少年と影

 影の男は、スノウの言うとおりそこにいて、寮の壁に背をつけてぼうっと空を見上げていた。
 セイルがそちらに駆け寄ると、前に出会った時と同じ笑みを浮かべたブランは「よっ」と軽く挨拶して片手を挙げた。セイルも「よっ」と真似して返してみせた。
 ただ、スノウに言われて来てみたはいいけれど……何を話せばよいかわからなくて、セイルはブランを見上げたまま、黙った。すると、ブランは口元の笑みを深めて言い放った。
「ありがとな、セイル」
「……え?」
 何故、ブランがセイルに礼を言うのかわからなくて、セイルは首を傾げた。ブランは綺麗な色の瞳を細めて、言う。
「スノウのこと、止めなかっただろ。だから、ありがとうを」
「何で止めるのさ。スノウがそうしたいって言ってるんだ、止める理由なんてない」
 ただ、セイルはブランが何故わざわざ「ありがとう」を言うのか、わからないわけでもなかった。
 もしもスノウが迷っているようだったら、自分もスノウのことを引き止めてしまっていたかもしれない。スノウが、あれほどまでに真っ直ぐ前を見据えていなかったら……残りの時間を共に過ごそうと、言っていたかもしれない。
 けれど、スノウは「怖い」と言いながらも決して生きることを諦めなかった。どれだけ少ない可能性であろうとも、奇跡を信じ続けていた。だから、スノウの背を押そうと決めたのだ。
 ブランは目を細めたまま、セイルの頭をそっと撫でた。それは、まるで壊れやすいものに触れるかのような仕草だった。くすぐったさを感じながら、セイルはブランを見上げる。
「ブランは、スノウの病気のことも、青い薔薇のことも知ってたんだ?」
「当然。知らなきゃ、わざわざ神殿に忍び込んだりもしねえよ」
 ブランはへらへらと笑いながら言ったが、セイルは少しだけ引っかかるものを感じてブランに問う。
「ブランは、スノウのこと止めたの?」
「あ?」
「俺にそう聞いたんだから、ブランはどう思ってるのかなって」
 ブランは一瞬きょとんとした表情でこちらを見つめ……「はは」と笑って片手で顔を覆った。
「最低でも、俺様がスノウならあの選択はしないわね」
「どういうこと?」
「俺様は都合のいい奇跡を信じない主義でな。勝てる可能性がゼロに限りなく近い賭けをするくらいなら、俺様はこの体が朽ちるまでここに留まるな」
 ブランの口ぶりは、まるでスノウの選択を完全に否定しているかのようで、セイルはむっとして反射的に言い返していた。
「でも、可能性はゼロじゃない。ここに留まってたら、ゼロはゼロのまんまなんだろ。だからスノウは」
「そう、スノウは俺様には出来ない道を選んだ。スノウは、俺じゃねえから」
 そして俺様も、スノウじゃない。
 ブランは笑みを浮かべながらも、何処までも淡々とした声音で言った。
「俺様はアイツの痛みを感じることは出来ても、それを肩代わりしてやることは出来ねえ。アイツを生かすために何をしてやることも出来ねえんだよ」
 その言葉は、静かでほとんど抑揚も無かったけれど、ブランの正直な気持ちなのだとセイルは思った。そこまで理解して、やっとスノウがブランを「優しい」と評していた理由がわかった気がした。
 ブランは、本当にスノウのことを考えているのだ。ただ、その方向が常に少しだけずれていて、時にその優しさがスノウを傷つけている。それはきっと、ブラン自身が言っていた「人の心が致命的に理解できない」ことに由来しているのだろう。
 それでも、ブランは何処までも、スノウを助けようとしていたのだ。そして、スノウのことと、彼女を取り巻く現実を誰よりもよく知っているからこそ、スノウを本当の意味で救うことが出来ないこともわかっている。
 だから。
「だから、せめて俺様と違う道を選んだアイツの力になれればな、って思ったのよ。その道が何処に続いているのか、見届けたいってのもあるのかもしれん」
「見届けて……そしたら、ブランはどうするの?」
 難しい質問だな、とブランは笑った。それから、目を覆っていた手を外し、真っ直ぐにセイルを見下ろした。その瞳の色は、何処までも透き通った緑色をしている。
「それじゃ、お前はどうするつもりだ?」
「どうもしないと思う。少しだけ、ここが変わるかもしれないけど、その時にならないとわかんないだろ」
 言って、セイルは自分の胸を押さえた。
 これは、全てスノウの問題だ。それがセイルのあり方を変えるわけではないだろうけれど、胸の中に渦巻く心はきっと、今までとは違う色を見せるとは思っている。
 スノウと出会ってから今までの時間を過ごしただけでも、これだけ胸が高鳴り、今まで感じたことの無い気持ちに染め上げられているのだから――
 ブランは頷き「いい答えだ」と満足そうに微笑んだ。
「じゃ、俺様もそういうことにしとこう」
「む、真似すんなよ」
 セイルが頬を膨らませると、ブランは声を上げて笑って、ふと空を見上げた。セイルもつられて顔を上げると、抜けるような青い空には色とりどりの飛空艇が鳥のように舞っている。
「明日が、前夜だな」
 ブランが独り言のように呟いた。
 明日は聖ライラ祭六日目、聖ライラの日を翌日に控えた日だ。六日目の前夜祭では今までの夜とは比べ物にならないほどに盛大な宴が繰り広げられる、という話はクラエスから聞いている。
 けれど、きっとブランの言葉の意味は違う。
 明日が、スノウの「旅立ち」の前夜なのだ。楽園を遠く離れる、希望に満ちた、しかし何処までも孤独な旅が始まるのだ。
「スノウ……」
 胸がきゅっと締め付けられるような感覚を抱いて、セイルは小さな声で、スノウの名を呼んだ。