騎士と少女と扉

「……スノウ様」
  扉の奥には、ライラの求めていた姿があった。
  つややかな黒髪を緑のリボンで纏めた少女は、ベッドの上に腰掛けたまま透き通った青の瞳を微かに笑みの形にした。
「ライラ、久しぶり」
  柔らかな声は聞き慣れたものであり、この目に映るのも確かにいつも神殿で見ていた『知恵の姫巫女』スノウ・ユミルだったけれど、何故だろう。今目の前にいる少女が、ライラの知らない別の誰かのように見える。
  ライラは、一歩、また一歩とスノウが座るベッドに近づく。
  倒れたスノウを見舞うためにスノウの部屋を訪れた日のことを思い出す。苦しくないはずはないのに、その時も彼女は笑っていた。今と同じように。その笑顔を見るたびに、この胸が痛んだことも思い出す。
  彼女は自らを待つ残酷な未来を知っている。誰よりも確かに。
  だが、スノウは不安や恐怖を見せることは無い。最後のその瞬間まで微笑んでみせるに違いない。ライラの知るスノウはそれほどまでに気丈であり、同時に触れがたい部分のある少女だ。
  その、誰よりも強い少女が、今ライラの目の前にいるのだ。
  ライラが口を開こうとしたその時、スノウが微かに笑みを曇らせて……しかし何処までも瞳だけは澄んでいた……言った。
「心配かけてごめん。でも、ライラと一緒には行かないよ」
「スノウ様! しかし」
「別にね、姫巫女の役割が嫌なわけじゃないの。だけど」
  スノウは笑みを消して、ライラから視線を外して天井を仰いだ。彼女の色の薄い横顔は、とても壊れやすい硝子細工のよう。
「このまま大人しく、死ぬのを待っているのは嫌なの」
  はっきりと、スノウは「死」を言葉にした。ライラは、その言葉の奥に秘められた決意の色を感じながらも、何とか喉の奥から言葉を搾り出す。
「ですが、神殿の外に出てはお体に障ります。スノウ様の命を縮めてしまいかねません」
「そうかもしれない。でも神殿の中にいても、命は延びないよ。誰も、この病を治せないんだもん。女神様なら、『それがあなたの運命だから』って言うんだと思う」
  創世の女神ユーリスは、世界樹から生み出された全てを平等に愛する。故に、誰かに特別の慈悲を与えることも無い。それは女神に選ばれた『知恵の姫巫女』とて同様だ。もし女神が奇跡でスノウを救えたとしても、決してそうはしないだろう。
  それが、楽園に生まれし者に与えられた運命なのだと。
  世界樹に還り、新たな生の礎となることを認めるのだと。
  全てを包み込む優しい笑顔で告げるに違いない。
  もし自分がスノウならば、きっと女神ユーリスの言葉を受け入れ、静かに死を待つだろう。世界樹に還り、新たな命を生み出す糧となる、その循環の一つとなることを受け入れるだろう。
  だが、スノウの瞳には、それとは違う意志が息づいている。
「だからね、ライラ。わたし、楽園の外に行こうと思う」
「楽園の……外に?」
  ライラは目を見開いた。スノウが不思議なことを言い出すのはよくあることだが、今回ばかりは驚くしかない。楽園に「外」などあるはずが無いのだ、女神ユーリスの教えが正しければ。
  しかしスノウは淡々とした口調で、一つの物語を語る。それは聖女ライラと魔王イリヤの真実。『知恵の姫巫女』だけが知るという、隠された物語だった。別の世界への扉、異界の青い薔薇。それはライラが幼い頃から聞かされてきた御伽噺とは全く違うもので、にわかに信じることは出来ない。
  ただ、スノウの言葉に嘘は無い。それだけは確かだとライラは確信している。
  呆然とスノウを見下ろすライラに対し、スノウは凛として言葉を放つ。
「青い薔薇が咲く場所に、異界の扉がある。わたしは、そこに行きたい。その先に、行きたい。そこなら、わたしの病も治せるかもしれない。わたし、もっと生きられるかもしれないの」
「しかし」
  ライラは、ぐっと腹に力を込めて言う。ともすればスノウの強い心に気圧されそうになるけれど、折れてはいけない。スノウには、きちんと伝えないとならない。
「雲を掴むような話ではないですか。あまりにも、可能性が低すぎる。そんな危険な真似、させるわけにはいきません」
「うん。ブランもそう言ってた」
  ブラン。それが人名だと気づくのに、刹那の時を要した。「影の存在」を表すその名は、現代では忌まれる名前だからだ。そして、ライラの脳裏にはその名に似合う黒い男の影がよぎった。
「あの男の、ことですか」
  ああ、あの男らしい呼び名だ。そう思う。
  かつてスノウという名を持っていた聖王の影として、凶刃に果てた騎士の名。伝説と異なり、あの男は全くスノウには似ていなかったけれど……瞳に宿る光だけは何となく似ていると、今になって気づいた。
  スノウはきゅっと胸元を押さえ、彼女には珍しい切なる表情でライラを見上げた。
「あの人を怒らないでね、ライラ。神殿として、騎士として、異端を許せないのはわかる。多分あの人は許されない。でも、あの人は何も悪くないから、せめて怒らないであげて」
  ――わたしには、それを願うことしか出来ないから。
  スノウは、喘ぐように言葉を吐き出した。スノウがここまで思いをかけるほどの人物なのか、という小さな驚きがライラにはあった。だが、スノウが神殿を抜け出す時にもあの男一人を頼っていたということを考えると、スノウとあの男の結びつきはライラが思っているよりもずっと強いのかもしれない。
