少女と少年と夢

 セイルは、スノウの小さな「願い」を快諾してくれた。
 そして、スノウは今、一つの建物の前に立っている。
 煉瓦造りのその建物は、銀のリボンと青い薔薇で賑やかに飾り立てられていても、どっしりとした存在感がある。今は冬休みの期間中とあって、制服を着た生徒の姿は見えないけれど……遠くからは、楽団が練習する、賑やかな音色が聞こえてくる。きっと、寮にいたクラエスという獣人の少年も演奏をしているはずだ、とスノウは思う。
 そう、スノウは今、セイルの通う学校の前にいた。セイルは何故スノウがそんなことを言い出したのか不思議に思っていたのだろう、きらきらと目を輝かせるスノウに対して、首を傾げてみせる。
「そんなに、うちの学校が珍しい?」
「うん。わたし、学校って行ったことないから」
 学校というものがどのような場所かは知っている。蓄積された知識の中にはもちろん「学校」に関する知識もある。けれど、やはり知識を閲覧するのと自らその場所に赴くのは、違う。知識と経験が「違う」ということも、ここに来て初めて実感したことだ。
 セイルはスノウの言葉が意外だったようで、「そうなの?」と目を丸くした。
「クラエスと同じくらいに見えたから、おんなじ学生だと思ってた」
 セイルの言うとおり、スノウくらいの年の少女は普通ならば学校に行くものなのだろう。スノウはいつも、そんな自分と同い年くらいの少女たちの背を、視線で追いかけるだけだったことを思い出す。
 そんな少女たちに、どこか複雑な思いを抱いていたことも、思い出す。
 立ち尽くして、頭の奥に閉じ込めておいた記憶がどんどん溢れてくるのに任せていたスノウは、セイルに軽く手を引かれて我に返る。
「中、入る?」
「え、いいの?」
 スノウの記憶が正しければ、本来学校という施設は関係者以外立ち入ることを許されない場所のはずだ。言葉も無く「彼」に問うてみれば、スノウの考えを肯定する答えも返ってくる。
 だが、セイルは「大丈夫大丈夫」と言ってにっと白い歯を見せて笑った。
「見つかっても、ここの生徒だって言っちゃえばきっとバレない、はず!」
 「はず」というところを強調するのがおかしくて、スノウはくすくす笑ってしまった。セイルの言葉には決して根拠があるわけではないけれど、不思議と安心する。繋いだ手の温かさが、セイルの屈託の無い笑顔が、空っぽだった心にすっと入り込んでいくような、そんな感覚。
 だから、スノウも笑う。
 ひと時だけは、胸の奥に秘めた小さな痛みすらも忘れて。
「連れてってくれる?」
「うん! あ、でも教室は閉まってるかな……なら、部室にいこっか」
「部室?」
 スノウの問いに答える代わりに、セイルはスノウの手を引いて早足に歩き出した。スノウは手を引かれるままにセイルの背中を追って校門から中へと足を踏み入れた。その瞬間、祭の熱気とはまた違う、不思議な空気に包まれる。
 この空気を、よく知っていながら、感じたことは無かった。
 この風景も、毎日のように見たことがありながら、この目で見たことはなかった。
 何もかもがあまりに身近に感じられて、けれど自分にとっては全て初めてであることが、スノウには不思議だった。今までも記憶と経験の齟齬はあったが、ここまでではなかった。その理由を考える前に、セイルはスノウも知っている道を曲がる。
 そこには、校舎とは違う、けれど同じように煉瓦で造られた建物があった。部室棟だ、とスノウは思う。冬休みでも部室棟は賑やかで、祭に今から行く、もしくは行ってきた生徒たちの姿が見て取れる。誰もが自分たちの話に夢中で、セイルとスノウに気づいた様子はなかったけれど。
「スノウ、こっちこっち!」
 セイルはスノウを誘って、一つの扉の前に立つ。
