影と蝶

 寮の壁に背をつけて、彼――ブランは白い息をつく。
 スノウを何とか送り届けたものの、騎士はスノウの居場所を掴んでしまった。もう少し時間を稼げると思ったが、やはり計算通りにはいかないものだ。
 だが、このまま神殿に連れ帰られるわけにはいかない。祭の最終日、聖ライラの日まではどうしても時間を稼がなくてはならないのだ。それは、どうしようもない自分が、彼女のために出来る唯一のこと。
 スノウの苦しみを共有したかのごとく痛む胸を押さえて。
「……セイル」
 枯れた声で呟くのは赤毛の少年の名前。
 自分では、スノウの願いを本当の意味で叶えることは出来ない。そう、ブランは思った。彼女は確かに笑顔を見せてくれるけれど、そこに一抹の、彼にはわからない感情が混ざりこんでいることくらいはわかる。
 そして、言葉を交わすたびにその理解できない感情が深まっていくのを、感じる。先ほど叩かれた頬はもう痛みを感じなかったけれど、あの瞬間、自分は完全にスノウの心とは乖離していたのだと思い知らされた。
 そして、彼に理解できないその感情を「寂しい」とはっきり言い表してみせたのは、あの見ず知らずの少年だった。
「セイル、か」
 もう一度、少年の名前を呟いて、その響きを確かめる。
 小さな背中をぴんと伸ばし、黒い瞳でこちらを真っ直ぐ見上げて。彼に「名前」を与えてくれたセイル。
 あの心優しい少年ならば、きっと最後までスノウの手を引くことができる。セイルと一緒にいる時のスノウは、ブランに見せるものとは違う、そしてブランが知っているどれとも違う、晴れやかな笑顔を浮かべてくれる。
 だから、これでいい。これで、いいのだ。
 自然と、銃の握りを強く握り締めていたブランは、ふと目を上げた。
 目の前に、銀色の蝶が飛んでいた。薄闇の中にも微かな光を放つ、不思議なアゲハ蝶。それは、まるで彼を誘っているかのように、冷たい風の中にゆったりと翼を羽ばたかせている。
「イリヤの蝶か」
 青い薔薇とともに葬られた魔王の蝶。それが何を意味しているのかは、スノウの記憶を通して知っている。今、何故ブランの目の前に現れたのかも、何となくはわかった。
 けれど。
「悪いが、俺様はお前に用はねえのよ」
 何故、と。問われた気がした。それは気のせいかもしれなかったけれど、彼は更に深く唇を笑みの形にして……それでいて笑みの色を見せない瞳を、頼りなく空に泳ぐ銀色の蝶に向ける。
「俺は、スノウじゃないから」
 胸元を握り締め、ままならない呼吸を整えて。
 『影』と名づけられた男は誘いの蝶に背を向けて、きっぱりと宣言する。
「――『行く』のは、あいつ一人だ」