「スノウ様。あの男は、何者なのですか?」
  ライラは静かに問うた。スノウは、小さく首を横に振った。言えない、という意思表示、それ自体がライラにとっては一つの「答え」だった。きっと、知らなくていいのだ。たとえ気づいていても、言葉にしてはいけないことはある。
  だからライラはあの男の姿を脳裏から追い払い、飴色の瞳にスノウの姿を映しこむ。
「スノウ様。どうしても、神殿には帰らないおつもりですか」
  スノウの決意は理解した。
  その思いを曲げることが出来ないことも、理解している。
  けれど、『知恵の姫巫女』は神殿には無くてはならない存在だ。楽園の全てを知る少女は、誰のものでもない。ライラは騎士として、彼女の命ある限りそれを守り、そして彼女が神殿の外に女神の知恵を持ち出すことを、防がなければならないのだ。
  彼女が「帰らない」と言い張るならば、力ずくでも『知恵の姫巫女』を連れ帰らなくてはならない。そして彼女はその命が尽きるまで、神殿の奥深くで知識を伝え続けるだろう。
  それでいいのか、とライラの頭の中でもう一人の自分が囁くけれど、小さく首を振ってその声を忘れる。
  スノウとて、ライラがどのような役目を負っているのかは承知しているはずだ。そう思ってスノウを見ると、スノウは明るく笑ってきっぱりと言い切った。
「帰るよ。いつかは、必ず」
  必ず、という言葉がライラの耳を強く打つ。スノウはいつになく、楽しそうに笑っていた。それは、己の命がわずかであると知ってから、ライラに見せることの無かった無邪気な笑顔。
「あと二日。二日だけ待って。もし向こうに行けなかったら、ライラと一緒に帰るよ。もし行けたとしたら……病気を治してすぐ帰ってくる。絶対に」
「絶対、なんてあるわけがありません。帰ってこられないかもしれないのですよ!」
  そもそもの前提が、雲を掴むような話だというのに。だが、スノウは何処までも真っ直ぐにライラを見据えて笑うのだ。いや、スノウが見つめているのは、ずっと遠くの、彼女には夢見ることすら許されなかった「未来」だ。それだけは、ライラにもはっきりとわかった。
「そうだね。でも、帰れるって信じてる。だって、わたしの居場所はここなの。神殿を出て初めて、わたしの幸せはここにたくさんあるってわかったの。絶対に帰りたいって思えたの」
  スノウの笑顔は、まるで闇に咲く空の色をした薔薇のよう。空の色は祝福の色、幸福の色。スノウが目指す、未来の色だ。
「だから、ライラもわたしを信じて!」
  ああ。
  ライラは思わず声を出していた。
  自分では、この少女の決意を揺らがせることは出来ない。決意を揺るがすことを、許されていない。スノウの笑顔を見ていて、確信した。
  信じられるのか。ライラは自問する。スノウの言葉には何の根拠も無いが、その心に満ち溢れた希望だけは確かなもので、その希望を信じたい。
  ――信じれば、いいではないか。
  ライラは、ほんの少しだけ笑った。
  何を迷っているのだろう、信じるかどうかは己の心が決めることだ。そして、心は「信じたい」と言っている。
  ライラは、ぽつり、ぽつりとスノウに問いかける。
「怖くないのですか」
「怖いよ。とっても怖い」
「不安ではないのですか」
「不安だよ。だって何も確かなことは無いもの」
  言いながらも、スノウの視線の強さは揺るがない。
  それでこそスノウだ。ライラは思いながら、最後の問いを投げかけた。「問い」というよりも「確認」というべき、言葉を。
「それでも、行くのですね」
「それでも、行くの」
  スノウは笑顔で言い切った。
  ライラは小さく頷いて背を向けた。それ以上は、何も言うことは無かった。スノウが行くことを許すとも、スノウを止めないとも言わない。言うわけにはいかないのだ。
  ライラは騎士だ。『知恵の姫巫女』を神殿に連れ帰るという任務を持つ、神殿の代行者。その立場を持っている以上、ライラはスノウの「逃亡」を認めるわけにはいかない。
  だが、ライラ個人としては、スノウの決意を折る理由が無い。友として、スノウが初めて抱いた強い願いを邪魔するわけにはいかなかった。
  だから、ライラは「何も答えない」。それが一番の答えであることは、スノウにも伝わっているはずだから。
  ライラは扉に向かって歩く。その背中に向けて、スノウがほんの少しだけ寂しさを感じさせる声で言った。
「……ね、ライラ」
  ライラは応えず、足だけを止めた。
「最後に、『スノウ』って呼んでくれないかな。あの頃みたいに」
  ライラは振り向かないで、そのまま扉を開けた。
  スノウも、それ以上は何も言わなかった。ライラが何を思っていたのか、スノウがわかっていなかったはずはない。それでも、スノウは言わずにはいられなかったのだろう。
  ぎゅっと、ライラは己の手を握り締める。
  呼んでやればいい。それだけで、いいではないか。
  思いながらも、その言葉を放てば騎士としての決意が揺らいでしまいそうで。己の心の弱さを、自覚してしまいそうで。
  扉を後ろ手に閉めてから、ライラは振り返ったけれど……そこにはもはや、何も言わぬ扉が立ちはだかっているだけだった。