きにさせてくれるならそれはそれで嬉しい」
「……貴様は、どうやってスノウ様を守るつもりだ」
「それも当然、かっこいい男の秘密、さ」
 ブランはくつくつと笑って仮面を顔の上に下ろす。ライラは、何とも不可解そうな表情を浮かべて呆れた声で呟いた。
「それ、似合わないな」
「うるせえよ」