 その扉にかかった看板には、『航空部』と綺麗な文字で書かれていた。
 ――ああ、この文字も知っている。
 スノウは軽い驚きをもって、それを受け止めた。理由は少し考えればわかることだったが、理由がわかった今でも、それが「不思議な気分」であることに変わりはない。
「ここが、セイルの部室?」
「そう。今は部員が俺と部長しかいないんだけどさ」
 セイルはそれが不満らしく、頬を膨らませながらも扉を開ける。初めは薄闇に包まれた部屋の中に何があるのかはわからなかったが、セイルが軽い足取りで奥のカーテンを開けたことで、部屋の中に光が満たされる。
 そして、スノウは息を呑んだ。
 部屋一面に張られた、空や飛空艇の絵と写真。それに、所狭しと並べられた飛空艇の模型。それらを見た瞬間、胸にこみ上げた思いに耐え切れず、スノウは「ああ」と声を上げていた。
 「懐かしい」。この学校に足を踏み入れたときから付きまとっていた、胸を締め付けられるような不可思議な感情に名前をつけるとすれば、それが一番近い。そして、胸を支配していた「懐かしさ」がこの部屋を見た瞬間に溢れ出たのだ。
「スノウ? どうしたの?」
 セイルがスノウの声を聞いて驚いたのだろう、目を丸くして問いかけてくる。スノウは慌てて首を振って、何とか湧き上がる感情を抑えこんで言う。
「ううん、何でもないよ。ね、これ、セイルが作ったの?」
 スノウは部屋の入り口近くに置いてあった、白い船の模型を指して言った。まるで蜻蛉のような、長い翼に細い胴体を持つ飛空艇だ。セイルは「違うよ」と首を横に振って、小さな手で模型を摘み上げた。壊れやすいものを持つように、そっと。
「十年くらい前の部長が作ったんだってさ。俺も、その人を見たことは無いんだけど……これはね、今空を飛んでる船じゃなくて、架空の船なんだ」
 確かにこのような形の船はスノウも知らない。ともすれば風に煽られて折れてしまいそうなほどに華奢な船だが、「飛ぶ」という言葉をそのまま形にしたようにも見える、不思議な船だ。
 いつかきっとこの船が空を飛ぶ日がやってくる。かつての部長はそう言って、この模型の船を残したのだ、と。セイルはまるで自分のことのように、誇らしげに胸を張った。
 だから、スノウは問うてみた。
「それは……セイルの夢でもあるの?」
「うん。だからさ、俺、飛空艇技師になりたい。船乗りもいいけど、空飛ぶ翼を自分で造るのが夢なんだ。この船を自分の手で造れたら、絶対にすごいだろ?」
 セイルの目は、きらきらと輝いている。
 十年前に作られたはずの模型が埃一つ付いていない状態で保管されているのも、代々航空部の部員たちがその「夢」を語り継ぎ、自らの夢として共有しているからだろう。そう思うと、スノウの胸にもぽつりと暖かいものが生まれる。
「いいな、そういうの」
「え?」
「わたし、そんなこと、考えたことなかった。夢とか、なりたいものとか、自分には関係ない遠い話だと思ってた」
 けれど、違うのね。
 口の中で呟いて、スノウは微笑む。
 今までは痛みのような感情を伴って聞こえた「夢」と言う言葉が、今だけはとてもくすぐったくて、暖かい。それを暖かいと思える自分が、とても幸福だと思う。セイルは不思議そうな顔でスノウの瞳を覗き込んでいたが、やがてにっと笑った。
「それじゃ、今のスノウの夢って何なの?」
「わたしの夢? それはね」
 スノウは笑顔で目を閉じる。
 青い空に消え行くぴんと伸びた白い翼。セイルと同じ空を見ていた「彼」の夢がスノウの脳裏に閃いて、消える。その代わりに、瞼の奥に浮かぶのは青い薔薇。銀色の蝶が導く、彼女の目指す場所。
「青い薔薇が咲く場所に行くこと。それが、今のわたしの夢」