騎士と誘い

 こつこつ、と窓を叩く音。
 それはライラの遠い記憶を呼び覚ます。
 ユーリスの名門エルミサイアに生まれたライラは、当然のように女神ユーリスと神殿への忠誠を誓った。そして、エルミサイア家のしきたりとして幼いながらも騎士としての道を歩みはじめた、その頃の記憶。
 一日の修行を終えて、己に与えられた部屋に帰ったライラは、いつも窓の外に目を配ることを忘れなかった。
 何故なら、ライラが帰ると必ず一人の少女がそこから顔を覗かせるからだ。
 少女はいつも泥だらけの修道服を着ていて、本来なら綺麗な白い肌もすっかり煤けてしまっている。それは、少女が日がな神殿のあちこちを駆け回り、男の子顔負けの大立ち回りを演じていたからだと、ライラもよく知っていた。
「ライラ、おかえり!」
 無邪気な笑みを浮かべるその少女は、神殿に暮らす孤児だった。神殿の前に捨てられていたのを運よく拾われ、育てられたのだと聞く。ただ、この少女はそんな己の境遇など何処吹く風といった様子で気ままに神殿を駆け回っていた。
 ライラは、自分とは境遇も性格も全く違うこの少女に興味を抱き、また少女もことあるごとにライラの後をついて回った。
 それが、ライラとスノウの付き合いの始まりであったことを、今更ながらに思い出す。まさかスノウが女神ユーリスにその能力を認められ『知恵の姫巫女』として女神に仕える運命にあったなど、当時のライラは知る由もなかったのだが。
 こつこつ、と再び窓が叩かれる。
 ライラは現実へと引き戻され、そちらを見て目を丸くした。
 そこには、全身を黒い服に包んだ男……スノウを攫った異端研究者が立っていて、へらへらとした笑顔でライラに手を振っているのだ。ライラは即座に声を上げようとした。ここは神殿だ、仲間たちに報せれば男を捕縛することも出来るはずだ。
 だが、ライラはすぐに出しかけた声を喉の奥に飲み込んだ。
 この男は何処までもふざけた態度ではあるが、決して馬鹿でないのは対峙したライラが一番よく知っている。そんな男が、何も考えずに自らの敵である神殿に赴くはずもない。ライラが仲間を呼んだところで逃げ切れるという自信あっての大胆不敵な白昼の訪問だ。
 ライラはそれでも警戒を緩めぬまま男を睨むと、男は唇と指の動きでこう告げた。
『ちょっと付き合ってくれない?』
 ――ふざけるな。
 そう、ライラはきっぱりと唇で表してみせた。すると、男は笑みを尚更に深めて、ライラにのみ伝わるように、もう一度指で言葉を表す。男が使ってみせる指による表現は、神聖騎士の間で使われる暗号のようなものであり、何故異端研究者の男がそれを操れるのかも気になったが、それ以上に男が伝えてきた内容がライラの気を引いた。
『「エメス」の動き、知りたくない?』
 それには、流石のライラも即座に返答出来なかった。
 スノウの居場所と無事がわかった以上、現在の懸念は何よりも『知恵の姫巫女』を奪おうと企む『エメス』だ。だが、現在のところ捕縛した『エメス』の研究者たちは、情報を吐こうとはしていない。また、こちらも『エメス』の動きを掴みかねていたから、男の申し出は神殿にとってもありがたいものだ。
 しかし、男の言葉を簡単に信じていいのか、とライラは当然自問する。相手は異端研究者であり、神殿の敵。その男の誘いに乗ることは、騎士としてあってはならないことだ。
 ただ、ライラには男の言葉が罠だとは思えなかった。もし罠であればライラはとっくにこの男に陥れられている。認めるのも悔しいが、この男はライラよりずっと上手だ。その評価を下せる位には、ライラも冷静ではある。
 少しだけ考えて、ライラは指で返事をした。
『時間と場所は』
 本当に、自分はどうにかしてしまったとライラは思う。数日前の自分なら、問答無用で男に打ちかかっていたはずだ。今でも自分の頭の片隅ではそうすべきだという声が絶えず鳴り響いている。
 けれど、ライラは男の誘いに乗った。
 それは……スノウの無事を確保するためであると同時に、スノウのことをライラ以上に知る男に、興味を抱いてしまったためであることを、否定することは出来なかった。
 男は満足げに笑むと、指先でこう告げた。
『正午に、西地区の喫茶店で会おう』