少女と決意

 青い、薔薇の夢を見る。
 それは、彼女が魔王イリヤの真実を知ってから、ずっと見続けていた夢。
 銀色の蝶が舞う青い花畑の只中に、彼女は立ち尽くしていた。何処からか吹いてくる温度の無い風が、彼女の長く伸びた……普段は緑のリボンで纏めている……黒髪をざあと揺らす。
 ふわり、ふわりと。
 まるで重力を忘れたかのように蝶が舞う。『重力』という言葉を教えてくれたのもそういえば「彼」だったか。世界を女神の法則、魔力以外の『力』で分類しようとするのは異端研究者の考え方、神殿から一歩も出ることの無かったスノウが知るはずもない知識だ。
 だが、後ろを振り返ってみても広がるのはただただ青い花畑ばかり。風に吹かれて揺れる花は波のように渦を巻き、花びらが彼女の周りに舞う。
 ――さあ、おいで。
 銀色の蝶が彼女を招く。
 頭の中に響く声に導かれてそちらを向けば、一瞬前まで何も無かった場所に、一枚の扉が生まれていた。磨き上げられた青い水晶を思わせる扉だが、その向こうを見通すことは不思議と出来ない。
 蝶は扉の前で銀の光を散らしながら、彼女を待っている。
 彼女は一歩を踏み出そうとするが、足に力が入らない。気づけば、彼女の足は震えていた。
 本当に、あの扉を潜っていいのか。
 本当の、自分の望みは何だったのか。
 本当は、自分が求めていたものは。
 喉が渇く。足の震えは全身へと伝わり、そのまま青い薔薇の中に崩れ落ちそうになる。
 だが、その時不意に彼女の肩を誰かが支えた。はっとして彼女がそちらを見れば、大きな黒い瞳が二つ、こちらを笑顔で見下ろしていた。
 赤毛の少年は、彼女の肩を支えたまま視線を扉に向ける。彼女より小さな体をした少年ではあるが、その手にこもった力は強く、またとても温かなものだった。
 大丈夫だよ。
 耳元で、少年が囁く。彼女を力づける、不思議な言葉。
 彼女の体の震えはいつの間にか収まっていた。彼女も少年に微笑みかけて、足に力を込める。そう、こんなところで立ち止まっているわけにはいかない。
 だって、約束したから。
 少年と、自分との間の、たった一つの約束。
 少年は頷いてそっと彼女の背を押し、そして彼女は――

 目を、開ける。
 スノウはゆっくりと白い手を伸ばし、窓から差し込む明るい光を避けるよう目の上にかざす。
 ――ライラがそっちに行ってる。
 起き抜けではっきりしない頭の中に響くのは、「彼」の声だ。スノウは口の中で小さく「ブラン」と呟いて、体を起こした。彼もまた寮のすぐ近くまで来ているらしいことを、記憶を借りて判断する。ライラの後をつけていたようだ。もし、ライラがスノウを強制的に連れ戻そうとするならば、ブランもライラと刃を交えることを覚悟しているらしい。
 少しだけ、胸が痛い。けれど、このわがままは貫き通すと決めたのだ。軽く唇を噛んで、虚空を強い瞳で見据える。
 どうする、と声無き声で問いかけてくるブランに、スノウはあえて声に出して答えた。
「会いたい。最後に、きちんとお話しなきゃ」
 ――了解。邪魔はしない。
 ブランは短く言って、それきり黙った。そのタイミングを見計らったわけでも無いだろうが、寮の入り口に取り付けられた鈴が鳴らされた気配があった。鋭いリムリカの声、こちらに向かってくる小さな足音、そして部屋の扉がノックされる。
「スノウ、起きてる?」
 セイルの声だ。スノウが「起きてるよ」と答えると、セイルがほんの少しだけ顔を覗かせる。彼の表情は、少しだけ暗い。昨日あんな話をしたせいもあるだろうし、ライラがスノウを連れて行かないか不安がっているというのもあるだろう。
 だから、スノウはそんな彼の不安も全て吹き飛ばすように、にっこりと笑ってみせる。
「ライラが来たの?」
「うん。スノウに会いたいって言ってるけど、どうする?」
「こちらに通してもらえるかな。二人きりで話がしたいの」
「……わかった」
 本当はスノウとライラの話を直接聞いていたかったのだろう、二人きりで、と言われてセイルはしゅんとした表情で頷いた。スノウは「あ、そうだ」と言って、セイルを手招きする。顔を近づけてきたセイルに、小さく耳打ちする。
「ブランが外に来てるの」
「ブランが?」
 セイルの表情が驚いたものに変わった。スノウは頷き、セイルの肩を叩く。セイルは心得たとばかりに小さく頷き、部屋の外に出て行った。
 スノウはベッドの外に足を投げ出し、扉を見据える。
 一歩一歩、近づいてくる硬い足音。神殿にいたときには毎日のように聞いていた、しっかりとした音色。それを確かめたスノウは、澄み切った青い瞳を見開き、開くドアの動きを瞬きもせずに見据えていた。